新五代史卷四十七 雜傳第三十五 劉處讓

枢密使として宦官と対立

  • 滄州の人。若くして張万進の親吏となり、万進が梁に入り泰寧軍節度使となると処讓を牙将とした。万進が梁に叛き晋に附くと梁は劉鄩を遣わしこれを討たせ、万進は処讓を遣わし晋に救援を求めさせたが、晋王はまさに梁と対峙中で出兵できずにいたところ、処讓は軍門で自ら耳を切って訴え「万進が包囲されているのは晋に附いたからです、その急を顧みず出兵しなければ死を請います」と言うと、晋王は「義士である」と壮とし出兵させたが、兵が河を渡らないうちに万進は梁兵に敗れ、処讓はそのまま晋に留まって仕えた。莊宗の即位後、客省使となりしばしば四方への使いで旨に称い、天成中に引進使に遷り左驍衛大将軍に累遷した。廃帝の時、魏州軍が乱れその帥劉延皓を逐うと范延光を招討に遣わし処讓を河北都転運使とし、晋高祖の即位後は宣徽南院使を歴任した。范延光が反すると高祖は楊光遠を招討使とし処讓にその軍事に参加させ、まもなく副招討使張従賔が河陽で叛くと処讓は兵を分けこれを撃破し、還って光遠とともに鄴を攻め年を越えても落とせなかったが、その後延光に降意があり躊躇していたところ、処讓が城に入り禍福を諭すと延光はついに出て降った。
  • 唐の制度では枢密使は常に宦者がこれを務めていたが、梁が敬翔・李振を用いて以来、莊宗が初めて武臣を用い将相よりも重んじられるようになった。高祖の時、宰相桑維翰・李崧が枢密使を兼ねると、処讓と宦者たちは内心不満であった。光遠が延光を討った際、晋の重兵が自らの掌握下にあることから挙動がしばしば驕恣となり、その求請を高祖が頗る裁抑したが、処讓は光遠に「これは上の意ではありません、みな維翰・崧らがあなたを妬んでいるのです」と言い、光遠は大いに怒った。兵が罷むと光遠は高祖に見え維翰らが自分を阻んだと訴え、高祖はやむを得ず維翰らを罷め処讓を枢密使とした。処讓は在職中、陳述するところの多くが旨に称わず、母の喪に服すと高祖はついに再び枢密使を拝させず、その印を中書に付してその職を廃した。処讓は喪に居ること一年で起復し彰徳軍節度使・右金吾衛上将軍となり、疾により卒す。年六十三。太師を累贈された。