史記卷一百十八 淮南衡山列傳第五十八 淮南厲王長

淮南厲王劉長、高祖の末子。高祖十一年、淮南王に立てられたが、孝文帝の代に辟陽侯殺害や謀反まがいの不法行為により王位を廃され、孝文六年、蜀への流罪の道中で食を断って死んだ。文帝はのちにこれを悔い厲王と追諡した。

年表(7件)
  • 高祖
  • 八年趙王張敖が献じた美人が高祖の寵を受け身ごもり、厲王が生まれる縁となった
  • 十一年黥布討伐の旧領を与えられ淮南王に立てられた
  • 孝文三年父の仇である辟陽侯を自ら撃ち殺した罪を自首したが、孝文帝に許された
  • 孝文六年謀反まがいの不法が糾弾され王位を廃されて蜀への流罪となり、道中で食を断って死んだ
  • 孝文八年四人の子がそれぞれ列侯に封じられた
  • 孝文十二年民が厲王を悼む歌を聞いた文帝が嘆き、厲王として追諡した
  • 孝文十六年三子がそれぞれ淮南・衡山・廬江の王に立てられた

出自と刑死

  • 淮南厲王劉長は高祖の末子、母はもと趙王張敖の美人であった。高祖八年、趙を通過した高祖に趙王が母を献じ、寵を受けて身ごもった。
  • 貫高らの謀反事件に連座して趙王とその一族が捕らえられた際、厲王の母も捕らわれ、高祖の子であると訴えたが、高祖は趙王を怒っており取り合わなかった。母の弟趙兼が辟陽侯を通じて呂后に訴えたが、呂后は嫉妬して取り次がず、辟陽侯も強く争わなかった。母は厲王を生んだのち恨みのうちに自殺した。高祖は悔い、呂后に育てさせ、母は真定に葬られた。
  • 高祖十一年、黥布の反乱討伐後、その旧領四郡を与えられ淮南王に立てられた。孝恵・呂后の時代は呂后に付いて無事であったが、常に辟陽侯を恨んでいた。孝文帝の代、淮南王は最も近親であることを恃んで驕慢となり、法をしばしば犯した。孝文三年の入朝の際、辟陽侯を訪ねて自ら鉄椎で撃ち、従者に首を刎ねさせ、闕下で「母の仇を討った」として三つの罪状(呂后への諫言を怠った罪)を挙げ自首したが、孝文帝は同情してこれを許した。
  • 以後、厲王は驕り高ぶり漢法に従わず、天子を模して警蹕・制詔を用いた。孝文六年、部下の但らが棘蒲侯の太子と共謀し反乱を企てた事件が発覚し、淮南王も詔に従わず勝手に法令を作り、罪人を殺し賞罰を専断し、賜物を拒むなど数々の不法が糾弾された。丞相張倉らは死罪を主張したが、孝文帝は「忍びない」として死罪を免じ、王位を廃して蜀郡厳道の邛郵へ流し、妻子・侍女十人を伴わせ食料を給することとした。
  • 護送の途上、厲王は「誰が私を勇者と言うのか、驕りのために過ちを聞かずここに至った」と嘆いて食を断ち、雍に至って死去した。護送の県はいずれも封を解かず食を与えなかったためである。文帝は袁盎の諫言を容れられなかったことを悔い、不敬の県の丞相・御史らを誅殺し、列侯の礼で雍に葬り守冢三十戸を置いた。
  • 孝文八年、厲王の四人の子(安・勃・賜・良)はそれぞれ列侯に封じられた。孝文十二年、民が厲王を悼む歌(「一尺の布すら縫うに足り、一斗の粟すら舂くに足るに、兄弟二人は相容れず」)を作ったのを聞いた文帝は嘆き、堯舜が肉親を放逐し周公が管蔡を誅した故事を引いて「私が淮南の地を貪ったと天下は思うのか」と述べ、城陽王を淮南の旧地に移し、厲王として追諡した。
  • 孝文十六年、厲王の三子を淮南(安)・衡山(勃)・廬江(賜)の王に立てた(東城侯良は早世し後継がなかった)。