新五代史卷十三 梁家人傳第一 文惠皇后(王氏)・元貞皇后(張氏)・昭儀陳氏・昭容李氏・末帝徳妃張氏・次妃郭氏・廣王全昱・朗王存・郴王友裕・博王友文・庶人友珪・康王友孜
史論
- 欧陽脩曰く、梁の悪はきわまった。盗賊として起こってから唐を滅ぼすに至るまで、その遺毒は天下に流れ、天下の豪傑が四方から並び起こったが、誰一人その鋭鋒を挫くことができなかった。梁の天下に無敵たることは、虎狼の強さと言うべきであった。しかしその滅びるに及んでは、一、二の女子の色香に困しめられ、ついには胸を割かれ腸を流し、羊や豚のように切り刻まれるに至った。ここに女色が人を敗ることを知る。古来、女禍の大きなものは天下を亡ぼし、その次は家を亡ぼし、その次は身を亡ぼす。身が禍を免れても、なおその子孫に及び、遅速の違いこそあれ禍を免れる者はない。しかしその源をたどれば、みな微かなことから始まっている。『易』坤の初六に「霜を履みて堅氷至る」といい、家人の初九に「家を有つを閑げば悔い亡ぶ」というのは、まことに至言であり、戒めずにいられようか。梁の家の事は、『詩』にいう「道うべからざる者」というべきものである。唐・晋以後、親疎・適庶の乱れに至っては、家人伝を作る。
梁家人傳第一
文惠皇后王氏(太祖母)
- 梁太祖の母、文惠皇后王氏は単州単父の人である。三子を生み、長を広王全昱、次を朗王存、その次を太祖という。后は若くして寡婦となり、三子を連れて蕭県の人劉崇の家に身を寄せ雇われて食を得た。太祖は成長しても無頼で、県中の人々は皆これを厭い苦しんだ。崇は太祖が怠惰で仕事をしないのを患い、たびたび笞で責めたが、崇の母だけは太祖を憐れみ、常に自ら櫛や沐浴の世話をし、家人に「朱三(太祖の排行名)は尋常の人ではない、よく彼を待遇せよ」と戒めた。黄巣が挙兵すると太祖は存とともに逃れて盗賊となり、巣に従って広州を攻めたが、存はそこで戦死した。数年後、太祖は巣に背いて唐に降り、かえって巣を破る功を立て、ついに宣武に鎮した。そこで人を遣わし車馬をもって蕭県の劉崇の家から母を迎えさせたが、使者が門に至ると后は驚き恐れて逃げ隠れ、劉氏に「朱三は落魄して行いも悪く、盗賊として死んだはずだ、なぜここに来るのか」と言った。使者が太祖の次第を詳しく説くと、后はようやく驚き喜んで涙を流し、崇の母とともに車に乗って帰り、晋夫人に封ぜられた。太祖が太夫人(后)の前で酒宴を開き、觴を挙げて寿を祝い大いに歓んだ際、太祖は「朱五経(父)は生涯読書に励みながら一度も科挙に登れませんでした。子が節度使となったのですから、先人に恥じることはありますまい」と言った。后は惻然として長い間黙し、「お前はここまで至ったのは英特と言えるが、行いの正しさはいまだ先人に及ばない」と言った。太祖がその理由を知らずにいると、后は「朱二(次男の存)はお前とともに黄巣に従いながら独り蛮嶺で死んだ。その孤児たちはみな午溝里にいる。お前は今富貴となったのに、彼らを思わないのか」と言った。太祖は涙を流して罪を謝し、存の諸子をことごとく召し寄せた。太祖は剛暴で殺戮を好んだが、后は常にこれを戒め、多くの者が命を全うすることができた。大順二年(891年)秋、后は病み、占い師が「故郷に帰るべし」と言ったので帰郷し、午溝で卒した。太祖が即位すると四廟を立て、皇考を追尊して文穆皇帝とし、后を文恵皇后とした。
元貞皇后張氏(太祖の后)
- 太祖の元貞皇后張氏は単州碭山県渠亭里の富家の子である。太祖が若い頃に婦として娶り、末帝を生んだ。太祖が貴くなると后とした。后は賢明で精悍、動くところに礼法があり、剛暴な太祖もかつてこれを畏れた。太祖は常に外事を后に諮り、后の言うことは多く当たった。太祖が時に暴怒して殺戮しようとすると、后がしばしば救護して人を全うさせた。太祖がかつて出兵し途中まで行ったとき、后は意にそぐわぬと察して一人の使いを馳せて召したところ、期日どおりに戻った。郴王友裕が徐州で朱瑾を石仏山に攻め破ったが、瑾が逃げるのを追わなかったため、太祖は大いに怒りその兵を奪った。友裕は恐れて数騎とともに山中に逃げ隠れたが、后は密かに人を遣わして友裕に脱出して自首するよう教えた。友裕は朝早く馳せ戻って太祖に拝謁し、庭中に伏して涙を流し死を請うたが、太祖の怒りは甚だしく、左右に命じて引き出させ斬ろうとした。后はこれを聞くと履物も履かずに庭中へ走り、友裕を抱いて泣きながら「あなたが自ら身を束ねて罪に服したのは、反逆の意がないことを明らかにしたいからではありませんか」と言うと、太祖の怒りは解け、友裕は許された。太祖がすでに朱瑾を破りその妻を娶って帰ろうとしたとき、后は封邱で太祖を迎えた。太祖がこれを告げると、后はにわかに瑾の妻に会い、瑾の妻が再拝すると后もまた拝し、悽然として涙を流し「兖・鄆は司空(太祖)と同姓の国、いとこ同士の間柄でありながら、些細なことで干戈を交え、私の姒(兄弟の妻)をこのような目に遭わせてしまった。もし不幸にして汴州が守り切れなくなったら、私もこのようになるでしょう」と言い、また泣いた。太祖はこれに感動し、瑾の妻を送って尼とし、后は常にその衣食を給した。司空とは太祖が当時帯びていた検校官である。天福元年(936年)、后は病で卒した。太祖が即位すると賢妃を追冊し、初め開封県潤色郷に葬った。末帝が即位すると元貞皇太后と追諡し、宣陵に祔した。后がすでに死んだ後、太祖は初めて荒淫に走り、ついに禍に至ったという。
昭儀陳氏
- 昭儀陳氏は宋州の人である。若くして色をもって進み、太祖はすでに貴く嬪妾は数百人いたが、昭儀は寵を専らにした。太祖はかつて病んだとき、昭儀は尼数十人とともに昼夜仏法を修め、少しも怠らなかった。太祖はこれを自分を愛するものと思い、いよいよ寵愛した。開平三年(909年)、尼となり宋州の仏寺に住んだ。
昭容李氏
- 昭容李氏もまた色をもって進み、とりわけ慎み深く、常に左右を離れなかった。太祖が病んで昼寝していたとき、棟が折れそうになったが李氏だけが側に侍っており、急いで太祖の衣を引いた。太祖は驚いて走り、棟は寝台の上に折れ落ちた。太祖はこれを徳とし昭容を拝した。二人ともその終わるところを知らない。
末帝徳妃張氏
- 末帝の徳妃張氏は、その父張帰霸が太祖に仕えて梁の功臣となった。帝が王であった時に婦として娶った。帝が即位すると妃を冊して后としようとしたが、妃は帝が郊天するのを待ってからにしてほしいと請い、帝はついに郊天を果たせなかった。貞明五年(919年)、妃は病が篤くなり、帝は急いで冊して徳妃としたが、その夕に薨じた。年二十四であった。
次妃郭氏
- 次妃郭氏は、その父郭帰厚が梁に仕えて登州刺史となった。妃は若くして色をもって進んだ。梁が亡び荘宗が後宮に入ると、梁の旧妃妾はみな号泣して迎え拝賀した。王友雍の妃石氏は美貌があり、荘宗が召したところ石氏は罵り拒んだため荘宗はこれを殺した。次に郭妃を召すと、妃は恐れて命に従った。ほどなく尼となり誓正の名を賜わって洛陽に住んだ。初め荘宗が汴に入った時、末帝は建国楼に登り、控鶴指揮使皇甫麟に「晋は我が世讐である、彼の刀鋸を待つべきではない。卿は私の命を絶ってくれ、讐人の手に落とすことのないように」と言った。麟は帝とともに慟哭し、その夕、帝に刃を進め、麟もまた自刎した。荘宗が汴に入ると河南の張全義にその屍を葬らせ、首は太社に蔵させた。晋の天福三年(938年)、太社にあらかじめ蔵められた罪人の首級は親族の収葬を許すとの詔が下り、末帝の首が出され、右衛将軍安崇阮を遣わして妃とともに合葬させた。妃は洛陽で卒した。
廣王全昱・朗王存
- 太祖の二人の兄は全昱と存という。全昱には八人の子があり、長を友裕、次を友珪・友璋・友貞・友雍・友徽・友孜といい、その一人の養子を友文といった。開平元年(907年)五月乙酉、友文を博王、友珪を郢王、友璋を福王、友貞を均王、友雍を賀王、友徽を建王に封じた。友裕は即位前に卒したため追封して郴王とし、康王友孜は末帝の即位後に封じられた。友璋は初め寿州団練使・押左右番殿直・監豊徳庫となり、友珪は当時鄆州留後、末帝は当時忠武軍節度使で後に武寧軍に徙鎮した。友雍・友徽はいずれもその終わるところを知らない。
- 広王全昱は太祖の即位に際し封ぜられた。太祖は仲兄の存とともに逃れて盗賊となったが、全昱は独りその母とともになお劉崇の家に寄食していた。太祖がすでに貴くなると、母とともに宣武に帰り、嶺南西道節度使を領し太師を以て致仕した。太祖が受禅しようとしたとき、有司が前殿に礼を備えると、全昱はこれを見て太祖を顧み「朱三、お前にこれができるのか」と言った。太祖が宮中で燕居し諸王と飲博していたとき、全昱は酒に酔い骰子を取って盆を撃ち迸らせ、太祖を呼んで「朱三、お前は碭山の一百姓であったのに、天子に見出され四鎮の節度使となった。それがお前に何の負い目もない唐家三百年の社稷を滅ぼすとは。私はお前の一族が誅殺されるのを見るだろう。博打などしている場合か」と言った。太祖は不快になり宴を罷めた。全昱もまた京師に留まることを楽しまず、常に碭山の故里に住んだ。三子はみな王に封ぜられ、友諒を衡王、友能を惠王、友誨を邵王とした。乾化元年(911年)、宋州を昇格させて宣武軍とし、友諒をその節度使とした。友諒が瑞麦一茎三穂を進めると、太祖は怒り「今年、宋州は大水に見舞われたのに、こんなものが何の役に立つか」と言い、友諒を罷めて京師に住まわせた。太祖が病臥していたとき、全昱が見舞いに来て太祖と抱き合い慟哭し、太祖は友諒を許して東へ帰らせた。貞明二年(916年)、全昱は病で薨じた。衡王友諒がその封を嗣いで広王となった。友能は宋・滑二州留後、陳州刺史となり、行く先々で不法を働き、姦人の多くがこれに依り憑いた。陳の地は淫祠・左道を好む風があり、仏を学ぶ者が自ら一派を立てて「上乗」と号し、昼は伏し夜は集まって男女入り乱れる有様であった。妖人の母乙・董乙が衆を集めて天子を称し官属を建置したが、友能は初めこれを放任した。乙らが州県を攻め劫かすと、末帝は兵を発してこれを撃滅した。康王友孜が謀反して伏誅して以来、末帝は宗室を疎斥し始め、貞明四年(918年)、友能は陳州の兵をもって反し京師を犯し、陳留にまで至ったが兵敗れて陳州に走り帰り、数か月後に降った。末帝はこれを赦し、房陵侯に降した。友誨は陝州節度使となり州兵をもって乱を為そうとしたが、末帝は京師に召し戻し、友諒・友能とともに幽囚した。梁が亡び荘宗が汴に入ると、いずれも殺された。
- 朗王存は初め太祖とともに黄巣に従い広州を攻め、そこで戦死した。存の子は友寧・友倫という。友寧は字を安仁といい、幼くして聡敏、喜怒を色に出さなかった。太祖はこれを軍校とし、弓剣を善くしたことから衙内制勝都指揮使・龔州刺史に遷した。太祖が鳳翔を包囲した際、友寧を東に遣わして宣武を守らせたが、王師範が梁を襲い斉州を包囲すると、友寧は兵を率いてこれを撃ち、馬千匹を奪い数千級を斬った。太祖が昭宗を奉じて京師に帰ると、友寧を建武軍節度使に拝し「迎鑾毅勇功臣」の号を賜わった。太祖が再び師範を攻めて博昌を包囲しこれを屠ると、清河はそのために流れが止まったという。石楼で戦い、兵敗れて友寧は馬から墜ち殺された。友倫は幼くして聡敏、『論語』・小学に通じ音律にも通じた。存がすでに死ぬと、太祖は友倫を元従馬軍指揮使とし右威武将軍を表した。燕人が魏の内黄を攻めた際、友倫は先鋒として夜に河を渡り馬千匹を奪った。李罕之が潞州をもって梁に降ると、晋人が潞州を攻めたため、友倫は兵を率いて潞州に入り罕之を取り戻して帰った。累進して検校司空・領藤州刺史となった。太祖が鳳翔を包囲した際、晋人が梁を襲うと、友倫は兵三万を率いて礬山に至り、晋人はこれにより退いた。友倫は西で太祖に鳳翔で会し、昭宗が長安に帰ると友倫は寧遠軍節度使を拝した。太祖が東に帰る際、友倫を留めて宿衛させ昭宗の動静を伺わせたが、友倫は撃鞠の最中に馬から墜ちて死んだ。太祖は大いに怒り、兵七万を率いて河中に至った。昭宗は涙を流して為す術を知らず、太原へ奔ろうとしたが果たせなかった。宰相崔胤が人を遣わして太祖を止めようとしたが、太祖は友倫の死を胤らの仕業と考え、胤らの誅殺を奏請した。昭宗はまだ従わなかったが、太祖は友諒を京師に遣わして兵をもって開化坊を囲み、崔胤および京兆尹鄭元規・皇城使王建勲・飛竜使陳班・閤門使王建襲・客省使王建乂・前左僕射張濬を殺した。太祖の即位に際し、すでに宗室を封じたことについて中書が議を上げ、故皇兄の存・皇姪の建武軍節度使友寧・寧遠軍節度使友倫にはいずれも封を加えるべきであるとされ、存を朗王、友寧を安王、友倫を密王に追封した。
郴王友裕(太祖の子)
- 郴王友裕は字を端夫という。幼くして騎射を善くし、太祖の征伐に従い、寛厚をもって士卒の心を得た。太祖が晋とともに黄鄴を西華で包囲した際、鄴の卒が矟を担いで城に登り敵を罵ったが、晋王が胡騎に連射させても命中しなかった。太祖が友裕を顧みると、一発でこれを射抜き、軍中はみな大いに喝采した。晋王は喜び友裕に良弓と矢百本を贈った。太祖が宣武に鎮すると友裕は衙内都指揮使となった。景福元年(892年)、太祖が鄆を攻めると友裕は先鋒として斗門まで進んだが、鄆兵が夜襲したため友裕は敗走した。太祖は後から来たがこの敗北を知らず、前軍は敵に遇い多くの死者を出した。太祖は村落の間で友裕とようやく落ち合った。そのとき朱瑄は濮州にいたので、太祖は友裕に二百騎を先行させたが、太祖はその後から遅れて友裕と行き違いになり、太祖自身は敵と遭遇し敗走した。敵は急追し、大溝に至ったとき危うく難を逃れ得なかったが、溝中の積み薪に助けられて馬で渡ることができた。梁の将李璠らこの時十余人が死んだ。冬、友裕は濮州を取り、ついで徐州の時溥を包囲したが、朱瑾が兵二万を率いて溥を救援した。友裕は瑾を石仏山で破り、瑾は逃走した。都虞候朱友恭がこれを讒言し、太祖は瑾を追撃すべきであったのに友裕が追わなかったとして大いに怒り、その兵を奪って龎師古の指揮下に置き、友裕を吏に付した。使者が誤って書を友裕に届けてしまい、友裕は恐懼して為すすべを知らなかったが、張皇后(元貞皇后)に教えられてようやく免れた。許州の留後を権知し、許州は蔡に近く大寇に苦しめられ民は残破していたが、友裕は流散の民を招撫し戸を三万余増やした。諸軍都指揮使に遷り、兖・鄆の平定に従って還ると許州を領し、崔洪が淮南に奔ると友裕は兵を率いて蔡州を平定し、市は乱れなかった。太祖が護国軍を兼鎮すると友裕を留後とし、忠武軍節度使に遷した。太祖が鳳翔を攻めて下せず、邠州を攻めるため引き返した際、友裕は霊台・良原を破り隴州を下し、楊崇本は邠州をもって降った。後に崇本が再び叛くと太祖は友裕を遣わしてこれを攻めさせ、永寿に屯したが、友裕は病で卒した。
博王友文(太祖の養子)・庶人友珪
- 博王友文は字を徳明といい、本姓を康、名を勤といった。幼くして風姿美しく学を好み談論に善く、詩をよくした。太祖はこれを養って子とした。太祖が四鎮を領すると友文を度支塩鉄制置使とした。太祖が四方に用兵する間、友文は征賦を集めて軍費に供した。太祖が即位すると、もと領していた宣武・宣義・天平・護国四鎮の征賦をもって建昌宮を置きこれを総べさせ、友文を使とし博王に封じた。太祖が西都へ行幸すると友文は東京を留守した。
- 庶人友珪は、太祖が初め宣武に鎮していた頃、宋・亳の間を略地する際、旅の途上の婦人と野合して生まれた子である。成長すると弁が立ち狡猾で、多くの才知を持っていた。博王友文もまた才芸に富み、太祖はこれを愛し、しかも友文は年長であったので、太祖は即位して嫡嗣がまだ立たない間、心中ひそかに友文に望みを託していた。太祖は張皇后が崩じてから継室を持たず、鎮にいる諸子はみなその婦を京師に呼んで自分の世話をさせていた。友文の妻王氏は美貌があり、太祖はとりわけこれを寵愛した。太祖の病が長引いた頃、王氏は友珪の妻張氏とともに専ら寝所に侍って看病した。太祖の病がやや小康を得たとき、王氏に「私はもう治らないと分かっている。お前は東都へ行き友文を呼び戻せ、私は彼と最期の相談をしたい」と言った。これは内心、後事を友文に託そうとしたのである。そして敬翔に「友珪には一郡を与えてよい、早く赴任させよ」と言い、友珪を萊州刺史とした。太祖はもとより剛暴で、病んでからは喜怒の測りがたさがいよいよ増し、当時、左遷された者は必ず後命(誅殺)を受けるのが常であった。友珪はこれを大いに恐れ、その妻張氏は「官家(陛下)はすでに伝国の宝を王氏に与え、東都に人をやって友文を呼び戻そうとしています。あなたは今にも禍を受けるでしょう」と言い、夫婦は向かい合って泣いた。左右の者は友珪に「事は急を告げています、計を早く立てなければなりません。どうして早く自ら図らないのですか」と勧めた。友珪はそこで服を替えて微行し、左龍虎統軍韓勍のもとへ入って事を計った。勍は夜、牙兵五百を率い友珪に従わせ控鶴の衛士に紛れ込ませて宮中に入った。夜三鼓、関を斬って万春門から入り、寝所に至ると看病していた者はみな逃げ散った。太祖は驚き起きて「私はこの賊を久しく疑っていた、なぜもっと早く殺さなかったのか。逆賊はよくも父を殺せるものだ」と叫んだ。友珪の親吏馮廷諤が剣で太祖を犯すと、太祖は柱を巡って逃げ、剣は三度柱を撃った。太祖は疲れ果てて牀に倒れ伏し、廷諤は剣でこれを中て、腹を貫き腸胃はみな流れ出た。友珪は褥でこれを包み、寝所に埋めて喪を四日間秘し、その後、府庫を開いて群臣と諸軍に大いに賜賚を行った。密使を発して丁昭浦に矯詔を持たせ馳せて東都に至らせ、友文を殺した。また詔を下し「朕は艱難のうちに創業して三十余年、人の上に立って忽ちに六年、中外協力し小康を期していたが、意外にも友文が密かに異図を蓄え大逆を行おうとした。昨夜二日の夜、甲士が大内に突入したが、郢王友珪の忠孝により兵を率いて誅戮し、朕の身は保全された。しかし病は震驚により危うくなった。友珪は凶逆を平らげ、その功は並ぶものがない。よろしく軍国の権を委ね、然る後に喪を発すべし」と言った。乾化二年(912年)六月既望、友珪は柩前で皇帝に即位し、韓勍を忠武軍節度使に拝し、末帝を汴州留後とした。河中の朱友謙に中書令を授けたが、友謙は命を受けず、懐州の龍驤軍三千を劫かしその将劉重霸を捕らえて懐州に拠り、自ら討賊を称した。三年正月、友珪は洛陽の南郊で天を祀り、鳳暦と改元した。太祖の外孫袁象先が駙馬都尉趙巌らと謀り末帝とともに賊を討とうとし、二月、象先は禁兵を率いて宮中に入った。友珪はその妻張氏とともに北垣の楼下へ走り城を踰えて逃れようとしたが果たせず、馮廷諤に命じてその妻および自身を刺させ、廷諤もまた自殺した。末帝が即位すると友文の官爵を復し、友珪を廃して庶人とした。
康王友孜
- 康王友孜は瞳が二重(重瞳子)で、かつて密かに自らを天子となるべき者と任じていた。貞明元年(915年)、末帝の徳妃が薨じ、まさに葬ろうとしていたとき、友孜は刺客を夜に寝所へ入らせた。末帝はまさに寝ていたが、人が自分を害する夢を見て目覚め、榻上の宝剣が鏘然と鳴るのを聞いて躍り起き、剣を抜いて「異変があったのか」と言い、寝所を探って刺客を見つけ自らこれを殺した。ついに友孜を誅した。翌日、末帝は趙巌・張漢傑に「もう少しであなたがたに会えなくなるところだった」と言い、これ以来ますます宗室を疎み弱め、趙氏・張氏を信任するようになり、これが亡国を招くに至ったという。
史論
- あるいは問う。梁の太祖は臣として君を弑し、友珪は子として父を弑した、その罪は同じである。しかも弑して即位し、年を踰えて改元したことについて『春秋』の法はみな君主として書くのに、友珪だけは本紀に列せられないのはなぜか。父子の悪が等しいのに、その子(友珪)の即位だけを奪うのは、かえって父(太祖)の即位を認めることになりはしないか、それは『春秋』の趣旨に反するのではないか、と。私はこれに答える。梁の事はすでに明らかであり、その父の悪は子の即位を認めるか奪うかを待たずして、すでに彰かである。しかし末帝の志(友珪討伐の志)は伸べずにいるわけにはいかない。『春秋』の義では、君が弑されて賊が討たれない場合、国の臣子がその責めを負うとされる。私が友珪の事において本紀に列せず、この扱いをするのは、討賊の志を伸べるためである。