新五代史卷二十八 唐臣傳第十六 趙鳯

趙鳯(?―清泰二年)は幽州の人。燕王劉守光の圧政を避けて出家し、のち後唐に仕えて翰林学士・端明殿学士となった。剛直で直言を好み、任圜の非業の死を悲しんで安重誨を面詰し、周玄豹の登用を諫め、安重誨への謀反の誣告を退けるなど、権臣を憚らず諫言したことで知られる。天成四年に宰相(門下侍郎同中書門下平章事)を拝したが、後に安重誨を擁護したことで朋党とみなされ節度使に出された。

年表(2件)

学士としての諫言

  • 趙鳯は幽州の人である。若くして儒学によって名を知られたが、燕王劉守光の時、燕人はみな黥面されて兵とされたので、鳳は恐れて髠髪し僧となり、燕王の弟守奇に依って身を匿した。守奇が梁に奔ると、梁は守奇を博州刺史とし、鳳はその判官となった。守奇が没すると鳳は去って鄆州節度判官となった。晋が鄆州を取ると、荘宗は鳳の名を聞いて得たことを喜び、扈鑾学士とした。荘宗の即位後、鳳を中書舎人・翰林学士に拝した。
  • 荘宗と劉皇后が河南尹張全義の邸に幸し酒宴が酣となると、皇后に全義を父として拝させるよう命じた。翌日宦官を遣わして学士に牋を作らせ全義に上りこれを父として事えさせようとしたが、鳳は上書して極力その不可を言った。全義の養子郝継孫が法を犯して死ぬと、宦官・伶人はその貲財を望み、籍没を固く請うたが、鳳はまた上書して「継孫は全義の養子であり別籍の財を持つべきではなく、法においても籍没に至るべきではありません。刑した人の財を利するようなことは天下に示すべきではありません」と言った。当時皇后・群小が権を用い、鳳の言はみな聞き入れられなかった。
  • 君主は文字を通じておらず、四方の章奏は常に安重誨に読ませていたが、重誨もまた書を知らず、奏読はしばしば意にそぐわなかった。孔循は重誨に儒者を求めて左右に置くよう教えたが、二人はともに唐の故事を知らなかった。そこで端明殿学士を置き馮道と鳳をこれとした。鳳は直言を好み性格は剛強で、平素から任圜と親しく、圜が相となってからは大いに薦め進めた。初め端明殿学士の班は翰林学士の下にあり、結衔もまた官の下であったが、翌年鳳は礼部侍郎に遷り、圜に説いて学士を官の上に昇らせ、また班を翰林学士の上にするよう詔せしめた。
  • 圜が重誨に殺され謀反と誣いられると、当時重誨がまさに権を用いており明宗も詰問できなかったが、鳳だけは号泣して重誨に「任圜は天下の義士なのにどうして謀反などしましょうか、それなのに公はこれを殺した、何をもって天下に示すのですか」と叫んだ。重誨は恥じて答えられなかった。

重誨への直言と晩年

  • 術士の周玄豹は人相をもって人事を言い当てることが多く、荘宗は特にこれを信じ重んじ、北京巡官とした。明宗が内衙指揮使であったとき、重誨は玄豹を試そうとし、他の者と明宗の服を替えさせ明宗を下座に座らせ、玄豹を召してこれを相せしめた。玄豹は「内衙は貴将です、この者はそれに当たりません」と言い、下座の明宗を指して「これがそうです」と言い、明宗のためにその後の貴きこと言うべからずと語った。明宗の即位後、玄豹を神のような予言者として召そうと思ったが、鳳は諫めて「好悪は上が慎むべきものです、今陛下がその術を神として召せば、傾国の人がみな奔走し、吉凶の説が互いに惑乱し合い、害は小さくありません」と言い、明宗はついに再び召さなかった。
  • 朱守殷が反すると明宗は汴州に幸し、守殷が誅されるとまた鄴に幸するよう詔した。当時従駕の諸軍はまさに河南から家を移して汴に至ったばかりで北行を欲さず、軍中は騒然とし、定州の王都は天子が汴州に幸して守殷を誅し、さらに鄴に幸するのは自分を図るものと疑い自ら安んじなかった。宰相は百官を率いて閤に詣り鄴への幸を罷めるよう請うたが明宗は聞かず、人情は大いに恐れ群臣は再び言うことができなかった。鳳は手ずから上疏して安重誨を責め、言葉は甚だ切直であった。重誨がこれを明宗に告げると、ついに幸は罷められた。
  • ある僧が西域に遊び仏牙を得て献上し、明宗はこれを大臣に示した。鳳は「世に仏牙は水火にも傷つけられないと伝わっています、その真偽を検証しましょう」と言い、斧でこれを斫ると手に応じて砕けた。当時宮中の施物はすでに数千に及んでいたが、鳳が砕いたことによって止んだ。天成四年夏、門下侍郎同中書門下平章事を拝した。
  • 秘書少監の于嶠は荘宗の時から鳳とともに翰林学士であり、嶠もまた直言を好み鳳と平素親しかったが、鳳がすでに貴くなり嶠は久しく昇進できず、自ら才名は鳳の上にあると思いながら用いられなかったので、蕭希甫とともにしばしば時政を非難し、特に鳳を誹謗した。鳳は内心これを恨みながらも発する機会がなかったが、嶠が隣家と水路の権利を争い安重誨に怒りを買われたことがあり、鳳はすぐさま嶠を秘書少監に左遷した。嶠は酒に酔って鳳を訪ねたが、鳳はその無礼を予見して洗髪を口実に会うのを辞退した。嶠は取次の吏を罵り、また従者の直廬で小便をして去った。省吏がこれを鳳に告げると、鳳はその事を明宗に奏し、明宗は詔を下して嶠の官を奪い武州に長流とし、百姓もまた振武に流されたので、天下はこれを冤枉とした。
  • その後安重誨が辺彦温らに謀反を告げられると、明宗は彦温らを廷詰させたところみな詐りであることを白状し、すぐに斬った。数日後、鳳が中興殿で事を奏し「臣は姦人が重誨を誣告した者があると聞きました」と啓すると、明宗は「これは些細な事だ、朕はすでに処置した、卿は問う必要はない」と言った。鳳は「臣の聞くところは国家の利害に関わります、陛下はこれを些細な事とすべきではありません」と言い、殿の屋根を指して「この殿が尊厳で宏壮であるゆえんは、棟梁・柱石が支えているからです。もしその一つの棟を折り一つの柱を除けば傾き危うくなります。大臣は国の棟梁・柱石です、かつ重誨は微賤より起こり艱難を経て陛下を中興の主とならしめました、どうして姦人にこれを動揺させてよいでしょうか」と言った。明宗は容を改めて謝し「卿の言は正しい」と言い、彦温らの三家を族滅した。
  • その後重誨が罪を得ると群臣で敢えて言う者はなかったが、鳳だけはしばしば重誨の忠を尽くしたことを言った。明宗は鳳を朋党とみなし、安国軍節度使に罷めた。鳳は鎮にあって得た俸禄をすべて将校・賓客に分け与えた。廃帝の即位後、太子太保に召されたが足の病があり自宅に居た。病が篤くなると、自ら蓍を投げて占い、嘆いて「我が家系は代々五十を過ぎる者がなく、みな貧賤であった。私は今その数を過ぎ富貴もまた何を求めようか」と言った。清泰二年、自宅で没した。