生涯
- 寇彦卿、字は俊臣、開封の人。代々宣武軍の牙将を務めた家柄。太祖が初めて鎮に就いた際、通引官とし、累進して右長直都指揮使・洺州刺史を領させた。羅紹威が牙軍を誅そうとした際、太祖は彦卿を魏に遣わして計を図らせ、彦卿は密かに紹威のために計画し、ついに牙軍をことごとく誅した。彦卿は身の丈八尺、鼻高く面広く声は鐘のごとく、騎射に工み書史を好み、太祖の意をよく察し行動が皆その意に沿った。太祖はかつて「敬翔・劉捍・寇彦卿は皆天が私のために生んだ者だ」と語るほど彦卿を愛し、愛馬の一丈烏を彦卿に賜った。太祖が鳳翔を包囲した際、彦卿を都排陣使とし、彦卿は烏馬に乗って陣前を馳せ突き、太祖はこれを見て「真の神将なり」と評した。
- 初め太祖は崔胤と洛陽遷都を謀ったが昭宗は許さず、その後昭宗が鳳翔に奔ると太祖は兵で包囲した。昭宗が出た翌年、太祖が兵を率いて河中に至り、彦卿を遣わして表を奉じ遷都を迫らせると、彦卿は長安の住民を悉く駆り立て東へ移らせ、人々は皆家を壊して筏を作り渭水に浮かべて下り、道々号泣し天を仰いで「国賊の崔胤・朱温が我らをこうさせた」と大罵した。昭宗も陵廟を顧みて徬徨し去るに忍びず、左右に俚語で「紇干山頭に凍え死ぬ雀あり、なぜ飛び去って生きる地に向かわぬのか」と語り、共に涙を流した。昭宗が華州に至った時、何皇后が身重であることを理由に華州にとどまり冬を待ってから行きたいと太祖に告げさせたが、太祖は大いに怒り彦卿に「お前は行って官家(帝)を急がせよ。一日たりとも留まらせてはならない」と言い、彦卿は華州に馳せ戻り、即日昭宗を道に上らせた。
- 太祖の即位後、彦卿を感化軍節度使に拝し、一年余りで左金吾衛大将軍・金吾衙仗使に召した。彦卿が朝から天津橋に至った際、民の梁現が道を避けなかったため、前駆の者が現を捕らえて橋上の石欄に投げつけ死なせた。彦卿は太祖に自首し、太祖はこれを惜しんで彦卿に銭を出させ現の家に償わせて罪を贖わせようとしたが、御史司憲崔沂が彦卿を弾劾し法に照らして裁くよう請うたため、太祖はやむなく彦卿を左衛中郎将に落とし、後に襄州防禦使に復し、河陽節度使に遷した。太祖が弑された際、彦卿は太祖の画像を出して生前のように仕え、客に先朝の話をするたびに涙を流した。末帝の即位後、威勝に鎮を移された。彦卿は聡明で人に仕えるのに善かったが、寵を頼んで威を作し殺を好み猜忌が多く、鎮で卒した。享年五十七。