史記卷一百二十 汲鄭列傳第六十 鄭當時

人柄と晩節

  • 鄭当時、字は荘、陳の人。父は項籍の将であったが、漢に降った後も高祖の項籍旧臣に対する改名の詔に従わず、追放された。
  • 荘は任侠を好み、張羽を苦境から救った縁で梁楚の間に名を知られた。孝景帝の太子舎人となり、五日ごとの休暇には長安近郊に駅馬を配して旧友を訪ね賓客をもてなし、夜通し人を訪ねて回るほど篤実であった。黄老の学を好み、年少で官位が低い頃から祖父ほどの年長の名士と交わりを結んだ。
  • 武帝の代、魯中尉・済南太守・江都相を経て右内史に至ったが、武安侯・魏其侯の争いに関する議論で咎められ詹事に降格、後に大農令に遷った。
  • 太史として賓客に「貴賤を問わず門前で待たせるな」と命じ、賓主の礼を尽くし自らの貴を人に譲った。清廉で家産を治めず俸禄を人にふるまい、人に贈るのは器と食のみに留めた。朝廷では常に人物を推挙し、丞史の言葉すら自分よりも賢いとして引き立てた。人の善言を聞けば取り次ぐことを恐れるほど熱心で、山東の士人はこぞって鄭荘を称えた。
  • 決河の視察を命じられた際、五日の準備を願い出て、「鄭荘の行くところ千里も食糧を持たぬというのに」と皮肉られた。朝廷では主意に迎合しがちであった。晩年、匈奴征伐で財政が逼迫する中、大農の徴税請負人に任じた賓客が多くの負債を残したため、司馬安の告発で罪に落ち庶人に落とされ、後に長史を経て老齢のため汝南太守となり数年後に官のまま没した。

史論

  • 太史公は、汲黯・鄭当時ほどの賢者でも権勢があれば賓客が十倍し、なければ去るという世の常を嘆き、まして凡人においてはなおさらだとした。下邽の翟公が廷尉在任中は賓客が門に満ちたが、免官後は門前に雀羅を張れるほど寂れ、再任されると賓客が戻ろうとしたため、翟公は門に「一死一生、乃ち交情を知る。一貧一富、乃ち交態を知る。一貴一賤、交情乃ち見る」と大書したという故事を引き、汲黯・鄭当時の事例もまさにこれであると悲しんだ。