史記卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 叔孫通
叔孫通、薛の人。秦の博士から出発し、項梁・懐王・項羽を経て漢に帰順、漢の朝儀・宗廟儀礼を制定して儒宗と称された。高祖が太子を代えようとした際には強く諫めて思いとどまらせた。
年表(5件)
- 漢二年漢王が五諸侯とともに彭城に入ると漢に降り、以後仕え続けた
- 漢七年(前)200年長楽宮の完成に伴い十月の朝賀で新儀礼を初めて行い、高帝に称賛された
- 漢五年(前)202年天下平定に伴う皇帝推戴の朝儀を担い、儒生を集めて制定した
- 漢十二年(前)195年高祖が太子を趙王如意に代えようとするのを強く諫めて思いとどまらせた
- 漢九年(前)198年太子太傅に転じた
秦朝での機転
- 叔孫通は薛の人。秦代に文学を以て徴され博士に任じられていた。陳勝が山東で挙兵すると、二世皇帝は博士や儒生に意見を求めた。多くの者が「臣下が兵を将いるのは謀反であり、直ちに討伐すべき」と答え二世は怒色を見せたが、叔孫通は「天下は既に一家となり城を毀し兵を鎔かして再び用いぬことを示した。明主が上に在り法令が行き渡っている以上、謀反などありえない。これは群盗・鼠竊狗盗の類に過ぎず郡の守尉が捕らえて処罰すればよいだけだ」と述べ、二世を喜ばせた。反乱と述べた儒生は処罰され、盗賊と述べた者は放免された。叔孫通には帛二十匹・衣一襲が下賜され博士に任じられた。
- 退出後、他の儒生に「なぜあれほど諛うのか」と問われ、叔孫通は「危うく虎口を逃れられぬところだった」と答えて薛へ逃れた。薛は既に楚に降っており、項梁が薛に来ると叔孫通はこれに従った。定陶で敗れると懐王(義帝)に従い、義帝が長沙に移されると項王に留まって仕えた。漢二年、漢王が五諸侯とともに彭城に入ると叔孫通は漢に降り、その後漢に従い通した。
漢への帰順と儒服を脱ぐ
- 叔孫通が儒服のまま現れると漢王は嫌ったため、楚風の短衣に着替え漢王を喜ばせた。
- 叔孫通が漢に降った際、百余人の弟子が従っていたが、叔孫通は彼らを推挙せず、もっぱら旧盗賊出身の壮士を推挙した。弟子たちは不満を漏らしたが、叔孫通は「漢王は今まさに矢石を冒して天下を争っている。諸君は戦えるか。だからまず斬将搴旗の士を推挙するのだ。私は諸君を忘れてはいない」と応じた。漢王は叔孫通を博士に任じ稷嗣君と号した。
朝儀の制定
- 漢五年(前202年)、天下が定まり諸侯が漢王を皇帝に推戴した際、叔孫通はその儀礼を担った。高帝は秦の煩雑な儀礼を廃し簡素にしたが、群臣が酒に酔って功を争い剣を抜き柱を撃つ有様に高帝は頭を悩ませた。
- 叔孫通は「儒者は進取には向かないが守成には役立つ。魯の諸生を徴し弟子とともに朝儀を作りたい」と願い出、「五帝も三王も礼を異にした。礼とは時世と人情に応じて定める節文である。古礼と秦の儀礼を折衷したい」と説明し、上は「試みによ、わしが行える程度にせよ」と許した。
- 叔孫通は魯の儒生三十余人を招いたが、そのうち二人は「あなたは十人近い主君に仕え諛いによって親貴を得た。天下が定まったばかりで死者も傷者もまだ癒えぬのに礼楽を興そうとするのは、積徳百年の後にこそ興すべき礼楽の道に反する」と拒み従わなかった。叔孫通は「お前たちは時勢を知らぬ鄙儒だ」と笑って一蹴した。
- 招いた三十人と上の側近の学者・弟子百余人で野外に緜蕞を設け一か月余り練習し、上が見て「これならできる」と認めると、十月の朝賀に向けて群臣に習わせた。
- 漢七年(前200年)、長楽宮が完成し十月の朝賀で新儀礼が初めて行われた。平明に謁者が礼を仕切り、次第に殿門に入らせ、廷中に車騎・歩兵を配し兵と旗を立てた。「趨れ」と伝えられ、殿下の郎中が陛を挟んで並び、功臣列侯・諸将軍は西方に東面して並び、丞相以下の文官は東方に西面して並んだ。大行が九賓の礼を執り取り次ぎ、皇帝の輦が現れると百官が粛然として拝賀し、諸侯王以下六百石の吏に至るまで振恐粛敬しない者はなかった。礼が終わると法酒が置かれ、身分の順に上寿し、九献の後「罷酒」の声とともに御史が儀に外れる者を取り締まった結果、朝賀の間終始騒ぐ者はなかった。高帝は「今日初めて皇帝の貴さを知った」と述べ、叔孫通を太常に任じ金五百斤を賜った。
太子太傅としての諫言
- 叔孫通は弟子たちの官職登用を願い出、高帝は皆を郎に任じ、叔孫通も賜った金五百斤を弟子たちに分け与えた。弟子は「叔孫先生はまことに聖人だ、当世の要務を知っている」と喜んだ。
- 漢九年(前198年)、叔孫通は太子太傅に転じた。
- 漢十二年(前195年)、高祖が趙王如意に太子を代えようとした際、叔孫通は晋献公が驪姫のために太子を廃し奚齊を立てて晋を数十年混乱させた例、秦が扶蘇を早く定めず趙高が胡亥を偽り立てて秦の祭祀を絶やした例を挙げ、「太子は仁孝で天下に聞こえ、呂后とは苦楽を共にしてきた。廃嫡してはならぬ。もし強行するなら先に誅されて頸血で地を汚したい」と強く諫めた。高帝は「戯れだ」と取り繕ったが、叔孫通は「太子は天下の本、本が揺らげば天下が振動する。天下を戯れの対象にしてはならない」と重ねて諫め、留侯が招いた賓客が太子に付き従う様を見て高帝は太子を代える意志を捨てた。
宗廟儀礼の整備
- 高帝が崩じ孝恵帝が即位すると、叔孫通は「先帝の園陵・寝廟の儀礼を群臣は誰も習っていない」として太常に転じ宗廟の儀法を定めた。以後定められた漢の諸儀法は叔孫通が太常として論定したものであった。
- 孝恵帝が東の長楽宮へ朝することが頻繁で警蹕が民を煩わせるため複道を武庫の南に築こうとした際、叔孫通は「高廟は漢の太祖を祀る場所、後世の子孫が宗廟の道の上を通るようなことがあってよいのか」と諫めた。孝恵帝は驚き取り壊そうとしたが、叔孫通は「人主に過ちはないもの。既に作られ百姓も知っている以上、壊せば過ちを示すことになる。渭水の北に原廟を建て衣冠の行幸をそちらで行うべきだ」と提案し、これが原廟創設の由来となった。
- 孝恵帝が春に離宮へ出遊しようとした際、叔孫通は「古来春には初物の果実を供える習わしがある。ちょうど桜桃が熟しているので出遊のついでに宗廟へ献じてはどうか」と勧め、これにより果物を宗廟に献じる慣習が始まった。
史論
- 太史公は言う。「千金の裘は一匹の狐の腋だけでは作れず、台榭の垂木は一本の木の枝だけでは足りず、三代の隆盛は一人の士の知恵だけによるものではない」との諺は真実である。高祖は微賤より興り海内を定め、謀計・用兵はほぼ尽くしたと言えるが、劉敬の一言により万世の安泰の基が築かれた。知恵は一人に専属するものではない。叔孫通は世を見極め務めを図り、礼を制定し進退を時勢に合わせ、ついに漢家の儒宗となった。「大直は屈するかのごとく、道は曲がりくねって進む」とはこのことを言うのであろう。