新五代史卷二十六 唐臣傳第十四 李嚴

生涯

  • 李厳、幽州の人、初名は讓坤。劉守光に仕えて刺史となり、後に荘宗に仕えて客省使となった。厳は人となり明敏で多芸、騎射を習い書にかなり通じ弁が立った。同光三年(925年)、蜀に使いし王衍に唐の興復の功徳の盛んなることを述べ、音辞は清亮で蜀人はこれを聞いて皆感動した。衍の枢密使宋光嗣は厳を召して酒宴を設け、くつろいで中国の事を問うと、厳は「先年、天子は大号を鄴宮で建て、鄆から汴に趣き旬日ならずして天下を定め、梁の降兵はなお三十万に及びます。東は海に及び西は甘・涼を極め、北は幽陵を懾服させ南は閩嶺を越え、四方万里、臣妾たらざるはありません。淮南の楊氏は累世の強を承け、鳳翔の李公は先朝の旧に恃みますが、皆子を遣わして入侍させ稽首して藩と称しています。荆湖・呉越に至っては貢賦を修め珍奇を効し、自ら列郡に比されることを願う者が絶える月もありません。天子はこれを徳で懐かせ威で震わせており、天下の勢いは一つにならざるを得ないでしょう」と答えた。光嗣は「荆湖・呉越は私の関知するところではありません。鳳翔は蜀の姻戚ですが、その人は反覆常なく信じられましょうか。また契丹が日増しに強盛と聞きますが、大国はこれを憂えずにすみましょうか」と言った。厳が「契丹の強さは偽梁と比べてどうでしょうか」と問うと、光嗣は「梁に比べればやや劣るでしょう」と答えた。厳は「唐が梁を滅ぼしたのは朽ちた木を折るようなもの、まして梁に及ばないものならなおさらです。唐兵は天下に布かれており、一鎮の衆を発すれば敵を跡形もなく滅ぼせます。しかし天は四裔を九州の内に置かず、古来の王者は皆存して論じなかったのは、窮兵黷武を望まなかったからです」と答えた。蜀人は厳の応対を聞いて益々これを奇とした。これは君臣共に凡庸で暗愚でありながら険阻に恃んで自ら安んじ、極めて奢りと僭越を尽くしていたことを示している。
  • 厳は蜀から還ると取るべき状況を具さに述べた。初め荘宗は厳に名馬を持たせ蜀に入らせ珍奇を市して後宮に充てさせようとしたが、蜀の法は厳しく珍奇の物が剣門から出ることを禁じており、珍奇でないものが出ることを「入草物」と呼んだ。これにより厳は何も得られず還り、ただ金地の敷物や毛布の類を得たに過ぎなかった。荘宗はこれを聞いて大いに怒り「物が中国に帰るのを『入草』と言う、王衍は入草の人となることを免れられるだろうか」と言い、これにより蜀を伐つ議が決まった。冬、魏王継岌が西征し、厳を三川招討使とし康延孝と共に兵五千で先行させると、通過した州県は皆迎え降った。延孝が漢州に至ると、王衍は「李厳が来れば降る」と告げ、皆蜀を伐つ謀は厳から始まったと考え、衍は厳を深く怨んでおり行くべきではないとされたが、厳はこれを聞いて喜び、すぐに馬を馳せて益州に入った。衍は厳に会うと妻と母を託し、その日のうちに蜀を挙げて降った。厳が還ると、明宗は泗州防禦使とし客省使は元のままとした。
  • その後、孟知祥が蜀で反抗的になると、安重誨は次第にこれを裁抑し、これを制する術を考えていた。厳はそこで西川兵馬都監となることを求めたが、出発しようとした際、その母は「お前は先に蜀を破る謀を発した、今行けば蜀の人々にその死をもって報いることになろう」と言ったが、厳は聞かなかった。初め厳と知祥は共に荘宗に仕えていた頃、知祥は中門使であり、厳はかつて過ちを犯し荘宗が大いに怒ってこれを斬るよう命じたが、知祥は刑を行う者に少し緩めるよう戒め、入って荘宗に「厳の小過をもって喜怒により人を殺すべきではありません、士大夫の心を失うことを恐れます」と言った。荘宗の怒りは少し解け、知祥に厳を笞打つよう監督させ、二十打って釈放した。知祥は厳に旧恩があったとはいえ、その来ることを嫌い、蜀人も厳が来ると聞いて皆嫌った。厳が至ると、知祥は酒を置いてくつろいで厳に「朝廷が公を遣わしたのか、それとも公自身が来たいと望んだのか」と問うた。厳が「これは君命です」と答えると、知祥は激怒して「天下の藩鎮には皆監軍がいない、どうしてお前だけがここに来たのか。これは孺子が朝廷を惑わしたに過ぎない」と言い、その場で捕らえて斬った。明宗はこれを究明できなかった。知祥はこれによりついに反した。