新五代史卷六十一 世家第一 楊行密
楊行密(字は化源、廬州合淝の人。享年五十四)は乱に乗じて挙兵し、淮南を平定して揚州を拠点に呉国の基礎を築いた武将。唐から淮南節度使・呉王に封じられた。寛仁で信を重んじ士心を得たことで知られる。死後、子の楊渥が嗣ぎ、のち楊溥の代に呉が建国されると太祖武皇帝と追尊された。
史論(十国世家総序)
- ああ、唐がその政を失ってより、天下は時勢に乗じて群雄が起こり、刺青の徒や髠髪の徒、盗賊や商人あがりの者までもが、袞冕(天子の礼服)をまとって誇り高ぶった。呉と南唐は姦雄が国を窃取し、蜀は険阻で富み、漢(南漢)は険阻で貧しく、貧しい国はよく自ら強く在り続けたが、富める国は先に滅んだ。閩は狭陋、荆南は狭小、楚は蛮地を開いたが略奪に耐えられず、呉越はことに家畜のように民を扱った。嶺南(南漢)の蜑(南方の異民族)は百年の間に並び起こって雄を争い、山川もまた隔絶し風気も通じなかった。ことわざに言う「清風が興れば群陰は伏し、日月が出れば松明の火は消える」と。ゆえに真人(天命を受けた真の天子)が起これば天下は同じくその徳に帰する。ここに「十国世家」を作る。
出自と江淮平定
- 楊行密は字を化源といい、廬州合淝の人である。人となりは長身で力があり、百斤を手に挙げることができた。唐の乾符年間、江淮に群盗が起こり、行密は盗賊と見なされて捕らえられたが、刺史の鄭棨がその容貌を奇として縄を解き放免した。後に募に応じて州兵となり朔方に戍り、隊長に昇進した。任期が満ちて戍から還るとき、軍吏に憎まれ再び出戍を命じられた。行密が出立しようとして軍吏の舎を過ぎたとき、軍吏はうわべ良い言葉をかけて何を望むか問うと、行密は奮然として「ただ公の首が欲しいだけだ」と答え、その場で首を斬って携え出た。これにより兵を起こして乱を為し、自ら「八営都知兵馬使」と号した。刺史の郎幼復は城を棄てて逃げ、行密はついに廬州を占拠した。中和三年、唐は行密を廬州刺史に拝した。
- 淮南節度使の高駢が畢師鐸に攻められると、高駢は行密を行軍司馬に表薦し、行密は数千の兵を率いて赴いた。天長まで至ったとき、師鐸はすでに高駢を囚え、宣州の秦彦を揚州に招き入れていた。行密は入城できず蜀岡に屯した。師鐸は数万の衆を率いて出撃し、行密は偽って敗走を装って営を棄てて逃げた。師鐸の兵は飢えていたため勝ちに乗じて争って営に入り、軍需物資を収めようとした。行密は反転して撃ち、師鐸は大敗して単騎で城に走り入り、ついに高駢を殺した。行密は高駢の死を聞くと軍を白装束にして城に向かい三日間哭し、その西門を攻めた。秦彦と師鐸は東塘に奔り、行密はついに揚州に入った。この時城中は倉廩が空虚で、飢民が互いに殺し合って食い、夫婦や父子が互いに引かれて屠殺されて売られ、屠者は羊や豚のように肉を切り分けた。行密は城を守りきれず逃げようとしたが、蔡州の秦宗権がその弟宗衡に淮南を掠めさせた。秦彦と師鐸は東塘から還って宗衡と合流し、行密は城を閉じて出なかった。やがて宗衡は偏将の孫儒に殺され、孫儒は高郵を攻め破った。
- 行密の客であった袁襲は「我らは新たに集めた衆で空城を守っているが、諸将の多くは高駢の旧臣であり、厚恩や信によって心服させているわけではない。今、孫儒の兵は勢い盛んで攻めれば必ず克つ。これは諸将が去就を決めかね、強弱を見て向背を選ぶ時である。海陵鎮使の高霸は高駢の旧将で必ず我らに従わないだろう」と言った。行密は軍令をもって高霸を召し、高霸はその兵を率いて広陵に入った。行密は高霸に天長を守らせようとしたが、袁襲は「疑って召しておきながら再び用いられようか。かつ我らが孫儒に勝てば高霸に用はなく、もし勝てなければ天長は我らのものにはならぬ。殺してその兵を併せるに如くはない」と言った。行密はそこで犒軍にかこつけて高霸を捕らえその一族を殺し、その兵数千を得た。まもなく孫儒は秦彦と畢師鐸を殺しその兵を併せて行密を攻めた。行密は海陵に逃げようとしたが、袁襲は「海陵は守り難く、廬州は我らの旧治であり城廓や倉廩が完備しており後図を為すべきだ」と言い、行密はそこで廬州に走った。
- しばらく行方を定めかね、行密が「軍装を巻いて道を倍にして西の洪州を取ろうと思うがどうか」と袁襲に問うと、袁襲は「鍾伝は新たに江西を得たばかりで勢いはまだ図りがたい。秦彦が広陵に入ったとき、池州刺史の趙鍠を召して宣州を委ねたが、秦彦はすでに死に、鍠はよりどころを失って宣州を守っているが、それは彼の本志ではなく、しかも人となりも公の敵ではない。ここは取るべきだ」と答えた。行密は兵を率いて趙鍠を攻め、曷山で戦って大破した。宣州を包囲すると鍠は城を棄てて逃げ、追撃して殺した。行密はついに宣州に入った。龍紀元年、唐は行密を宣州観察使に拝した。行密は田頵・安仁義・李神福らを遣わし浙西を攻めさせ蘇州・常州・潤州を取り、二年には滁州・和州を取った。
- 景福元年、楚州を取った。孫儒は行密を追って広陵に入ったが、久しく守りきれず城を焼き、老弱を殺して軍糧に充て、その衆五十万と号して江を渡り行密を攻めた。田頵・劉威らの諸将が迎撃するも敗れ、行密は銅官に逃げようとした。客の戴友規は「孫儒は気勢鋭く兵も多いが、その鋭鋒には当たれずとも、これを挫いて敝れさせることはできる。避けて走れば擒にされるだけだ」と言い、劉威も「城を背にして柵を堅くすれば戦わずして彼を疲れさせられる」と言った。行密はこれに従い、しばらくして孫儒の兵は飢えかつ大疫にかかり、行密は全軍で撃って孫儒を敗り捕らえた。孫儒は死に臨んで劉威を見て「公がこの策で我を敗ったと聞いた。公のような将がいれば負けぬはずがなかったものを」と言った。行密は孫儒の残兵数千を収め、黒装束に甲を着せて「黒雲都」と号し常に親軍とした。この年、再び揚州に入った。唐は行密を淮南節度使に拝し、乾寧二年に検校太傅・同中書門下平章事を加えた。
- 行密は田頵に宣州を、安仁義に潤州を守らせ、昇州刺史馮弘鐸が帰順すると田頵らを分遣して掠取させ、淮以南・江以東の諸州はことごとく下った。蘇州を攻めて刺史成及を捕らえた。四年、兗州の朱瑾が行密に奔った。もとは朱瑾は後梁に攻められ晋に救いを求め、晋は李承嗣に精鋭の騎兵数千を率いさせ朱瑾を助けたが、朱瑾は敗れて共に行密の下に奔った。行密の兵はもとより江淮の人が多く弱かったが、朱瑾の精鋭騎兵を得て兵勢は大いに振るった。この年、後梁太祖は葛従周・龐師古を遣わし行密の壽州を攻めさせたが、行密は清口で後梁兵を破って龐師古を殺し、葛従周が兵を収めて退くのを渒河でも大破した。五年、銭鏐が蘇州を攻め、周本と白方湖で戦い周本は敗れ蘇州は再び越の手に落ちた。
- 天復元年、李神福を遣わして越を攻めさせ、臨安で戦って大いに破り、その将顧全武を捕らえて帰った。二年、馮弘鐸が叛き宣州を襲い、田頵と曷山で戦って敗れ、海に入ろうとした。行密は自ら東塘に至って迎え、人を遣わし弘鐸に「勝敗は用兵の常のこと、一戦の負けでどうして自らを海島に棄てる必要があろうか。我が府は小さいがなお君を容れるに足る」と伝えた。弘鐸は感泣し、行密は十余騎で単身その軍に馳せ入り、弘鐸を連れて帰り節度副使に任じ、李神福を代わりに昇州刺史とした。この年、唐の昭宗は岐にあり、江淮宣諭使の李儼を遣わして行密を東面諸道行営都統・検校太師・中書令に拝し、呉王に封じた。三年、李神福を鄂岳招討使としてこれをもって杜洪を攻めさせ、荆南の成汭が杜洪を救うと李神福は君山で破った。
- 後梁兵が青州を攻め、王思範が救いを求めてきたので王茂章を遣わして救わせ、大いに後梁兵を破って朱友寧を殺した。友寧は後梁太祖の子である。太祖は大いに怒り自ら二十万と号する兵を率いて王茂章を撃ったが再び敗れた。田頵が叛いて昇州を襲い、李神福の妻子を捕らえて宣州に連れ帰った。行密は李神福を召して田頵討伐に当たらせた。田頵はその将王壇を遣わしこれを迎え、また李神福に書を送りその妻子をもって招いたが、李神福は「私は一兵卒として呉王に従い事を起こし、今や大将となった。忍んで徳に背き妻子を顧みることができようか」と言い、その使者を斬って自ら誓いを立てた。将兵はこれを聞いて皆感奮した。吉陽磯に至ったとき、田頵はその子李承鼎を捕らえて招いたが、李神福は左右を叱って矢を放たせ、ついに王壇の兵を吉陽で破った。行密は別に台濛を遣わし田頵を撃たせ、田頵は敗死した。
- はじめ田頵・安仁義・朱延壽らは皆行密が微賤であったころから従っていたが、江淮がようやく平定されると彼らは休息を願わず、三人とも猛悍で制しがたく、行密はしばしば除こうとしたが機会を得なかった。天復二年、銭鏐がその将許再思らに叛かれ包囲されると、許再思は田頵を招いて銭鏐の杭州を攻めさせ、まさに落城寸前というところで行密が銭鏐の賂を受けて田頵に兵を解かせたため、田頵はこれを恨んだ。田頵はかつて広陵で議事した際、行密の諸将の多くが田頵に賄賂を求め、獄吏までも求めてきたことに怒り「役人は私を獄に落とそうというのか」と言い、帰って反乱を謀った。安仁義はこれを聞いて同じく反乱し、東塘を焼いて常州を襲った。常州刺史の李遇が出撃して安仁義を望み罵ると、安仁義は軍を止めて「李遇がこれほど私を辱めるからには必ず伏兵があるだろう」と言い、兵を引いて退いた。果たして伏兵が発せられ、夾岡まで追ったが、安仁義は旗を植え甲を解いて食事をとり、李遇の兵は追い込めなかった。安仁義は再び潤州に入り、行密は王茂章・李徳誠・米志誠らを遣わし包囲させた。
- 呉の軍中で朱瑾は槊(長槍)の名手、米志誠は弓の名手とされ、いずれも第一と評されたが、安仁義は常に弓の腕を自負し「志誠の弓は瑾の槊に及ばず、瑾の槊も私の弓に及ばない」と言った。王茂章らと戦うたびに必ず命中させてから発したため、呉軍はこれを畏れて近づかなかった。行密もまた招降しようとしたが、安仁義は決断できずにいた。王茂章はその隙を突いて地道を穴掘って潜入し、安仁義を捕らえて広陵で斬った。朱延壽は行密の夫人朱氏の弟である。田頵・安仁義が叛こうとしたとき、行密は朱延壽を疑い、偽って目の病を装い、朱延壽の使者と会うたびにわざと見誤って見せた。あるとき歩いていて柱にぶつかって倒れ、夫人が扶けて長い間して蘇ったふりをし、泣いて「私の事業がすでに成ったというのに目を失うとは、これは天が私を廃しているのだ。我が子らは皆事を任せるに足らない。延壽に付託できれば私に思い残すことはない」と言った。夫人は喜んで急ぎ朱延壽を召し、朱延壽が着くと行密は寝室の門で出迎え、刺殺した。行密はその夫人を出して嫁がせた。
- 天祐二年、劉存を遣わし鄂州を攻めさせ、その城を焼いた。城中の兵は囲みを突いて出たが、諸将が急ぎ撃つよう請うと、劉存は「撃てば再び入り城はますます固まる。去るに任せれば城は取れる」と言った。この日城は破れ杜洪を捕らえて広陵で斬った。九月、後梁の兵が襄州を攻め破り、趙匡凝が行密のもとに奔った。十一月、行密は卒し、享年五十四。諡は武忠。子の楊渥が立ち、楊溥が僭号すると行密を追尊して太祖武皇帝とし、陵を興陵と称した。