新五代史卷四十一 雜傳第二十九 盧光稠

南康の盗徒から刺史へ

  • 両者とも南康の人。光稠は容貌雄偉だが才略に乏しく、全播は勇敢で見識に優れ、常に光稠の人柄を高く評価していた。唐末、南方で群盗が起こると2人は兵を集め、衆は全播を頭領に推したが、全播は「賊のままでいるか、功を成すか」と問い、木を斬りつけて「命に従わぬ者はこの木のようになる」と衆を脅し、光稠を帥に立てた。
  • 全播は嶺南を攻めた王潮から虔州・韶州を奪い、光稠の弟光睦にも潮州を攻めさせたが、光睦は軽率に進んで敗れかけたところを全播の伏兵で救い潮州を得た。劉巖(劉龑)が南海に興り光睦を撃退し数万で虔州に迫った際も、全播は精兵1万を伏せ老弱5千で誘い出す策で劉巖を大破した。光稠は戦功をすべて部下に譲る全播をますます賢者と敬った。
  • 梁初、江南嶺表は呉と南漢に分かれる中、光稠は独り虔・韶二州を挙げて京師に朝貢を願い出て、梁太祖は百勝軍を置き光稠を防禦使兼五嶺開通使、のち鎮南軍留後とした。開平5年、光稠は病で全播に符印を託したが全播は受けず、光稠没後は子の延昌を立てて仕えた。
  • 延昌が遊猟を好み、部将黎求に閉門で拒まれ殺されると、求は全播も謀殺しようとしたが全播は病と称して免れ、求が自立して梁に防禦使を求めるも急死。次いで李彦圖が自立し全播をなお疑ったが、全播は病篤いふりを貫き通し、彦圖の死後は州人に請われて防禦使となった。虔州を7年治め善政を敷いたが、楊隆演の劉信に虔州を攻略され広陵に移り、85歳で卒した。かつて劉龑が韶州を取り、全播が捕らえられた後、虔州は呉の領となった。