一生
- 李襲吉の父の図は洛陽の人。ある説では唐の宰相林甫の後裔という。乾符中、襲吉は進士に挙げられ河中節度使李都の榷塩判官となったが、後にこれを去って晋に赴いた。晋王は襲吉を榆次令とし、やがて掌書記とした。襲吉は博学で唐の故事に多く通じ、節度副使に遷り、官は諫議大夫に至った。晋王と梁との間に隙があり交兵すること数年、後に晋王がしばしば苦境に陥り梁と和を通じようとしたとき、襲吉に梁への書を書かせた。その辞は甚だ弁麗であり、梁の太祖は人にこれを読ませ「毒手尊拳、交々暮夜に於てし、金戈鉄馬、蹂躙して明時に於てす」の句に至って歎じ「李公は僻地に一隅に処りながらこのような士がいる、もし我が得て虎に翼を付けたようにできたらよかったのに」と言い、その従事敬翔を顧みて「私のためによく答えよ」と言ったが、翔の答えた書は辞が巧みでなく、襲吉の書が広く世に伝わった。襲吉は人となり恬淡で文辞をもって自ら楽しんだ。天祐三年に没し、盧汝弼が代わって副使となった。汝弼は書画に巧みであったが文辞は襲吉に及ばなかった。その父簡求は河東節度使であり唐の名家であったので、汝弼もまた唐の故事に多く通じていた。晋王が薨じ荘宗が晋王を嗣ぐと、承制による官爵の封拝はみな汝弼から出た。十八年に没した。荘宗の即位後、襲吉に礼部尚書、汝弼に兵部尚書を贈った。