新五代史卷四十 雜傳第二十八 溫韜

唐陵の盗掘

  • 京兆華原の人、元は盗賊。李茂貞に仕え華原鎮将、李彦韜と改名。茂貞が華原県を耀州とし韜を刺史としたが、梁太祖の鳳翔包囲時に一度梁に降り、再び茂貞に叛くなど寝返りを繰り返した。梁がついに耀州を崇州、鼎州を裕州、義勝軍を静勝軍と改め韜を節度使とし本姓温、名を昭圖に復させた。
  • 在鎮7年、境内にある唐の諸陵をことごとく発掘し副葬品の金宝を奪った。中でも昭陵は最も堅固であったが、羨道を下ると宮殿さながらの造りで、正寝の東西に石牀・石函・鉄匣があり歴代の図書・鍾繇・王羲之の筆跡が紙墨も新しいまま保存されており、韜はこれを悉く奪い世に流出させた(乾陵だけは風雨で発掘できなかった)。
  • 朱友謙が梁に叛き同州を取ると晋が援軍を送り華原に迫ったため韜は転鎮を求め忠武軍へ。荘宗が梁を滅ぼすと韜は許州から入朝し伶人景進を通じ劉皇后に賄賂を贈って厚遇を得、李紹沖の姓名を賜ったが、郭崇韜は「この者は陵墓を暴いた賊、赦してはならない」と諫めた。荘宗は「既に赦した、信を失えない」として鎮に帰したが、明宗入洛後は段凝とともに投獄され、のち赦されて田里に帰されたが翌年、德州に流されて死を賜った。

史論

  • 秦漢以来、聡明英偉の主も厚葬の弊に惑わされ、いかに説く者がいてもその惑いを解くことはできなかった。富貴の欲がその心を篤くし、まだ起きていない禍は形がなく心を動かしにくいためであろう。溫韜の事跡を聞けば、少しは戒めとなろう。五代の君主はしばしば非業の死を遂げ、死後のことまで顧みる余裕がなかった。ただ周太祖だけは韜の禍を鑑とし、臨終に世宗へ書を遺し、瓦棺・紙衣で葬り、葬儀の前に棺を人に見せ、葬後に石に刻んで「下宮を作らず守陵の妾を置くな」と後世に戒めた。その意は丁寧懇切であったが、実録にはその葬の薄厚が記されていない。また生前の衮冕・通天冠・絳紗袍を各2そろえ、1つは京師に、1つは澶州に、剣甲も各2つ、1つは河中に、1つは大名に分けて葬らせたが、その真意を知る者はいない。