史記卷一百十八 淮南衡山列傳第五十八 淮南王安

淮南王劉安、淮南厲王の子。読書と鼓琴を好み学芸に通じたが、父の死を恨み長く謀反の機会を窺い、建元年間から武器を蓄えて準備を進めた。元狩元年、謀反が発覚し自刎した。

年表(4件)
  • 孝景三年呉楚七国の乱で淮南の相が兵権を握り漢に応じた
  • 建元二年入朝の際に武安侯の煽動を受け喜んで贈賄し、謀反への野心を強めた
  • 建元六年彗星の出現を機に武器を蓄え謀反の準備を進めた
  • 元狩元年謀反が発覚し、宗正の使者が至る前に自刎した

謀反と自刎

  • 孝景三年の呉楚七国の乱では、淮南の相が兵権を握って城を守り漢に応じ、廬江王は動かず、衡山王は堅く漢に忠を尽くした。乱後、衡山王は済北に移されて貞王と諡され、廬江王は越と通じていたため衡山王(江北)に移され、淮南王安はそのまま淮南に留まった。
  • 淮南王安は読書と鼓琴を好み、陰徳を施し名声を天下に流すことを望んだが、内心では父厲王の死を恨み、謀反の機会を窺っていた。建元二年の入朝の際、太尉であった武安侯が「天子に太子なく、大王は高皇帝の孫として最も仁義に篤い、もし宮車晏駕あれば大王をおいて誰が立つか」と煽り、王は大いに喜び贈賄した。建元六年、彗星の出現を機に天下に変事があると信じ、武器を蓄え、賓客・術士に金を賜って謀反の準備を進めた。
  • 娘の陵は弁舌に長け、王は長安で朝廷の情報を探らせた。王后荼・太子遷・娘陵は寵愛を恃んで国政を専らにし、民の田宅を奪い勝手に人を捕らえた。太子遷は妃と不仲を装って謀反計画の漏洩を防ぎ、妃は離縁された。
  • 太子は剣術を誇り郎中雷被と試合して誤って傷つけ、雷被は匈奴討伐への従軍を望んだが太子の讒言で退けられ、長安に逃れて上書し自らの潔白を訴えた。事件は河南郡で審理され太子に及んだ。王・王后は太子を出頭させず挙兵を計ったが決断できず、詔により尋問となった。太子は「使者が捕らえに来れば衛士の服を着せた者に刺殺させる」との謀を立てたが、実際の使者の態度が穏やかであったため実行しなかった。
  • 公卿は雷被の功を廃格した罪で淮南王の死罪・除国・削地を次々に上奏したが天子は許さず、最終的に二県削地の処分となった。それでも王の謀反の意志はやまず、伍被・左吳らと輿地図を広げ挙兵の道筋を検討した。
  • 伍被は繰り返し王を諫め、秦の暴政と陳勝・呉広の蜂起、高祖の天下取りの経緯、呉楚の乱の失敗を引いて挙兵の無謀を説いたが、王は聞き入れず、偽の丞相・御史・大将軍・郡太守の印璽や使者の符節を偽造させるまでに至った。最終的な計画は、丞相・二千石を偽の失火騒ぎで誘き出して殺し、南越侵入を装って挙兵するというものであった。
  • 王の孫建(太子の異母兄不害の子)は父が冷遇されていることを恨み、太子の謀反計画を知って上書し密告した。事件は丞相公孫弘のもとで審理され、淮南王の謀反が発覚。伍被も自ら出頭して謀反の詳細を告白した。
  • 天子は諸侯・列侯に議定させ、膠西王端らは大逆無道として誅殺を主張。宗正が符節を持って淮南に向かう前に、淮南王安は自刎した。王后荼・太子遷ら共謀者は皆族滅され、国は除かれて九江郡となった。伍被は漢の美点を弁じていたため助命が検討されたが、廷尉張湯の反対で誅殺された。