新五代史卷二十六 唐臣傳第十四 張延朗

生涯

  • 張延朗、汴州開封の人。梁に仕え、租庸使として鄆州糧料使であった。明宗が鄆州を克すると延朗を得て再び糧料使とし、後に宣武・成徳に転じて元従孔目官とした。明宗の即位後、荘宅使・宣徽北院使・忠武軍節度使とした。長興元年(930年)、三司使を拝した。唐の制では戸部・度支は本司の郎中・侍郎がその事を判じ、別に塩鉄転運使があったが、その後用兵によって国計が重んじられ、宰相がその職を兼領するようになった。乾符(874~879年頃)以後、天下は喪乱し国用は益々空しくなり、初めて租庸使が置かれ用兵は常のものでなく随時取り立てて兵が罷むと止んだ。梁が興ると初めて租庸使を置いて天下の銭穀を領し戸部・度支・塩鉄の官を廃した。荘宗が梁を滅ぼすとこれを踏襲して改めなかった。明宗が即位すると租庸使孔謙を誅してその使職を廃し、大臣一人に戸部・度支・塩鉄を判じさせ「判三司」と号した。延朗はそこで三司使の設置を請い、事は中書に下され中書は唐の故事に従い延朗に特進・工部尚書、諸道塩鉄転運等使を充て戸部・度支の事を兼判させ、詔して延朗を三司使に充て班は宣徽使の下とした。三司に使を置くことはこれより始まった。延朗は心算に長じると称され三司を自らの任としたが、天下の銭穀についてはこれといった建明もなかった。明宗がかつて出遊し延朗を召して共に食事をしようとしたが、延朗は来ず、使者を通じて「三司の事が忙しく暇がありません」と報告し、これを聞いた者は笑った。泰寧・雄武軍節度使を歴任し、廃帝の代には吏部尚書兼中書門下平章事・判三司とされた。晋高祖(石敬瑭)が異志を抱いた際、太原にあった三司の財貨は延朗がことごとく調べ取り上げ、高祖は深くこれを恨んだ。晋兵が起こると廃帝は自ら親征しようとしたが内心では高祖を畏れ躊躇して決しかねた。延朗は劉延朗らと共に帝に必ず行くよう勧め、延朗は諸道の民を丁として籍し、その馬をも徴発したが、丁と馬が至らぬうちに晋兵は京師に入り、高祖は延朗を捕らえて殺した。