史記卷九十九 劉敬叔孫通列傳第三十九 劉敬
劉敬(もと婁敬)、斉の人。漢五年、高帝に関中定都を説いて容れられ劉姓を賜り奉春君と号した。匈奴討伐に反対して平城の敗戦を予見したが聞き入れられず、のち和親策と関東豪族の関中移住を献策し、漢初の国是を定めた。
年表(2件)
- 漢五年(前)202年高帝に関中への遷都を説いて容れられ、劉姓を賜り奉春君と号した
- 漢七年(前)200年匈奴討伐に反対したが聞き入れられず、高帝は平城の白登山で七日間包囲された
関中定都を説く
- 劉敬はもとの名を婁敬といい斉の人。漢五年(前202年)、隴西への戍役の途中で洛陽を通った際、高帝が在城していた。婁敬は輓輅の轅を脱ぎ羊裘のまま同郷の虞将軍を訪ね「上に会って便事を言いたい」と申し出た。虞将軍が立派な服を勧めても「私は帛の服なら帛の服のまま、褐の服なら褐の服のまま会う。決して着替えない」と断り、そのまま上に召された。
- 婁敬は「陛下は洛陽に都したいのか、周室と隆盛を並べたいのか」と問い、周が后稷以来十数世にわたり徳を積み、公劉・太王・文王・武王・成王と続く過程を経て天下の中央たる洛邑に都したことと、漢が豊沛から興り三千の卒を率いてわずか五年で天下を平定した経緯とは大きく異なると説いた。長年の激戦で民は疲弊し死傷者も多く、いま周の成康の盛時に比べるのは誤りであり、むしろ山河に囲まれ守りやすい秦の故地・関中に都すべきだと勧めた。
- 群臣は多くが山東の出身で洛陽定都を主張し上も迷ったが、留侯(張良)が関中の利を説いたことで即日関中への遷都が決まった。上は「もとは婁敬が秦地への都を進言した。『婁』は『劉』に通じる」として劉姓を賜り、郎中に任じ奉春君と号した。
匈奴情勢の見立てと平城の敗戦
- 漢七年(前200年)、韓王信が反乱すると高帝は自ら討伐に赴いた。晋陽に至り韓王信が匈奴と結んで漢を撃とうとしていると聞き、使者を匈奴に遣わした。匈奴は壮士や肥えた牛馬を隠し老弱の家畜のみを見せたため、十度にわたる使者はいずれも「匈奴は撃つべし」と報告した。
- 劉敬は自ら赴いて羸弱な老兵ばかりを見たことから、これは弱みを見せて奇兵で利を争おうとする策と見抜き「匈奴を撃つべきではない」と進言した。しかし既に漢軍二十余万が進軍しており、上は「斉の虜めが口先で官を得て、いま出兵を妨げるか」と怒り劉敬を広武に械繋した。
- 果たして匈奴は奇兵を出して高帝を平城の白登山に七日間包囲した。囲みが解けた後、高帝は広武で劉敬を赦し「わしは公の言を用いず平城で苦しんだ。先の十人の使者は既に斬った」と述べ、劉敬を二千戸に封じ関内侯・建信侯と号した。
和親策と関中への強制移住
- 高帝が平城から帰還した後、韓王信は胡へ亡命した。当時単于となった冒頓は控弦三十万の兵を擁し北辺をたびたび侵していた。上が対策を問うと劉敬は「天下はまだ定まったばかりで兵は疲れ、武力で服させることはできない。冒頓は父を殺して立ち母后を妻としており仁義でも説けない。ただ長期の計として子孫を臣とする道しかない」と述べ、嫡長公主を単于に嫁がせ厚く贈り物を送れば、生まれた子は太子となり単于を継ぐため、外孫が祖父にあたる漢に敵対することはないと説いた。
- 高帝は同意したが呂后が「太子と娘一人しかいないのに匈奴に捨てられない」と泣いて反対したため、結局は宗室の娘を長公主と偽って単于に嫁がせ、劉敬を遣わして和親の約を結ばせた。
- 劉敬は帰還後さらに、匈奴に近い河南の白羊・楼煩の王が長安から七百里と近く軽騎兵なら一日一夜で秦中に至れる危険を説き、関中は新たに破れて人が少なく、斉の諸田・楚の昭・屈・景氏・燕趙韓魏の後裔・豪傑名家を関中に移すべきだと提言した。事なき時は胡への備えとなり、諸侯に変あれば東征の兵ともなるとして「これは本を強くし末を弱める術である」と述べ、上はこれを容れて十余万人を関中に移住させた。