新五代史卷十五 唐家人傳第三 和武憲皇后曹氏・昭懿皇后夏氏・宣憲皇后魏氏・淑妃王氏・哀皇后孔氏・從璟・秦王從榮・從璨・從璋・從溫・從敏
唐家人傳第三のうち、明宗の淑妃王氏(?–947年頃)と明宗の子秦王從榮(?–933年頃)を採る。王氏は邠州の餅屋の子で「花見羞」と号され、梁の故将劉鄩の侍児から明宗の後宮に入って宮中の実権を握り、明宗没後も庶子許王従益母子を庇護したが、漢の高祖の南下に伴い母子ともに殺された。従榮は異母兄從璟の死後最年長の皇子として兵権を握り、次第に高位を加えられ天下兵馬大元帥にまで至ったが、明宗の病篤きに乗じて兵を挙げようとして鎮圧され、夫妻ともに誅殺された。
唐家人傳第三
和武憲皇后曹氏・昭懿皇后夏氏(明宗の后妃)
- 明宗には三后一妃があった。和武憲皇后曹氏は晋国公主を生み、昭懿皇后夏氏は秦王従栄・愍帝を生んだ。宣憲皇后魏氏は潞王従珂の母である。淑妃王氏は許王従益の慈母(育ての母)である。曹氏・夏氏はいずれもその世家が伝わらない。夏氏は封爵がなく、明宗が即位する前に卒した。明宗の天成元年(926年)、楚夫人であった曹氏を淑妃に封じ、夏氏を追封して晋夫人とした。長興元年(930年)、淑妃を皇后に立て、夏氏の生んだ二子がすでにともに王となっていたことから、夏氏を追冊して皇后とし、諡して昭懿とした。
宣憲皇后魏氏(廢帝母)
- 魏氏は鎮州平山の人である。初め平山の民王氏に嫁ぎ、子を生んで十歳になっていた。明宗が騎将であった頃、平山を掠めてその子と母を得て帰った。数年後、魏氏は卒し太原に葬られた。その子が潞王従珂である。明宗の代、従珂がすでに王となっていたので魏氏を追封して夫人とした。廃帝が即位すると魏氏を追尊して皇太后とし、陵寝を建てる議が起こったが、太原の石敬瑭が反したため、京師河南府の東に寝宮を立てるにとどまった。清泰三年(936年)六月丙寅、工部尚書崔悛を遣わして皇太后の宝冊を奉り、諡して宣憲とした。
淑妃王氏(許王従益の慈母)
- 淑妃王氏は邠州の餅屋の子である。美色があり「花見羞」と号された。若くして梁の故将劉鄩に侍児として売られたが、鄩が卒すると王氏は帰る所がなかった。この時、明宗の夫人(曹氏)はすでに卒しており、まさに別室を求めていたところ、王氏のことを安重誨に告げる者があり、重誨はこれを明宗に告げて納れさせた。王氏はもとより鄩から金を多く得ていたので、これをことごとく明宗の左右や諸子の婦人に贈り、人々はみな王氏を称誉した。明宗はいよいよこれを愛したが、夫人曹氏は人となり簡素で事を避ける性質であったため、これより王氏は寵を専らにした。明宗が即位すると皇后を立てる議が起こり、曹氏が立てられるべきところであったが、曹氏は王氏に「私はもとより多病で気短な性質です、妹が私に代わってください」と言った。王氏は「后は帝の匹(つれあい)です、至尊の位を誰が敢えて犯すことができましょうか」と言い、そこで曹氏を皇后に立て、王氏を淑妃とした。妃は皇后に仕えることも甚だ謹み、帝が朝早く起きて洗顔・櫛髪・服御する際は妃がすべて左右で世話をし、朝が終わって帝と皇后が食事をする際も妃が食事に侍り、片付けてから退くというように、少しも怠ることがなかった。皇后の心もいよいよこれを愛したが、しかし宮中の事はみな妃が主った。明宗が病むと、妃は宦者孟漢瓊とともに左右の出納を掌り、ついに権勢を専らにするようになり、安重誨や秦王従栄の誅殺にもみな関わった。劉鄩の諸子はみな妃のゆえに官爵を封拝された。愍帝が即位すると皇后を尊んで皇太后とし、妃を皇太妃とした。初め明宗の後宮に子を生んだ者があり、妃にこれを母(養母)とさせた。これが許王従益である。従益の乳母である司衣王氏は、明宗がすでに老い、秦王が兵権を握っていたので、自ら身を託して後の計としようと望み、「子(従益)が秦王を思っています」と言った。この時従益はすでに四歳であったが、たびたび教えて自ら秦王に会いたいと言わせた。明宗は乳母に子を連れて秦王府を往来させ、これにより従栄と私通するに至った。従栄はそこで王氏に宮中の動静を伺わせるようになった。従栄がすでに死ぬと、司衣王氏は「秦王は実は兵をもって宮に入り天子を衛ろうとしただけなのに、反したと見なされて誅せられた」と怨言を漏らした。愍帝はこれを聞いて大いに怒り、司衣王氏に死を賜ったが、この事は太妃にも連座することとなり、これより内心不快に思い、太妃を至徳宮に遷そうとしたが、太后がもとより妃と親しかったのでその意を傷つけることを恐れて止めた。しかし太妃への待遇は甚だ薄くなった。廃帝が立つと、かつて妃の院で酒宴を開いたことがあり、妃が酒を挙げて「願わくは皇帝の位を辞して比丘尼となりたい」と言うと、帝は驚いてその理由を問うた。妃は「小児(従益)の身の上は思いがけず定まりましたが、もし大人(廃帝)に容れられなければ、死ぬ日にどんな顔で先帝にお会いできましょうか」と言い、涙を流した。廃帝もまたこれに悽然とし、以後の待遇は頗る厚くなった。石敬瑭の兵が京師を犯すと、廃帝は一族を集め自焚しようとした。妃は太后に「事は急を告げています、しばらく回避して姑(叔母、太妃を指す)の助けを待つべきです」と言ったが、太后は「わが家がここに至って、どうして一人生き残るに忍びましょうか。妹は自ら勉めなさい」と言い、太后は帝とともに焚死した。妃は許王従益とその妹とともに鞠院に隠れて難を免れた。晋高祖が立つと、妃は自ら尼となることを願い出たが許されず、至徳宮に遷された。晋が都を汴に遷すと妃母子はともに東に移り宮中に置かれ、高祖の皇后は妃に母のように仕えた。天福四年(939年)九月癸未、詔して郇国三千戸をもって唐の許王従益を郇国公に封じ唐の祀を奉じさせ、服色・旌旗はすべて旧制のとおりとした。太常が荘宗・明宗・愍帝の三室を立てる議をし、至徳宮を廟としたが、詔して高祖・太宗を含む五廟を立て、従益に歳時の祭祀を主らせた。出帝が即位すると妃母子はともに洛陽に還った。契丹が京師を犯すと、趙延寿がかつて娶っていた明宗の公主はすでに死んでいたので、耶律徳光は延寿に従益の妹を娶らせた。これが永安公主である。公主は自分の母が誰であるかを知らず、もとより妃に養われていた。妃が京師に至り婚礼を主ると、徳光は明宗の画像を見て香を焚き再拝し、妃を顧みて「明宗は私と兄弟の約をなした、あなたは私の嫂だ」と言ったが、まもなく困らせて「今日はもう私の嫁だ」と言った。そして従益を彰信軍節度使に拝したが、従益は辞退して赴任せず、妃とともに洛陽へ還った。徳光が北へ帰り蕭翰を留めて汴州を守らせたが、漢の高祖が太原で挙兵すると、翰は北へ去ろうとし、人を遣わして従益を召し中国の統治を委ねようとした。従益母子は徽陵の域中に逃げて使者を避けたが、使者に迫られ東に赴くこととなり、ついに従益を「権知南朝軍国事」とした。従益が崇元殿に御すると、翰は契丹の諸将を率いて殿上で拝し、晋の群臣は殿下で拝した。群臣が太妃に謁見すると、太妃は「わが家の母子は孤弱の身であるのに翰に迫られている、これがどうして福であろうか、禍がじきに至るだろう」と言った。そこで王松・趙上交を左右丞相、李式・翟光鄴を枢密使、燕の将劉祚を侍衛親軍都指揮使とした。翰は契丹兵千人を留めて祚に属させて去った。漢の高祖が兵を擁して南下すると、従益は人を遣わして高行周・武行徳らに救援を求めたが、行周らはみな来なかった。そこで王松と謀り燕兵をもって城を閉じ自ら守ろうとしたが、妃は「わが家は亡国の余に過ぎない、どうして人と天下を争えようか」と言い、人を遣わして上書し漢の高祖を迎えさせた。高祖は従益がかつて行周を召したにもかかわらず来なかったことを聞き、郭従義を先に京師へ入らせ、妃母子を殺させた。妃は死に臨んで「わが家の母子に何の罪があるのでしょうか、なぜ我が子を留めて、毎年寒食に一椀の飯を明宗の墓に注がせてくれなかったのですか」と叫んだ。これを聞いた者はみな悲しんだ。従益が死んだ時、年十七であった。
愍帝の哀皇后孔氏
- 愍帝の哀皇后孔氏の父孔循は横海軍節度使であった。后は賢行があり四子を生んだ。愍帝が即位すると后を立てたが、まだ冊命が終わらぬうちに難が起こった。愍帝が出奔した際、后は病み子は幼くいずれも従うことができなかった。廃帝が立つと、后と四子はみな殺された。晋高祖が立つと追諡して哀皇后とした。
明宗の四子
- 明宗の四子は従璟・従栄・従厚・従益という。
従璟
- 従璟は初め従審といい、人となり驍勇で戦を善くし、謙退して謹み慎んだ。荘宗の戦に従いしばしば功を立て金槍指揮使となった。明宗の軍が魏で変を起こした際、荘宗は従璟に「お前の父は国に大功があり忠孝の心は私が自ら知るところである。今、乱軍に迫られているだけなのだから、お前が自ら赴いて私の意を伝え、疑いを抱かせぬようにせよ」と言った。従璟は馳せて衛州に至ったが元行欽に捕らえられ、殺されようとした際、従璟は「私の父は乱軍に迫られているだけなのに、あなた方はその心を理解せず、私もまた魏に至ることができません。願わくは帰って天子をお守りしたい」と叫んだ。行欽はこれを釈放した。荘宗はその言葉を憐れみ、名を継璟と賜わり自分の子とした。荘宗が汴州へ行く際、将士の多くが道中で逃亡したが、従璟だけは去らなかった。左右の者が禍を逃れるよう勧めたが従璟は聞かなかった。荘宗は明宗がすでに黎陽を渡ったと聞くと、また従璟を遣わして意を通じさせようとしたが、行欽は不可とし、ついに従璟を殺した。明宗が即位すると太保を贈った。
史論
- 欧陽脩曰く、父君がいなければどうして生を得られようか。世に「忠と孝を全うすることはできない」というが、はたしてそうであろうか。君と父は人倫の大本であり、忠と孝は臣と子の大節である。どうしてこの二つが互いに用いられずかえって害し合うことがあろうか。それはただ私と義の違いによるにすぎない。私をもってすればこの二つは両方とも損なわれるが、義をもってすればこの二つは両方とも全うされる。その父が兵をもってその君を攻める場合、その子たる者は父に従うべきか君に従うべきか。答えて言う、身は従うところに従い、志は義に従えばよい。身が君のもとにあれば君に従い、その君に「子は父を射てはならない、どうか兵を交えないでください」と辞し、また号泣して父に「どうか兵を捨てて我が君のもとにお帰りください」と呼びかける。君が敗れれば死をもってこれに殉じ、父が敗れれば喪を終えてから君に仕える。父に従う者は必ず父に「君を射てはならない、どうか兵を捨てて我が君のもとにお帰りください」と告げ、君が敗れればこれに死をもって殉じ、父が敗れれば君に罪を待ち、君がこれを赦せば喪を終えてから仕える。古来、孝を知る者は舜に及ぶ者がなく、義を知る者は君臣父子の際に詳しい者に及ぶ者がない。もし不幸にしてこの事態に遭った者があれば、やはりこのようにすればよいのである。従璟の荘宗に対する処し方は、従うべきところを知ってその死を得たと言えよう。哀しいことである。
秦王從榮
- 秦王従栄は天成元年(926年)、検校司徒兼御史大夫をもって天雄軍節度使・同中書門下平章事を拝し、三年(928年)、河東に鎮を徙された。長興元年(930年)、河南尹兼判六軍諸衛事を拝した。従璟が死んだ後、従栄は諸皇子の中で最年長であり、また兵権を握っていた。しかし人となりは軽薄で鷹のように鋭い目つきをし、頗る儒学を好み歌詩を作り、多くの文学の士を招いて詩を賦し酒を飲んだので、後生の浮薄な徒が日々阿諛して驕らせ、将相大臣はみなこれを患ったが、明宗は頗るその非を知りながらも裁制することができなかった。従栄がかつて側に侍った際、明宗が「お前は軍政の余暇に何を修めているか」と問うと、従栄は「暇があれば書を読み、諸儒と経義を講じ論じております」と答えた。明宗は「経典には君臣父子の道があるが、これは碩儒・端士でなければ親しむことができない。私は先帝(荘宗)が歌詩を作るのを好むのを見たが、まったく意味のないことであった。お前は将家の子で文章はもとより習っていないのだから、うまくいくはずがなく、人の口の端に上って笑われるだけだ。私は年老いて経義には通じないが、それでもしばしば聞くことを喜んでいる。その他は学ぶに足りない」と言った。この年秋、従栄を秦王に封じた。故事では諸王が封を受ける際は廟に朝せぬのが常であったが、有司は意を迎えその礼を重んじようとし「古は禘嘗の祭りに際して爵禄を発するのは、専らにしないことを示すためです。今、大封を受けながら廟に告げないのは敬順の道ではありません」と建議した。そこで従栄は朝服を着て輅車に乗り鹵簿を具えて朝堂に至り冊を受け、出てから冊を車に載せて太廟に朝じた。京師の人はみなこれを栄誉とした。三年(928年)、兼中書令を加えた。有司はまた「故事では親王の班は宰相の下です。今、秦王の位は高く班が下位というのは不釣り合いです」と言い、そこで宰相と班を分かちその右に居ることとなった。四年(929年)、尚書令を加え食邑万戸とした。太僕少卿何沢が上書して従栄を皇太子に立てるよう請うたが、この時明宗はすでに病んでおり、沢の書を得て不快になり、左右を顧みて「群臣は太子を立てようとしている、私は河東で老いを養うことにしよう」と言った。そして大臣を召して太子を立てる議を諮ったが、大臣はみな可否を敢えて言わなかった。従栄が入って「臣は姦人が臣を太子に立てようとしていると聞きましたが、臣は実はそれを望んでおりません」と申し上げると、明宗は「これは群臣の望みにすぎない」と言った。従栄は退出して范延光・趙延寿らに会うと「諸公は私を太子に立てようとしているが、これは私の兵権を奪って東宮に幽閉しようとしているだけだ」と言った。延光らはこれを患え、そこで従栄に天下兵馬大元帥を加えた。有司はまた「元帥はある時は諸道を統べ、ある時は一面を専らにするもので、前代に天下大元帥という名号はなく、その礼にも考証すべきものがありません。節度使以下、およそ兵職を領する者はみな橐鞬(弓矢入れ)を具えて軍礼をもって庭参し、同中書門下平章事を兼ねる者は初見の際にもこれと同様とし、その後は客礼を許すことといたします。凡そ元帥府の文符が天下に行われる際は、みな帖文を用い班を宰相の上に昇らせてください」と請うた。従栄は元帥府で大宴を開き、諸将にみな頒給し、控鶴・捧聖・厳衛の指揮使には人ごとに馬一匹・絹十匹、その諸軍指揮使には人ごとに絹十匹、都頭以下には七匹から三匹を与えた。またさらに厳衛・捧聖の千人を牙兵とすることを請い、入朝のたびに数百騎を先後に従えて弓を張り矢をつがえ道を馳せ走らせたので、見る者は震え畏れた。従栄はまたその僚属と四方の遊士に「征淮檄」を試作させ、自分が天下を統一する意図を陳べさせた。言事の者が「諸王のために師傅を選んで訓導を加えるべきです」と請うと、宰相はその事を難しく思い従栄自身に選ばせることとした。従栄はそこで翰林学士崔梲・刑部侍郎任賛を元帥判官に請うたが、明宗は「学士に私に代わって言わせるのはよくない」と言った。従栄は退出して「元帥に任じておきながら属僚の推挙すら許されないとは、私には理解できない」と怒った。将相大臣は従栄の権位がますます高まりながらこのように軽率であるのを見て、みなその禍を知りながらも敢えて言う者がなく、ただ延光と延寿だけが密かに禍を避ける意を持ち、しばしば明宗に涙を流して枢密の任を解いてもらうよう求め、二人とも身を引いた。そして従栄の難が起こった。十一月戊子、雪、明宗は宮西の士和亭に行幸し傷寒(風邪)を患った。已丑、従栄は枢密使朱弘昭・馮贇とともに広寿殿へ起居を問いに入ったが、帝はすでに人を認識できなくなっていた。王淑妃が「従栄がここにいます」と告げ、また「弘昭らがここにいます」と告げたがいずれも応答がなかった。従栄らは去り、そこで帝は雍和殿に遷され、宮中はみな慟哭し夜半に及んだ。帝が榻の上で蹶然として自ら起き上がると、看病していた者はみな去っていた。殿上で漏刻を守る宮女に「夜漏はどれほどか」と問うと、宮女は「四更です」と答えた。帝はすぐに肺のような肉塊を数片吐き、涎液を斗余も溺(もら)した。漏刻を守る者が「大家(陛下)、大丈夫でいらっしゃいますか」と問うと、帝は「私にも分からぬ」と答えた。しばらくして六宮の者がみな至り「大家は魂が戻られました」と言い、粥一器を進めると、朝までに病はやや癒えた。しかし従栄は病と称して朝しなかった。初め従栄は宋王従厚が自分より賢いことを忌み、自分が嗣となれないことを恐れていた。平生驕り自らを誇りながら、人が宋王の善を語るのを聞くと愀然として満たされない色を見せた。従栄が起居を問いに参入した際、帝がすでに人を認識できなくなっているのを見、退出後に宮中の哭声を聞いて帝がすでに崩じたと考え、兵をもって宮に入る謀を巡らした。その押衙馬処鈞に弘昭らへ「牙兵をもって宿衛に入りたい、どこに居ればよいか」と告げさせた。弘昭らは「宮中はすべて王がお住まいになれるところです、王ご自身でお選びください」と答え、そのうえで密かに処鈞に「聖上(明宗)はご無事です、王はどうか忠孝に力を尽くすべきで、軽々しく行動なさらないように」と言った。処鈞はこれを詳しく従栄に告げたが、従栄は処鈞をまた遣わし弘昭らに「お前たちは一族のことを考えないのか」と語らせた。弘昭・贇および宣徽使孟漢瓊らは王淑妃のもとに入って謀りごとを告げ、「この事は侍衛の兵馬の助けが必要です」と言い、そこで侍衛指揮使康義誠を竹林の下に召して謀った。義誠には秦王府に仕える子があったため、その謀にすぐには同意できず、弘昭に「私は将校の身、あなたが使うようにするだけです」と言った。弘昭は大いに恐れた。翌日、従栄は馬処鈞を遣わして馮贇に「私は今日、興聖宮に入って居ることにする」と告げ、また義誠にも告げると、義誠はこれを承諾した。贇はすぐに宮中に馳せ入り、義誠・弘昭・漢瓊らが中興殿の閤で議事しているのに会った。贇は義誠を責めて「主上が我らを養ってこられたのはまさに今日のためです。今、安危の機は間髪を容れません。どうして子ゆえに躊躇し、秦王をこの門まで来させることができましょうか。主上の身はどこに帰することになるのですか。我らにまた子孫が残せましょうか」と言った。漢瓊は「賤命は惜しむに足りません、私自ら兵を率いてこれを拒みましょう」と言い、すぐに入って「従栄が反し、兵はすでに端門を攻めています」と告げた。宮人は互いに顔を見合わせ号泣した。明宗が弘昭らに「本当にそうなのか」と問うと、「そのとおりです」と答えた。明宗は手で天を指し涙を流し、しばらくして「義誠、自ら処置せよ、京師を震動させるな」と言った。潞王の子重吉が側におり、明宗は「私はお前の父とともに微賎から起こり天下を取り、しばしば危窮から救われた。従栄は何の力を得てこのような悪事を働くのか。お前は急ぎ兵をもって諸門を守れ」と言った。重吉はすぐに控鶴兵をもって宮門を守らせた。この日、従栄は河南府から兵千人を擁して出た。従栄の僚属は甚だ多かったが、正直の士は多く憎まれ、とりわけ憎まれていたのは劉賛・王居敏であり、親しんでいたのは劉陟・高輦であった。従栄が兵を出す際、陟・輦と轡を並べ耳語しながら進み、天津橋の南に至って日影を指して輦に「明日にはもう王居敏を誅殺できよう」と言った。そこで兵を橋の北に陣し、胡牀に腰かけて康義誠を召しに人を遣わしたが、端門はすでに閉じられていた。左掖門を叩いてもまた閉じていたが、門の隙間から捧聖指揮使朱弘実が騎兵を率いて北から来るのを見て、すぐに従栄に馳せ告げた。従栄は驚き恐れて鉄の護心を求め、自ら弓矢を調えた。皇城使安従益が騎兵三百を率いてこれを衝くと、従栄の兵はこれを射て従益はやや退いた。弘実の騎兵五百が左掖門から出て、ちょうど河を渡ろうとしたとき後軍の来る者が甚だ多くなった。従栄はそこで走って河南府に帰り、その判官任賛以下はみな走り定鼎門を出て、牙兵は嘉善坊を劫かして潰えた。従栄夫妻は牀の下に隠れたが、従益がこれを殺した。明宗は従栄がすでに死んだと聞き、悲しみに咽んで危うく榻から落ちそうになり、絶えて蘇ることが再びあった。馮道は百寮を率いて入り見えると、明宗は「わが家の事がこのようになろうとは、群臣に会わせる顔がない」と言い、君臣は相顧みて涙を流し襟を沾した。従栄の二子はまだ幼かったがみな父に従って死んだ。その後六日にして明宗が崩じた。
明宗の姪四人
- 明宗の兄弟はいずれも世家に見えないが、姪が四人あり、従璨・従璋・従温・従敏という。
從璨
- 従璨は初め右衛大将軍となった。安重誨が権勢を用いていた頃、諸王将相はみなこれに下ったが、従璨は人となり剛猛で少しも屈することがなく、性質は洒脱で財を軽んじ人に施すことを好んだので、重誨はこれを忌んだ。明宗が汴州へ行幸すると従璨を大内皇城使とした。かつて会節園で酒宴を開き酔って戯れに御榻に登ったところ、重誨がこの事を奏したため房州司戸参軍に貶され死を賜った。重誨が誅されると詔してその官を復し、太保を贈った。
從璋
- 従璋は字を子良という。若くして騎射を善くした。荘宗の代、兵を率いて常山を守り、明宗の兵が魏で変を起こしたと聞くとやはり兵を挙げて邢州に拠った。明宗が即位すると捧聖左廂都指揮使とし、改めて皇城使とし饒州刺史を領し、彰国軍節度使を拝し、義成に鎮を徙された。明宗が汴州へ行幸した際、従璋は民を率いて貢献しようとしたが、その従事が不可であると諫めたので、従璋は怒り弓を引いてこれを射ようとし、この件で座罪となり罷めて右驍衛上将軍となった。しばらくして保義に出鎮し、河中に徙った。長興四年(933年)夏、洋王に封ぜられた。晋高祖が立つと威勝に鎮を徙され隴西郡公に降封された。従璋は人となり貪欲で卑しかったが、保義に鎮してから節を折って自ら修め、南陽では頗る善政の遺愛があった。天福二年(937年)卒した。年五十一。
從溫
- 従温は字を徳基という。初め北京副留守となり、安国・忠武・義武・成徳・武寧の五節度使を歴任し、兖王に封ぜられた。晋高祖が立つと再び忠武軍節度使となった。従温は人となり貪欲で卑しく、しばしば天子の器物・服飾を作って僭越したが、宗族・賓客が諫めても聞かなかった。その妻関氏が牙門で大声を上げ「従温は反しようとして天子の服飾・器物を作っております」と叫んだので、従温は大いに恐れ、これをことごとく毀した。明宗の子八人のうち、晋の出帝の代までにすでに六人が亡くなり、ただ従温と従敏だけが存命であった。太后(出帝の母)は常に「私にはただ一人の兄しかいない、どうして法をもって縛ることができようか」と言い、従温はこれによりいよいよ驕った。かつて親吏の薛仁嗣らを誣告して私腹を肥やしたとし、ことごとくその家財数千万を没収したが、仁嗣らは闕に詣って自ら訴え、事は有司に下された。従温の罪状は明白であったが、出帝は太后の意を傷つけることを恐れ、これを釈放して問わなかった。開運二年(945年)、河陽三城に徙り任地で卒した。この頃、従璋の子重俊が虢州刺史として贓罪に坐したが、これも太后のゆえにその判官高献のみを罪した。重俊は後に商州刺史となったが、その妹と姦通し、その僕孫漢栄を殺しその妻を掠めた罪で死を賜った。
從敏
- 従敏は字を叔達という。人となり沈着で寡言、騎射を善くした。初め荘宗に従い馬歩軍都指揮使兼行軍司馬となった。明宗が立つと皇城使・保義軍節度使に遷り、王都討伐に従い、横海・義武・成徳・帰徳・保義・昭義・河陽の各鎮を歴任し、涇王に封ぜられた。漢の高祖の代には西京留守となり秦国公に封ぜられた。周の広順元年(951年)卒した。中書令を贈られ、恭恵と諡された。