史記卷一百七 魏其武安侯列傳第四十七 竇嬰
竇嬰、魏其侯。孝文皇后竇太后の従兄の子。孝景三年の呉楚七国の乱で大将軍として功をたて魏其侯に封じられたが、太后の怒りを買い栄枯を繰り返した。晩年は灌夫を厚遇し、灌夫救援に動いたことで田蚡と対立、元光五年、先帝の遺詔を偽ったとして棄市された。
出自と孝文・孝景朝
- 竇嬰は魏其侯。孝文后(竇太后)の従兄の子で、観津の人。父の代から賓客を好んだ。
- 孝文帝の時、呉の相となったが病で免官。孝景帝の即位初め、詹事となる。
- 梁孝王(孝景帝の弟)が朝見した宴席で、孝景帝が「千秋の後は梁王に位を伝える」と戯れに言い、竇太后が喜んだ際、竇嬰は「天下は高祖の天下であり父子相伝が漢の約であって、帝が擅に梁王に伝えることはできない」と諫めた。竇太后はこれを憎み、竇嬰は病と称して免官、太后は竇嬰の門籍を除いて朝請を許さなかった。
孝景朝の栄達と失脚
- 孝景三年、呉楚七国の乱が起こると、帝は竇氏一族に竇嬰ほどの賢者がないとして大将軍に任じ、金千斤を賜った。竇嬰は袁盎・欒布ら在野の名将賢士を推挙し、賜金は廊廡に置いて軍吏に自由に取らせ、私財としなかった。竇嬰は滎陽を守り斉・趙の兵を監督、七国の兵が破れると魏其侯に封じられた。遊士賓客はこぞって魏其侯に帰した。
- 孝景四年、栗太子が立てられると魏其侯は太子傅となったが、孝景七年に栗太子が廃されると、争っても止められず、病と称して藍田南山に籠った。梁人高遂の説得で朝請に復帰した。
- 桃侯が相を免じられた際、竇太后はしばしば魏其侯を推したが、孝景帝は「魏其は軽率で持重に欠ける」として用いず、建陵侯衛綰を丞相とした。