朗州の武貞軍
- 武陵の人。凶悍で刺青と断髪の風習を持つ。唐廣明年間、湖南の飢饉と盗賊の中、同郷の区景思・周岳らと蛮兵数千を集め、宴を催して坐中の豪傑を伍長に任じ「土団軍」と号し推されて帥となった。高駢の荊南鎮でその麾下となり淮南に従軍したが逃げ帰り刺史崔翥を殺して朗州を占拠、唐昭宗に澧朗を武貞軍として節度使に任じられた。
- 澧陽の向瓌が刺史吕自牧を殺して澧州を占拠するなど溪洞の諸蛮も各地で略奪を働く中、滿も舟で荊江を上下し州県を攻めた。楊行密の杜洪(鄂州)攻めを荊南の成汭が救援に出て君山で溺死すると、滿は荊南を襲い焼き払って引き上げた。
- 滿は府中に深い池を掘り、客を招いて「蛟龍水怪が棲む水府」と称し酔って裸で池に入り器を取って戯れるなど奇矯な人物であった。沅水を引いて城の堀とし長橋を築いて防備を固めた。天祐中に卒し、子の彦恭が自立、楊行密に付き荊湖の患いとなったが、開平元年に馬殷の攻撃を受け、塹を頼みに1年以上持ちこたえたのち楊行密の下へ逃亡。弟の彦雄ら7人は馬殷に捕らえられ汴の市で斬られ、彦恭も淮南で客死し、澧朗は楚に帰した。