史記卷一百七 魏其武安侯列傳第四十七 田蚡

武安侯田蚡、孝景后(王太后)の同母弟。武帝の外戚として台頭し、建元元年に太尉、建元六年に丞相となり専権を振るった。竇嬰・灌夫と対立し二人を陥れたが、まもなく病んで死んだ。

年表(4件)

出自と孝景晩年の台頭

  • 武安侯田蚡は孝景后(王太后)の同母弟。長陵の生まれ。魏其侯が大将軍として盛んであった頃、田蚡はまだ諸郎の身分で子姓のように仕えていた。孝景帝晩年、田蚡は太中大夫となり、弁舌と《槃盂》諸書の学で王太后に重んじられた。
  • 孝景帝が崩じ、太子(武帝)が即位すると、田蚡の賓客の計策が用いられることが多かった。孝景後三年、田蚡は武安侯、弟の田勝は周陽侯に封じられた。

丞相就任と儒術推進、竇太后との対立

  • 建元元年、丞相衛綰が病免すると、籍福の助言により田蚡は太后を通じて上に働きかけ、魏其侯竇嬰を丞相、田蚡自身を太尉とした。籍福は魏其侯に、善を好み悪を疾む性分が身を滅ぼしかねないと忠告したが、聞き入れられなかった。
  • 竇嬰・田蚡はともに儒術を好み、趙綰を御史大夫、王臧を郎中令に推挙、魯の申公を迎え明堂を設け、列侯を封国へ帰し、宗室で不行跡の者を除籍しようとした。これは列侯・竇氏宗室の反発を招き、黄老を好む竇太后の怒りを買った。建元二年、御史大夫趙綰が「東宮(太后)に奏事するな」と請うたことで竇太后は激怒し、趙綰・王臧を誅殺、竇嬰・田蚡も丞相・太尉を免じられ、柏至侯許昌・武彊侯莊青翟に代わった。竇嬰・田蚡は侯として家居することとなった。

丞相復帰と専横

  • 田蚡は不遇の間も王太后の力で親幸を保ち、天下の趨勢者は魏其を去って田蚡に帰した。建元六年、竇太后が崩じると、丞相許昌・御史大夫莊青翟は喪事不辦の廉で免ぜられ、田蚡が丞相、韓安国が御史大夫となった。
  • 田蚡は容貌に優れなかったが生来貴く、若い武帝を軽んじ、朝政を専断した。人事は思うままとなり、帝が「除吏はもう尽きたか」と皮肉るほどであった。考工の地を望んで帝に一喝されたこともある。邸宅は諸侯にまさり、田園は膏腴を極め、後房に美女百人を蓄えるなど、驕奢を極めた。

竇嬰と灌夫――交誼

  • 竇太后を失った魏其侯は勢いを失い、賓客も去っていったが、灌夫将軍だけは変わらず厚遇した。魏其侯は日々鬱々としながら灌夫を厚遇した。