新五代史卷四十九 雜傳第三十七 孫方諫

狼山堡から義武軍節度使へ

  • 鄭州清苑の人。初め定州の西北に狼山堡があり、定の人々は常にここで契丹を避けて保った。深意という尼がその中に居り仏法で民を誘い、民の多くはこれに帰した。後に尼が死ぬとその屍が朽ちないと堡の人々は言い伝え、これを奉じて事えた。尼は孫氏を姓とし、方諫は自ら尼の族人と称しその法を継承し、堡の人々は彼を推して主とした。晋出帝の時、義武軍節度使は方諫が山中に徒党を集めることを憎み辺患になることを恐れ、遊弈使として上表した。方諫は求めが叶わなかったことから北の契丹に通じ、契丹が後に晋を滅ぼすと方諫を義武軍節度使としたが、まもなく方諫を雲中に徙そうとすると、方諫は命を受けず徒党を率いて再び狼山に入った。漢高祖が起つと、契丹は火を放って定州を焼き人民を掠めて北に去ったが、方諫はこれを聞くと狼山から入りこれに拠り帰した。漢高祖はこれを嘉しすぐさま方諫を義武軍節度使に拝した。周太祖の時、鎮国に鎮を移り、弟の行友を定州留後とした。世宗が太原を攻めた際、方諫は行在に朝し還って京師に従ったが、洛陽に至って病を得て匡国に鎮を移り、洛陽で卒した。年六十二。太師を贈られた。