史記卷一百二十三 大宛列傳第六十三 張騫

張騫、漢中の人。建元年間、月氏との同盟を求める使者に応募し西域へ赴くが匈奴に捕らえられ十余年抑留された後に脱出、大月氏まで到達して帰国し、西域の情報を初めて漢にもたらした(鑿空の功)。のち匈奴戦従軍の功で博望侯に封じられ、晩年は烏孫との同盟を献策して中郎将として再び西域へ赴いた。帰国後、大行として一年余りで没した。

年表(2件)
  • 建元年間郎として月氏への使者に応募し隴西を出たが、匈奴に捕らえられ抑留された
  • 元朔六年大将軍衛青に従い匈奴を撃った功で博望侯に封じられた

張騫――西域への出発と匈奴での抑留

  • 大宛など西域の情報は張騫によってもたらされた。張騫は漢中の人で、建元年間に郎となった。当時、天子は投降した匈奴人に西方の事情を問い、匈奴が月氏王を破りその頭蓋骨を酒器にしたため、月氏は逃れながらも匈奴を深く恨んでいるが共に討つ相手がいないと聞いた。漢は匈奴を弱らせようと考え、月氏との同盟を図って使者を募った。張騫は郎として応募し、月氏へ向かう使者となり、堂邑氏の元胡人奴隷甘父とともに隴西を出た。匈奴領を通過中に捕らえられ単于のもとに送られた。単于は「月氏は我が北にある、漢はどうして使者を通せようか。私が越へ使者を送ろうとしても漢は許すまい」と言って張騫を留め置いた。十余年間抑留され、妻を娶り子もできたが、張騫は漢の使者の印である節を手放さなかった。

張騫――大月氏行と帰還

  • 匈奴での監視が緩んだ隙に張騫は従者と共に脱出し、西へ数十日進んで大宛に至った。大宛は漢の富を聞いており、通交を望んでいたところに張騫が現れたことを喜んだ。張騫は「匈奴に道を塞がれ月氏への使命を果たせずにいる、案内していただければ帰国後、王への贈り物は計り知れない」と説き、大宛は道案内をつけて康居経由で大月氏に送った。大月氏では王が既に胡(匈奴系)に殺され太子が新王となっており、大夏を服属させて肥沃な土地に安住し、匈奴に報復する意志を失っていた。張騫は大月氏から大夏まで赴いたが、ついに月氏の要領(同盟の確約)を得られなかった。
  • 一年余り滞在して帰路につき、南山沿いに羌の地を経て帰ろうとしたが再び匈奴に捕らえられた。さらに一年余り抑留された後、単于が死に左谷蠡王が太子と位を争い国内が乱れたのに乗じて、張騫は胡人の妻や堂邑父と共に漢へ逃げ帰った。漢は張騫を太中大夫に、堂邑父を奉使君に任じた。張騫は剛強で寛大、人望を蛮夷にまで得た。堂邑父は元胡人で弓に優れ、窮地では禽獣を射て食料とした。出発時百余人いた随行者のうち、十三年後に帰還できたのはこの二人のみであった。

大宛列傳――西域諸国の記録(張騫の見聞)

  • 張騫自身が訪れたのは大宛・大月氏・大夏・康居で、伝聞として周辺の大国五、六か国についても天子に報告した。
  • 大宛は匈奴の西南、漢の真西にあり、漢から万里ほど離れる。定住農耕の民で稲・麦を作り、葡萄酒があり、汗血馬という良馬を産する。城郭を持つ集落は大小七十余城、人口数十万、兵は弓矛騎射を用いる。北に康居、西に大月氏、西南に大夏、東北に烏孫、東に扜罙・于窴がある。于窴以西の川は西流して西海に注ぎ、以東の川は東流して塩沢に注ぐ。塩沢は地下に潜行し、その南に黄河の源が出る。玉石を多く産し、黄河は中国に注ぐ。楼蘭・姑師にも城郭があり塩沢に臨む。塩沢は長安から五千里。匈奴の右方は塩沢以東から隴西の長城に至り、南は羌に接し、漢への道を遮断している。
  • 烏孫は大宛の東北二千里、遊牧の国で匈奴と同俗、数万の弓兵を擁し勇敢。かつては匈奴に服属していたが盛んになると朝会に赴かなくなった。
  • 康居は大宛の西北二千里、遊牧で月氏とほぼ同俗、八、九万の弓兵。大宛と隣接する小国で、南は月氏、東は匈奴に羈属する。
  • 奄蔡は康居の西北二千里、遊牧で康居とほぼ同俗、十余万の弓兵。崖のない大沢(北海)に臨む。
  • 大月氏は大宛の西二、三千里、媯水の北に住む。南に大夏、西に安息、北に康居。遊牧で匈奴と同俗、一、二十万の弓兵。かつては強盛で匈奴を軽んじたが、冒頓単于に破られ、続く老上単于に王が殺されその頭蓋骨を酒器にされた。もとは敦煌・祁連の間にいたが匈奴に敗れて西方へ逃れ、大宛を経て大夏を攻め臣従させ、媯水北を王庭とした。逃げ遅れた小集団は南山の羌の地に残り「小月氏」と呼ばれる。
  • 安息は大月氏の西数千里、定住農耕で稲・麦・葡萄酒を産する。城邑は大宛に似て、属する大小の城数百、方数千里の大国。媯水に臨み市場があり、車や船で数千里先まで交易する。銀貨を用い、王の顔を刻み、王が死ぬと新王の顔に鋳直す。革に横書きして記録する。西に条枝、北に奄蔡・黎軒がある。
  • 条枝は安息の西数千里、西海に臨む。暑く湿潤で稲を作る。卵が甕ほどもある大鳥がいる。人口が多く小君長が各地にあり、安息の属国とされる。幻術に長ける。安息の古老は条枝に弱水・西王母の伝説があると伝えるが見た者はない。
  • 大夏は大宛の西南二千余里、媯水の南にある。定住農耕で城屋があり大宛と同俗。大王はなく各城邑に小君長を置く。兵は弱く戦を恐れ、商売に長ける。大月氏の西遷後は臣属させられた。人口は百万余り。都は藍市城で市場が栄える。その東南に身毒国(インド)がある。
  • 張騫は「大夏にいた時、邛(四川)の竹杖や蜀の布が売られているのを見て問うと、商人が身毒で買ったものと答えた。身毒は大夏の東南数千里にあり、風俗は大夏に似るが低湿で暑く、人々は象に乗って戦う。大水(インダス川か)に臨む国という。私の推測では、大夏は漢から一万二千里、漢の西南にあり、身毒はさらに大夏の東南数千里にあって蜀の産物がある以上、蜀からそう遠くないはずだ。大夏へ行くのに羌の地を経れば険しく羌人に嫌われ、やや北へ寄れば匈奴に捕らえられる、蜀からなら近道で敵もいない」と述べた。
  • 天子は大宛・大夏・安息などが皆大国で珍しい産物に富み中国と似た生業を営みながら兵が弱く、漢の財物を貴ぶこと、その北の大月氏・康居は兵が強く贈り物で利を示し朝貢させうることを知り、道義で服属させれば領土を万里広げ、幾重にも通訳を重ねてでも異俗を招き、威徳を四海に及ぼせると喜んだ。そこで蜀・犍為から使者を四方に分けて出し、駹・冉・徙・邛僰の各方面へ各々一、二千里進ませたが、北方は氐・筰、南方は巂・昆明に閉ざされ、君長を持たぬ昆明の民は略奪を好み漢使を殺すため通路は開けなかった。ただし西方千里余りに乗象国滇越があるとの噂を得て、蜀の密貿易商人がそこまで往来していることが分かり、大夏への道を求める中で滇国との通交が始まった。もともと西南夷との通交は費用がかさみ道も通じず一旦中止されていたが、張騫の報告を機に再開された。

張騫――匈奴戦従軍と晩年の献策

  • 張騫は校尉として大将軍(衛青)に従い匈奴を撃ち、水草の在り処を知っていたため軍が困窮せずに済み、その功で博望侯に封じられた(元朔六年)。翌年、衛尉として李将軍(李広)と共に右北平から匈奴を撃ったが、李将軍の軍は匈奴に包囲され多くを失い、張騫も約束の期日に遅れた罪で斬刑に処されるところを贖罪して庶人に落とされた。この年、驃騎将軍(霍去病)が匈奴西域数万を破り祁連山に至った。翌年、渾邪王が民を率いて漢に降り、金城・河西から塩沢に至る南山一帯は匈奴のいない空地となった。以後匈奴の斥候はまれにしか現れなくなり、二年後、漢は単于を幕北に追撃した。
  • その後、天子は再三張騫に大夏方面の事情を尋ねた。侯を失っていた張騫は「匈奴にいた頃、烏孫王(昆莫)の由来を聞いた。昆莫の父はもと匈奴西辺の小国の王で匈奴に殺され、昆莫は生まれてすぐ野に捨てられたが、烏(からす)が肉を運び狼が乳を与えて育った。単于は神異として引き取り、成長すると将として用い、功を重ねたため、父の遺民を昆莫に与えて西域の一城を守らせた。昆莫は民を養い周辺の小邑を攻めて数万の弓兵を得て戦に習熟した。単于の死後、昆莫は遠方へ移住し中立を保って匈奴の朝会に赴かなくなった。匈奴の奇襲も失敗し、神異として遠ざけ緩やかに羈属させるにとどめている。今、単于は漢に敗れて弱り、渾邪の旧地は空いている。蛮夷は漢の財物を貪るのが常だ、この機に厚く烏孫に贈り物をし、東へ招いて渾邪の旧地に住まわせ、漢と兄弟の誓いを結べば、烏孫は匈奴の右腕を断つことになろう。烏孫と結べば、その西の大夏なども招き外臣とできる」と献策した。天子はこれに賛同し、張騫を中郎将として三百人、馬各二匹、牛羊数万、金幣数千万を持たせ、副使を多く従え各国に贈らせた。

張騫――烏孫への使節と晩年

  • 張騫が烏孫に着くと、昆莫は漢使に対し単于への礼と同じ扱いをし、張騫は大いに恥じ、烏孫の民の貪欲さを見て「天子が贈り物をされたのに拝礼しないなら贈り物を返す」と告げると、昆莫は起って拝礼したがそれ以外の礼は改めなかった。張騫は「烏孫が東へ渾邪の地に移り住めば漢は皇女を昆莫の夫人に嫁がせる」と伝えたが、烏孫は国が分裂し王も老い、漢から遠く長く匈奴に服属してきたため大臣は皆匈奴を恐れて移住を望まず、王も専断できなかった。張騫は確約を得られなかった。昆莫には十余人の子があり、その中の大祿は強く軍を率いる才があり別に一万余騎を率いていた。大祿の兄が太子であったが早世し、その子岑娶が立てられるよう遺言したため昆莫は岑娶を太子とした。これを怒った大祿は一族を集めて叛き、岑娶と昆莫を攻めようとしたため、昆莫は岑娶に一万余騎を分け与えて別居させ、自らも一万余騎を擁して備え、国は三分されながらも大勢としては昆莫に服属する形となった。これにより昆莫は張騫との約束を自ら決断できなかった。
  • 張騫は副使を大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于窴・扜罙などへ分遣した。烏孫は道案内をつけて張騫を送還し、烏孫からも使者数十人・馬数十匹が漢へ答礼に赴き、漢の広大さを偵察する機会ともなった。張騫は帰国後、大行(外交長官)となり九卿に列したが、一年余りで没した。
  • 烏孫の使者は漢の人口と富を見て帰国後に報告し、烏孫は以後いっそう漢を重んじるようになった。その後、張騫が大夏方面に派遣した副使たちも現地の使者を伴って続々と帰国し、西北諸国と漢の通交が始まった。張騫が道を切り開いた(鑿空)功績により、以後派遣される使者は皆「博望侯」の名を借りて信用を得た。

大宛列傳――張騫没後の西域経営

  • 張騫の死後、匈奴は漢が烏孫と通じたことを怒り攻撃しようとした。漢が烏孫へ使者を送る際、南から大宛・大月氏方面を経由するようになると烏孫は恐れをなし、皇女を娶り兄弟の誓いを結びたいと申し出た。群臣は「まず聘礼を納めさせてから皇女を送るべき」と議した。かつて天子は『易』を占い「神馬は西北から来る」との卦を得ており、烏孫馬の良さから「天馬」と名付けていたが、さらに優れた大宛の汗血馬を得ると烏孫馬を「西極」、大宛馬を新たに「天馬」と改名した。
  • 漢は令居以西に城塞を築き酒泉郡を新設して西北諸国との通交路とした。安息・奄蔡・黎軒・条枝・身毒への使者も増やし、天子が大宛馬を好んだため使者の往来は絶えなかった。一回の使節団は多い時数百人、少なくとも百余人で、携える贈り物は博望侯の頃と同程度であったが、次第に慣れが生じ規模は縮小した。年に多い時十余回、少ない時五、六回、遠国へは八、九年、近国へは数年で往復した。
  • この頃、漢は南越を滅ぼし蜀・西南夷も震え上がって官吏を受け入れるよう請うた。益州・越巂・牂柯・沈黎・汶山の各郡を新設し、これを足がかりに大夏への通路を開こうとした。使者柏始昌・呂越人らを毎年十余回派遣したが、いずれも昆明に阻まれて殺され財物を奪われ、大夏への道は開けなかった。漢は三輔の罪人と巴蜀の兵数万を発し、郭昌・衛広ら二将軍に昆明の妨害勢力を討たせ、数万を斬って引き上げたが、その後も昆明は妨害を続け、ついに通路は開けなかった。一方、北道の酒泉から大夏へ至る道は使者が増えるにつれ、外国側が漢の贈り物に飽き、その価値を軽んじるようになった。
  • 博望侯が外国への道を開いて以来の栄達を見て、従軍していた吏卒が争って外国の奇異な話を上書し使者になろうとした。天子は遠方ゆえ誰も進んで行きたがらないことを踏まえ、その言を聞き入れ節を与え、素性を問わず吏民を募って使節団を組ませて道を広げようとした。帰国者の中には贈り物を横領する者や使命を果たせぬ者が絶えなかったが、天子はこれに慣れて重罪に問い、贖罪させて再び使者に立たせる悪循環が続き、使者志願は絶えぬ一方で法を軽んじる風潮が強まった。吏卒も外国の魅力を誇張して吹聴し、大言する者ほど節を与えられ小言の者は副使にとどめられたため、素行の悪い者が競って倣った。使者は多くが貧しい家の子弟で、官の物資を私的に安く売って利益を得ようとし、外国側も使者ごとに言うことが軽重異なる様や漢の兵が遠くて来られないと見抜いて食料を与えず苦しめた。漢使は困窮して恨みを募らせ、時に武力衝突に至った。特に楼蘭・姑師の小国は交通の要衝にありながら漢吏王恢らを襲うなど甚だしかった。また匈奴の奇兵もしばしば西方へ向かう使者を襲った。使者たちは口々に外国の脅威を訴え、いずれも城邑を持ちながら兵は弱く攻めやすいと上申した。そこで天子は従驃侯趙破奴に属国の騎兵と郡兵数万を率いさせ匈河水まで進めて匈奴を討とうとしたが匈奴は退避した。翌年、姑師を攻め、破奴は軽騎七百余で先行して楼蘭王を捕らえ、姑師を破った。この威勢で烏孫・大宛方面を威圧し、破奴は浞野侯に封じられた。しばしば楼蘭に苦しめられていた王恢もこの功で浩侯に封じられた。こうして酒泉から玉門まで烽火台の列が築かれた。

大宛列傳――烏孫との婚姻と西域諸国の様子

  • 烏孫は千匹の馬を聘礼として漢の皇女を求め、漢は宗室の娘江都翁主を烏孫王昆莫に嫁がせ右夫人とした。匈奴も女を送り昆莫の左夫人とした。老いた昆莫は孫の岑娶に翁主を娶らせた。烏孫は馬が多く、富裕な者は四、五千匹を有するほどであった。
  • 安息では漢使が至ると王が二万騎を東の国境まで出迎えさせた。国境から王都まで数千里、途中数十の城を経て人口の多さを実感した。漢使の帰国後には安息からも使者が随行し、漢の広大さを見聞して大鳥の卵や黎軒の幻術師を献上した。大宛西方の小国驩潜・大益、大宛東方の姑師・扜罙・蘇薤なども漢使に随行して天子に謁見し、天子は大いに喜んだ。
  • 漢使は黄河の源を探究し、于窴に発する川の山に多くの玉石を産することから、古図書に基づきこの山を崑崙と名付けた。
  • この頃、天子はしばしば海上を巡幸し、外国からの客を伴い、大都市を通るたびに財帛を惜しみなく分け与え、漢の富を見せつけた。角抵(相撲・力比べの見世物)や奇怪な出し物で人を集め、酒池肉林の饗応で倉庫の蓄えを見せて外国客を驚かせ、この頃から見世物興行がいっそう盛んになった。

大宛列傳――大宛遠征

  • 西北の外国使節は絶えず往来したが、大宛以西の国々はなお驕り高ぶり、礼で従わせることは難しかった。烏孫より西で匈奴に近い安息までの国々は、匈奴の使者には単于の信物一つで各国が食料を融通し合ったが、漢使には帛を出さねば食料を与えず、馬や食料を市で買わねば移動もできなかった。これは漢が遠く財が豊かで匈奴を恐れる度合いが漢使への態度より強いためであった。大宛周辺では葡萄酒が作られ、富者は一万石以上を蓄え、数十年腐らないものもあった。人々は酒を好み馬は苜蓿を好んだ。漢使が種子を持ち帰り、天子は肥沃な地に苜蓿・葡萄を植えさせ、天馬や外国使節が増えるにつれ離宮の周辺は見渡す限り葡萄・苜蓿で覆われた。大宛から安息にかけての国々は言語こそ違えど風俗はおおむね同じで意思疎通ができ、人々は目が窪み髭が多く、商売に長け一銭を争うほど細かい。女性を尊び、女性の言葉で男が決断する。絹や漆を産せず、鋳銭の技術も知らなかったが、漢の逃亡兵や降兵が武器の鋳造を教えた。漢から得た金銀は器物に用い、貨幣としては使わなかった。
  • 漢使の往来が増える中、若い従者が天子に取り入ろうと「大宛の貳師城に良馬があるが漢使に与えようとしない」と告げた。良馬を好む天子はこれを喜び、壮士車令に千金と金の馬を持たせ大宛王に良馬を求めさせた。大宛は漢の財に恵まれていたため相談し、「漢は遠く、鹽水を渡る道は難所が多く、北は匈奴の襲撃、南は水草の欠乏に苦しむ。それに絶えず邑のない土地が続き食料も不足する。漢の使節はいつも数百人規模で来ても食料に窮し死者が半数を超える有様だ、大軍を送れるはずがない。貳師城の馬は宛の宝である」と結論し、漢使の求めを拒んだ。怒った漢使は暴言を吐き金の馬を打ち壊して立ち去った。宛の貴人は「漢使はあまりに我々を軽んじる」と怒り、東の郁成に命じて漢使を殺させ財物を奪わせた。天子は激怒し、かつて大宛に使者として赴いた姚定漢らが「宛兵は弱く漢兵三千で強弩を用いれば大宛を虜にできる」と進言したこと、また浞野侯が七百騎で楼蘭王を捕らえた前例があったことから、これを信じ、寵姫李氏の兄を侯にしたいという思惑もあって李広利を貳師将軍に任じ、属国の騎兵六千と郡国の悪少年数万を率いて大宛討伐に向かわせた。貳師城で良馬を得ることを目標に「貳師将軍」と号した。趙始成を軍正、かつての浩侯王恢を道案内、李哆を校尉として軍務を統括させた(太初元年)。この年、関東に蝗害が大発生し敦煌まで及んだ。

大宛列傳――第一次遠征の失敗と再遠征

  • 貳師将軍の軍は鹽水を西に渡ると、途中の小国は恐れて城を固く守り食料を与えなかった。攻め落とせば食料を得られたが落とせなければ数日で立ち去るしかなかった。郁成に至る頃には残兵は数千に過ぎず皆疲弊していた。郁成を攻めたが大敗し多数の死傷者を出した。貳師将軍は李哆・趙始成らと「郁成すら落とせぬのに大宛の王都まで至れようか」と協議し撤退した。往復二年を費やし、敦煌に戻った時には出発時の一割程度の兵しか残っていなかった。使者を送り「道が遠く食糧に乏しい、兵士は戦いを恐れているのではなく飢えに苦しんでいる、兵を増やして再び出征したい」と上書したが、天子は激怒し玉門関を封鎖して「入る者は斬る」と命じたため、貳師将軍は敦煌に留まらざるを得なかった。
  • その夏、漢は浞野侯(趙破奴)の二万余の兵を匈奴に失った。公卿や議者は大宛討伐を中止し匈奴討伐に力を集めるべきと願ったが、天子はすでに大宛討伐を決意しており、小国大宛すら討てなければ大夏など西域諸国に軽んじられ、大宛の良馬も得られず、烏孫や侖頭にも漢使が苦しめられ、外国の笑いものになると考えた。そこで大宛討伐に反対した鄧光らを罷免し、囚人や材官を赦免して従軍させ、悪少年や辺境の騎兵を増発、一年余りで敦煌を出た兵は六万人(私的従軍者は含まず)、牛十万頭、馬三万余匹、驢馬・ラクダ数万頭に達した。糧食・武器を十分に整え、天下が動員される中、延べ五十余りの校尉が伐宛に従事した。宛の王都には井戸がなく城外の川水を汲んでいたため、水工に命じて城下の水路を移させ水源を断とうとした。さらに酒泉・張掖の北に十八万の武装兵を増派し、居延・休屠を置いて酒泉を守らせ、天下の七科適(罪人扱いされる七種の身分)を徴発し兵糧を貳師軍に運ばせた。輸送の車馬・人夫は敦煌まで連なり、馬の目利き二人を執駆校尉に任じて良馬選抜に備えさせた。

大宛列傳――大宛陥落

  • 貳師将軍は再び出征し、兵力が多かったため通過する小国はみな出迎え食糧を提供した。侖頭では抵抗されたため数日攻めて陥落させた。それより西は平穏に進み大宛の王都に至った漢兵は三万人。宛の兵が迎撃したが漢兵が射て破り、宛兵は城に籠って守った。貳師の軍は郁成を先に攻めようとする意見もあったが、時間をかければ宛に策を講じる余裕を与えるとして、まず宛の水源を断ち移し、宛は困窮した。城を包囲し四十余日攻めると外城が崩れ、宛の貴人で勇将の煎靡を捕らえた。宛は大いに恐れ内城に逃げ込んだ。宛の貴人らは「漢が攻めるのは王毋寡が良馬を隠し漢使を殺したためだ、王を殺し良馬を差し出せば漢兵は退くはずだ、もし退かねば力戦して死ぬまでだ」と相談し、共に王毋寡を殺し、その首を持たせた使者を貳師に送り「漢は我らを攻めるな、良馬をすべて差し出し、好きに選ばせ、漢軍に食糧も提供する。もし聞き入れられなければ良馬をすべて殺し、康居の援軍も到着する。我らは内で守り康居は外から漢軍と戦う、どちらを選ぶか」と交渉させた。当時、康居の斥候は漢兵の勢いがまだ盛んなのを見て進撃できずにいた。貳師は趙始成・李哆と協議し「宛の城中には最近入った秦人の技術者がいて井戸を掘る術を知っており、なお食糧も多い。我らが来たのは首悪の毋寡を誅するためであり、その首はすでに得た。ここで和議を拒めば宛は徹底抗戦し、康居も漢軍の疲弊を待って援軍を出し我が軍を破るだろう」と判断し、軍吏も同意して和議を受け入れた。宛は良馬を差し出し漢軍に選ばせ、良馬数十匹と中等以下の牝牡三千余匹を得た。漢軍は宛の貴人で親漢派の昧蔡を新たな宛王に立てて盟約を結び兵を引いた。ついに内城には入らずに終わった。

大宛列傳――遠征の後始末

  • 当初、貳師は兵が多すぎて食糧確保が難しいとして軍を分け南北二道に分けて進んだ。校尉王申生と元鴻臚壺充国ら千余人は別動隊として郁成へ向かったが、郁成は籠城して食糧を与えなかった。王申生は本隊から二百里離れた油断から郁成を軽んじて詰問したところ、郁成側は申生の兵力の少なさを見抜き、三千の兵で朝駆けし申生らを殺した。軍は破れ、わずかな者が逃げて貳師のもとへ走った。貳師は捜粟都尉上官桀に郁成を攻めさせ破った。郁成王は康居へ逃げたが、桀は追撃し、康居は漢がすでに大宛を破ったと聞き郁成王を桀に引き渡した。桀は四人の騎士に縛らせ大将軍のもとへ護送させたが、四人は「郁成王は漢が最も憎む相手だ、生きたまま連行して万一逃げられては大事になる」と相談し殺そうとしたが誰も手を出せずにいた。最も若い上邽の騎士趙弟が剣を抜いて斬り首を持ち帰った。趙弟と上官桀らはついに大将軍のもとに合流した。
  • 貳師の後続部隊出発時、天子は烏孫に大軍を送って共に大宛を攻めるよう告げたが、烏孫は二千騎を送ったのみで日和見して進まなかった。貳師将軍の帰路、通過した小国はみな大宛陥落を聞き子弟を従軍させて漢に献じ、事実上の人質とした。この遠征で軍正趙始成の力戦が最大の功、上官桀は敢然と深く攻め入り、李哆は謀略に長けた。玉門関に入った兵は一万余人、馬千余匹であった。往路では食糧に困窮しなかったものの戦死者はさほど多くなく、むしろ将吏の貪欲による兵の酷使で多くの兵を失った。天子は万里を越えての遠征として過失を問わず、李広利を海西侯に封じた。郁成王を斬った騎士趙弟は新畤侯に、軍正趙始は光禄大夫、上官桀は少府、李哆は上党太守に任じられた。従軍した軍吏で九卿となった者三人、諸侯相・郡守・二千石となった者百余人、千石以下は千余人。功に応じて過分な官位を得た者もいれば、罪ある行いをした者はその功も認められなかった。士卒には合計四万金が賜与された。大宛遠征は二度に及び、四年をかけてようやく終結した。

大宛列傳――遠征後の西域情勢

  • 漢は昧蔡を宛王に立てて引き上げたが、一年余り後、宛の貴人は昧蔡を諂い者として国を屠殺に導いたと恨み、これを殺して毋寡の兄弟蟬封を宛王に立て、その子を人質として漢に送った。漢は使者を送って贈り物を与え懐柔した。
  • 漢は十余組の使者を宛以西の外国へ送り珍しい産物を求めるとともに、大宛討伐の威徳を示した。敦煌には酒泉都尉を置き、西の鹽水まで往々にして烽火台が置かれた。侖頭には数百人の屯田兵を置き、使者を配して田を守り穀物を蓄え、外国へ赴く使節に供給させた。

史論

  • 太史公は言う。『禹本紀』には「黄河は崑崙に発する。崑崙の高さは二千五百余里、日月はその陰に隠れて光を放つ。その上には醴泉・瑤池がある」と記される。しかし張騫が大夏へ使者として赴いて以来、黄河の源を極めても『禹本紀』にいう崑崙のような山は見当たらない。ゆえに九州の山川を語るなら『尚書』の記述の方がまだ実情に近い。『禹本紀』や『山海経』にある怪物の類については、私はあえて語らない。