新五代史卷四十一 雜傳第二十九 鍾傳
洪州鎮南軍
- 洪州高安の人。州の小校から黄巢の乱に乗じ観察使を逐って留後を自称、唐は洪州を鎮南軍として傳を節度使とした。江夏の伶人出身の杜洪(鄂州)が楊行密に攻められた際、傳を頼りとしていたが敗死。危全諷・韓師德ら撫州・吉州の勢力を傳は概ね服属させたが全諷だけは屈せず包囲、城内で火の手が上がった際「君子は人の危急に乗じない」と攻撃を控え、天に祈って火が止み、全諷は翌日服属を申し出て娘を傳の子匡時に嫁がせた。
- 傳は江西を30余年治め太保・中書令・南平王に至った。天祐3年没し子の匡時が留後を求めたが、全諷は「鍾氏に3年仕えたのち自分が節度使になる」と言い放ち、傳の養子延規と匡時の後継争いに乗じて楊渥に援軍を求め、匡時は敗れて広陵に送られた。開平3年、全諷は江西で鍾氏復興を図って挙兵したが楊隆演の将周本に敗れ、江西は呉に帰した。