史記卷一百十八 淮南衡山列傳第五十八 衡山王賜

衡山王劉賜、淮南厲王の子。兄淮南王安と不和でありながらも便乗して謀反を準備した。子の孝や太子爽の内紛も重なり、元狩元年、淮南事件の捜査を機に謀反が発覚し自刎した。

年表(4件)
  • 元光六年謁者を拷問死させた事件を機に吏の増員を命じられ、これを恨んで謀反を密議した
  • 元朔五年淮南に立ち寄った際、淮南王安と和解し謀反の協力を約した
  • 元朔六年太子爽の廃嫡を上書したが太子との密告合戦になった
  • 元狩元年淮南事件の捜査で謀反が発覚し自刎した

兄弟の対立と自刎

  • 衡山王賜は王后乗舒との間に太子爽・次男孝・娘無采を、姫徐来との間に四人の子を、美人厥姫との間に二人の子をもうけた。淮南王と兄弟間で不和が生じ、衡山王は淮南の謀反の動きを知り、対抗して自らも賓客を集めた。
  • 元光六年、謁者衛慶が上書を企てたことに怒った王が拷問死させた事件を内史が咎めたため、王は内史を讒訴し、天子は不許可としつつ吏の増員を命じた。王はこれを恨み、奚慈・張広昌と共に兵法・占星の術者を求め謀反を密議した。
  • 王后乗舒の死後、徐来が王后となり、厥姫と反目。厥姫の讒言で太子爽は徐来を恨み、その兄を刺傷した。王后は太子を讒訴し、娘無采・次男孝は王后に付いて太子を讒毀した。太子はやがて廃嫡の危機に陥り、王后が自分の子広を太子に立てようと侍女を使って孝を陥れようとしたところ、太子は逆に王后に不義を働きかけて口を封じようとし発覚、王に械繋された。
  • 孝は寵愛を得て将軍と号し賓客を集め、江都の救赫・陳喜に兵車や偽印を作らせ、呉楚の乱の故事を引いて挙兵の準備をした。衡山王は淮南に先んじて即位を望むのでなく、淮南が先に西進すればその隙に江淮の地を確保しようという便乗策であった。
  • 元朔五年、衡山王が淮南に立ち寄った際、両王は和解し謀反の協力を約した。元朔六年、衡山王は太子爽の廃嫡を上書したが、爽は側近を通じて孝の謀反への関与を密告しようとし、発覚を恐れた王は逆に太子の不孝を訴えた。
  • 元狩元年、淮南事件の捜査で陳喜が孝の家に匿われていたことが発覚。孝は自首して救赫・陳喜らの謀反を告発し、罪を免れようとした。廷尉の取調べにより衡山王も追及されるに至り、王は自刎した。孝は自首により死罪を免れたが王の侍女との姦通の罪で棄市、王后徐来は乗舒毒殺の罪、太子爽は不孝の罪でそれぞれ棄市となり、共謀者は皆族滅され、国は除かれて衡山郡となった。

史論

  • 太史公は、《詩》に「戎狄はこれを膺(う)ち、荊舒はこれを懲らす」とあるのは真実であるとし、淮南・衡山は骨肉の親でありながら千里の国土を有する諸侯として天子を輔けるべき職分を怠り、邪僻の計を専らにして謀反に及び、父子二代にわたり国を滅ぼして天下の笑いものとなったと評した。これは王個人の過ちのみでなく、その風俗の薄さ、臣下の感化のあり方にも因があるとし、荊楚の地が古来から剽悍で乱を好むことが記録に見えると結んだ。