新五代史卷二十八 唐臣傳第十六 張憲
一生と最期
- 張憲は字を允中、晋陽の人である。人となり沈静寡欲、若くして学を好み琴を鼓し酒を飲むことができた。荘宗は平素からその文辞を知り、天雄軍節度使掌書記とした。荘宗の即位後、工部侍郎租庸使を拝し、刑部侍郎判吏部銓・東都副留守に遷った。憲は吏事に精しく大いに能政があった。荘宗が東都に幸し定州の王都が来朝すると、荘宗は憲に鞠場を治めさせ都と蹴鞠をした。初め荘宗は東都で建号した際、鞠場を即位壇としていたが、このとき憲は「即位壇は王者が興ったところです、漢の鄗南、魏の繁陽の壇は今なお存し毀してはなりません」と言い、別に宮の西に鞠場を治めることにしたが、場が未完成のうちに荘宗は怒って両虞候に急ぎ壇を毀して場とするよう命じた。憲は退いて「これは不祥の兆しだ」と嘆いた。
- 初め明宗が北で契丹を伐った際、魏の鎧仗を取って軍に給したが、細鎧五百があり憲はこれを給しながら報告しなかった。荘宗は魏に至ってこれを大いに怒り、憲を責め馳せて自らこれを取ろうとしたが、左右が諫めて止めた。また憲に庫銭がいくらあるか問うと、憲は庫簿を上げ銭三万緡とあったので、荘宗はますます怒り、寵愛する伶人史彦瓊に「私は群臣と飲博するのに十余万銭を要するのに、憲は古紙で私を欺く、私が河を渡る前には庫銭は常に百万緡あった、今どこへ行ったのか」と言った。彦瓊が憲のために弁解してようやく止んだ。
- 郭崇韜が蜀を伐つ際、憲を相に任じられると薦めたが、宦官・伶人は憲が朝廷にいることを望まず、枢密承旨の段徊は「宰相は天子の面前にあり事に非がある場合はなお改め作すことができますが、一方の任はもしその人でなければ患いは小さくありません、憲の材はまことに用いるべきですが一方に任じるに如くはありません」と言い、太原尹北京留守とした。
- 趙在礼が乱を起こしたとき、憲の家は魏州にあったが、在礼はその家を厚遇し人を遣わして書を送り憲を招いたが、憲はその使者を斬りその書を開かずに上進した。荘宗が弑され明宗が京師に入ったとき、太原はなおこれを知らず、永王存霸が太原に奔ったので、左右は憲に「今、魏の兵が南に向かい、主上の存亡はまだ分かりません、存霸の来訪には詔書がなく、乗ってきた馬の鞦(しりがい)が断たれています、これは戦に敗れた者ではないでしょうか、拘留して命を待つべきです」と告げた。憲は「私はもともと書生で寸功もないのに主君は私を大変厚遇してくださった、どうして二心を懐いて変事に幸いを求めようか、ただ存霸と生死をともにするのみだ」と言った。憲の従事張昭遠は憲に表を奉じ明宗に勧進するよう教えたが、憲は涕泣してこれを拒んだ。まもなく存霸は髪を削ぎ北京巡検の符彦超に見え僧となって生を求めようとしたが、彦超の麾下の兵が大いに騒ぎ立て存霸を殺した。憲は逃亡して沂州に奔ったが、これも殺された。
史論
嗚呼、私は死節の士について三人を得て三人を失った。鞏廷美・楊温の死は私はすでにこれを哀しんだが、張憲の事に至ってはとりわけ痛惜する。私は旧史で憲の事実を考証したが、永王存霸・符彦超と憲の伝に記される始末はみな異なっており、考正することができない。おそらく変故が倉卒であった時、伝える者が誤ったのであろう。しかしその大節を要約すれば見て取ることができる。憲の志は誠に忠と言うべきである。その家を顧みず在礼を絶ちその使者を斬り、涕泣して昭遠の説を拒んだとき、その志は甚だ明らかであった。しかし存霸と生死をともにしようとしながら、存霸が殺されるに及んで太原を棄てて出奔したことについては、なおその心が果たして何を欲したのか分からない。旧史は憲が城を棄てた罪に座して死を賜ったと記すが、私はそうではないと考える。私は憲についてその美志を成そうと欲するが、要するに憲は官守を失いその死も明らかでないため、死節の伝には列することができない。