総論――儒学の興亡
- 太史公は功令を読み、学官による人材登用の道が広く定められたことに感嘆する。周室の衰えとともに《関雎》が作られ、幽王・厲王の乱世で礼楽が壊れ諸侯が恣に振る舞う中、孔子は王道の廃れを憂えて《詩》《書》を整理し礼楽を興した。斉で《韶》を聞き三月肉の味を忘れ、衛から魯に戻って音楽を正し《雅》《頌》をあるべき位置に戻した。乱世ゆえに登用されず七十余の君主を歴訪しても用いられなかったが、「もし用いる者があれば一年で成果を挙げられよう」と述べ、麟を得て「わが道は窮まった」と嘆じ、史書によって《春秋》を著し王法に代えた。この書は後世多くの学者に引用された。
- 孔子没後、七十子の門人は諸侯に散り、師傅・卿相となる者、士大夫の友となる者、隠棲する者がいた。子路は衛、子張は陳、澹台子羽は楚、子夏は西河、子貢は斉に居し、田子方・段干木・呉起・禽滑釐らは子夏門下から出て王者の師となった。戦国の争乱で儒術は退けられたが、斉魯の地では学問が絶えず、威王・宣王の頃には孟子・荀卿らが孔子の教えを受け継ぎ発展させた。
- 秦の末、《詩》《書》は焚かれ術士は坑にされ《六芸》は廃れたが、陳勝が王を称すると魯の儒者たちは孔子の礼器を携えて陳王に帰服した(孔甲は陳勝の博士となり共に死んだ)。陳勝の事業は微小に終わったが、それでも儒者が身を寄せたのは、秦の焚書への積もる怨みゆえであった。
- 高祖が項籍を討ち魯を囲んだ際も、魯の儒者は講誦礼楽を絶やさなかった。漢が興ってようやく儒者は経芸を修め大射郷飲の礼を講じるようになり、叔孫通が漢の礼儀を定めて太常となった。しかし孝恵・呂后の代は武功の臣が公卿を占め、孝文帝は刑名の学を好み、孝景帝も儒者を用いず竇太后は黄老を好んだため、博士は具官のまま用いられなかった。
儒学の隆盛と学官の整備
- 武帝の即位後、趙綰・王臧らが儒学を明らかにし、天下から方正博聞の士を招いた。《詩》は魯の申培公・斉の轅固生・燕の韓太傅、《尚書》は済南の伏生、《礼》は魯の高堂生、《易》は菑川の田生、《春秋》は斉魯の胡毋生・趙の董仲舒がそれぞれ伝えた。竇太后の死後、丞相田蚡は黄老・刑名百家を退け文学の儒者数百人を招き、公孫弘は《春秋》により布衣から三公・平津侯にまで昇った。天下の学士はこぞってこの風になびいた。
- 公孫弘は学官の衰えを憂い、丞相・御史として奏上し、博士に弟子五十人を置くこと、地方の優秀な人材を選抜して業を受けさせ、一年ごとに試験して優秀者を郎中や文学掌故に任じる制度を定めることを提案し、武帝はこれを許可した。以後、公卿大夫士吏に文学の士が多く輩出するようになった。
申公(詩・魯)
- 魯の人。高祖の魯訪問時に弟子として謁見。呂太后の頃、長安で学び楚王劉郢と同門であった。郢の子戊が楚王となった際、太子の傅とされたが戊が学を好まず疎まれ、王位についた戊に胥靡(労役刑)にされる屈辱を受け、魯に帰って門を閉ざし教授に専念、王命でなければ動かなかった。弟子は遠方から百余人集まった。訓詁のみを教え、疑わしい箇所は敢えて伝えなかった。
- 弟子の王臧が武帝初年に郎中令となり、御史大夫となった趙綰と共に明堂の建設を天子に願い出、師の申公を推挙。天子は束帛・璧・安車駟馬で申公を迎えたが、すでに八十余歳の申公は「治世は多言によらず実行にある」とだけ答え、天子は落胆しつつも太中大夫として明堂の議に当たらせた。竇太后が趙綰・王臧の過失を咎めたため明堂の事は中止され、二人は獄に下されて自殺、申公も病と称して罷免され帰郷し、数年後に没した。
- 弟子で博士となった者は十余人(孔安国・周霸・夏寛・魯賜・繆生・徐偃・闕門慶忌ら)に及び、治績は廉節を称えられた。《詩》を説く者は流派を問わず多くが申公に本づいた。
轅固生(詩・斉)
- 清河王太傅。孝景帝の御前で黄生と「湯武は天命を受けたのか、それとも弑逆か」を論争。轅固生は桀紂の暴虐に天下が離反し湯武がやむなく立ったのは天命であると主張、黄生は君臣の分を説いて反論したが、景帝は「馬肝を食べずとも味を知らぬとは言えぬように、湯武の受命を論じずとも愚かとは言えぬ」と裁定して議論を止めさせた。以後、学者は敢えて放伐を論じなくなった。
- 竇太后に《老子》について問われた際「これは家人(庶民)の言に過ぎない」と答えて怒りを買い、猪と格闘させられる罰を受けたが、みごと一突きで仕留めて事なきを得た。景帝はその廉直を認め清河王太傅に任じたが、後に病で退いた。
- 武帝の初め、賢良として再召されたが多くの佞儒に妬まれ「老いた」として退けられた。同時に召された公孫弘に「正学を務めて世に阿るな」と諭した。斉の《詩》学は皆轅固生に本づく。
韓生(詩・燕)
- 孝文帝の博士、景帝の常山王太傅。《詩》の意を推して《内外伝》数万言を著し、斉魯の説とは趣を異にしつつ帰するところは同じであった。淮南の賁生がこれを承け、燕趙の《詩》学はこの系統による。孫の商は武帝の博士となった。
伏生(尚書・済南)
- 秦の博士であった。孝文帝が《尚書》に通じる者を求めたが天下になく、伏生は九十余の老齢で行けなかったため、太常が掌故の朝錯を遣わし学ばせた。秦の焚書の際に壁に隠していた書は兵乱で多くが失われ、二十九篇のみが残り、これにより斉魯の間で《尚書》が伝わった。
- 弟子の済南の張生・欧陽生を経て千乗の兒寛に伝わった。兒寛は貧しく弟子の賄い仕事をしつつ学び、廷尉史となった。張湯に才を認められ奏讞掾となり、後に御史大夫にまで昇ったが(張湯の死後六年)、和順な性格で強く諫めることはなく、九年で在官のまま没した。伏生の孫は《尚書》に通じず徴用に応えられなかった。
- 魯の周霸・孔安国、雒陽の賈嘉らも《尚書》に通じ、孔氏の家に伝わる古文《尚書》を孔安国が今文で読み解き、逸書十余篇を得て《尚書》はさらに充実した。
高堂生(礼・魯)
- 《礼》を語る学者の多くは高堂生に本づく。《礼》は孔子の時代から経が完備しておらず、秦の焚書でさらに散逸し、当時は《士礼》のみが伝わっていた。
徐生(礼容・魯)
- 容儀(礼の作法)に巧みで、孝文帝の代に禮官大夫となった。子の徐延・孫の徐襄に伝わり、襄は天性容儀に長じたが経典には通じず、延はやや通じたが十分でなかった。襄は広陵内史にまで至り、延や弟子の公戸満意・桓生・単次らも禮官大夫となった。瑕丘の蕭奮も《礼》により淮陽太守となった。以後、容による《礼》は徐氏の系統による。
田何・楊何(易)
- 魯の商瞿が孔子から《易》を受け、六代を経て斉の田何(字子荘)に伝わり漢の代となった。田何は東武の王同子仲に、子仲は菑川の楊何に伝えた。楊何は元光元年に召され中大夫に至った。斉の即墨成は城陽相、広川の孟但は太子門大夫、魯の周霸・莒の衡胡・臨菑の主父偃は皆《易》により二千石に至った。《易》を語る者は概ね楊何の系統に本づく。
董仲舒(春秋・広川)
- 《春秋》を修め孝景帝の博士となった。帷を下ろして講誦し、弟子は久しく学んだ順に伝授を受け、三年間庭にも出ぬほど学問に精を尽くした。進退容止は礼にかない、学士は皆これを師と仰いだ。
- 武帝の代、江都相となり《春秋》の災異説により陰陽の錯行を推し、雨乞いや止雨を行い実現させた。中央に召され中大夫となり閑居中に《災異之記》を著したが、遼東高廟の火災についての論述を主父偃が武帝に密告し、非難の書として問題視された。弟子の呂歩舒は師の著作と知らず酷評し、董仲舒は下獄され死罪に処されかけたが赦された。以後、災異を語ることを控えた。
- 公孫弘は《春秋》に通じながら董仲舒に及ばぬことを恥じ、世に阿って公卿に昇ったが、董仲舒は公孫弘を追従者と評した。弘はこれを疾み、天子に「膠西王の相にふさわしいのは董仲舒のみ」と進言し、王も学識を評価して厚遇したが、董仲舒は罪を得ることを恐れて病と称し辞職。以後、産業を治めず学問と著述に専念して没した。漢興から五代の間、《春秋》公羊学に明るいのは董仲舒の名に極まるとされた。
胡毋生・江生
- 胡毋生は斉の人。孝景帝の博士となり、老いて帰郷して教授した。斉で《春秋》を語る者の多くはその門下で、公孫弘も学んだ。
- 瑕丘の江生は穀梁《春秋》を伝えたが、公孫弘の登用後、その説をまとめて比較検討した結果、最終的には董仲舒の説が採用された。
董仲舒の門流
- 董仲舒の弟子には蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒らがいた。褚大は梁の相に、呂歩舒は長史に至り節を持って淮南の獄を裁いた際、諸侯の専断を天子に報告せず《春秋》の義によって処断し、天子はこれを是とした。門人で高官に至った者は数多く、董仲舒の子・孫もまた学問により高官に達した。