新五代史卷十六 唐家人傳第四 廢帝皇后劉氏・重吉・重美
唐家人傳第四
廢帝皇后劉氏
- 廃帝の皇后劉氏の父劉茂威は応州渾元の人である。后は人となり強悍で、廃帝はもとよりこれを憚っていた。初め夫人であったが、廃帝が即位すると皇后に立てられた。その弟劉延皓は若くして廃帝に仕え牙将となり、廃帝が即位すると宮苑使・宣徽南院使を拝した。清泰二年(935年)、枢密使・天雄軍節度使となった。延皓は人となりもとより謹厚であったが、貴くなるとその節を改め、后のゆえに権勢を用い、賄賂を受け人の園宅を奪った。鄴にあって軍士を恤まなかったため、軍士はみな怨んだ。捧聖都虞候張令昭はその屯駐兵をもって延皓を逐い、延皓は相州へ走った。この時、石敬瑭はすでに反しており兵を用いていたところに令昭の乱が起こった。令昭は城を閉じ、その副使辺仁嗣を遣わして自ら節度使となることを請うたが、廃帝は令昭を右千牛衛将軍・権知天雄軍府事とした。まもなく范延光を遣わしてこれを討たせると、令昭は敗れて邢州へ走り、沙河まで追撃されて斬られた。屯駐諸軍で乱に加わった者三千余人はみな死んだ。有司は延皓を軍法にかけるよう請うたが、廃帝は后のゆえにその官爵を削るにとどめた。
重吉・重美(廢帝の子)
- 廃帝の二子は重吉・重美といい、一女は尼となり幼澄と号した。いずれもその生母は分からない。廃帝が鳳翔に鎮していた頃、重吉は控鶴指揮使となり、尼(幼澄)とともに京師に留まっていた。控鶴は親兵である。愍帝が即位すると、重吉に親兵を掌らせたくなかったので、重吉を出して亳州団練使とし、幼澄を禁中に居らせ、また廃帝を北京に徙した。廃帝は自ら疑い、そこで反した。愍帝は人を遣わして重吉を宋州で殺し、幼澄もまた死んだ。
- 重美は幼くして聡明なこと成人のようであった。廃帝が即位すると、左衛上将軍から成徳軍節度使を領し兼ねて河南尹・判六軍諸衛事となり、改めて天雄軍節度使・同中書門下平章事を領し雍王に封ぜられた。石敬瑭が反すると、廃帝は北征しようとしたが、重美は慎重にすべきだと考え固く行かないよう請うた。廃帝も内心敬瑭を憚り、初めは行きたくなかったので重美の言を聞いてもっともだと思ったが、劉延皓と劉延朗らがしきりに迫ったので、廃帝はついに河陽へ赴き、重美を留めて京師を守らせた。京師は震え恐れ、居民はみな城を出て逃げ隠れようとしたが、門番がこれを禁止した。重美は「国家は多難な折、民の主となることができないでいながら、その避難まで禁じてよいものか」と言い、そこで民を出るに任せた。晋の兵が至ろうとする際、劉皇后は薪を地に積んで宮室を焼こうとしたが、重美は「新しい天子が来られたら必ず野宿はなさらないでしょう。ただ後日また民の力を煩わせ、身後にまで怨みを買うだけです」と言った。后はもっともだと思った。廃帝が自焚すると、后と重美はともにこれに殉じた。
史論
- 欧陽脩曰く、家人の道は正しくないわけにはいかない。そもそも礼というものは、嫌わしきを分け隠微を明らかにするためのものである。それにしても五代の頃は、君は君たり臣は臣たり父は父たり子は子たりという道が乖れ、宗廟・朝廷・人と鬼とがみなその秩序を失った。これはまさに乱世と言うべきであろう、古来これほどのことはなかった。唐は一つの号でありながら三つの姓を持ち、周は一つの号でありながら二つの姓を持った。唐の太祖・荘宗は一つの家、明宗・愍帝は一つの家、廃帝は一つの家、周の太祖は一つの家、世宗は一つの家である。その家を別にしながらその号を同じくするのはなぜか。唐がその号に従うのは、その簒奪を明らかにしてもなお存続を認めるためである。周がその号に従うのは、これを認めるためであるが、その家を別にするのは、昭穆親疎の秩序を乱してはならないからである。号は同じくしてよいが、家は別にしないわけにはいかない、これが嫌わしきを分け隠微を明らかにする所以である。梁の博王友文をその家に別に扱わなかったのはなぜか。禍の根本を著すためである。梁太祖の禍は友文から始まった、これはまさに後世への戒めである。