史記卷九十七 酈生陸賈列傳第三十七 酈食其
酈食其(酈生、?–漢3年)は陳留郡高陽の人。読書を好んだが家が貧しく里の門番をして暮らし、県では「狂生」と呼ばれた。沛公に説いて陳留を降し「広野君」と号され、のち敖倉確保を献策し斉王田広を説いて漢に帰順させ漢の形勢を大きく助けたが、韓信の斉急襲を自らの裏切りと誤解され、斉王に釜茹でにされて死んだ。死後、子の酈疥が父の功により高梁侯に封じられた。
年表(4件)
- 漢3年(前、原文ママ)204年敖倉確保を献策し、斉王田広を説いて漢に帰順させる
- 漢3年(前、原文ママ)204年韓信の斉急襲を裏切りと誤解した斉王田広に釜茹でにされる
- 元狩元年(前)122年曲孫の武遂侯酈平、詐欺の罪に問われるが病死し国が除かれる
- 漢12年(前)195年父の功により子の酈疥が高梁侯に封じられる
高陽の狂生から沛公の食客へ
- 酈食其は陳留郡高陽の人。読書を好んだが家が貧しく落魄し、里の門番役(監門吏)をして暮らした。県の賢豪は誰も彼を使いこなせず、県中では「狂生」と呼ばれていた。
- 陳勝・項梁らが挙兵すると、高陽を通る諸将は数十人に及んだが、酈食其はいずれも度量が狭く大言を聞き入れないと見て、深く身を隠していた。
- のちに沛公(劉邦)が兵を率いて陳留の郊外を攻略していると聞き、沛公配下の騎士が偶然酈食其と同郷の子であったことから、酈食其は自分を沛公に推挙するよう頼んだ。騎士は「沛公は儒者を好まず、儒冠をかぶった客が来ると冠を奪って小便を注ぎ入れるほどだ」と忠告したが、酈食其は構わず面会を求めた。
- 沛公が高陽の宿舎で両女に足を洗わせながら酈食其を引見しようとしたところ、酈食其は拝礼せず立ったまま「秦を助けて諸侯を攻めるのか、諸侯を率いて秦を破るのか」と詰問した。沛公は罵ったが、酈食其が「無道の秦を討つ義兵を集めるのに長者を倨傲に迎えるべきではない」と諭すと、沛公は洗足をやめて衣を正し、上座に迎えて謝った。
- 酈食其は六国合従連衡の故事を語り、沛公の求めに応じて策を献じた。「陳留は天下の要衝で穀物の蓄えも多い。私は陳留の令と親しいので、これを説いて降させ、聞かなければ足下が兵を挙げ、私が内応する」と提案した。この策により陳留は下り、酈食其は「広野君」と号された。
- 酈食其は弟の酈商を沛公に推挙し、酈商は数千の兵を率いて沛公に従い西南の地を略した。酈食其自身は説客として諸侯のもとを馳せ使いした。
敖倉の献策と斉説得
- 漢三年(前204年、原文ママ)秋、項羽が滎陽を攻め落とし、漢軍は鞏・洛に退いた。楚は淮陰侯(韓信)が趙を破り、彭越が梁の地でたびたび反抗するのに備えて兵を分けたため、漢王は成皋以東を捨てて鞏・洛に屯し楚を防ごうとした。
- 酈食其は「王者は民を天とし、民は食を天とする」と説き、敖倉に蓄えられた穀物の重要性を指摘。楚が滎陽を落としながら敖倉を固守せず東へ引いたのは天の与えた好機であり、いま兵を退くのは自らその利を捨てることだと諫めた。滎陽を取り返して敖倉に拠り、成皋の険を塞ぎ、大行・蜚狐・白馬の要所を押さえて諸侯に実勢を示せば天下の帰趨が定まると説き、あわせて斉王への使者として自分が説得に赴くことを願い出た。漢王はこれを用いた。
- 酈食其は斉王田広に対し、天下の帰趨は漢にあると説いた。漢王が先に咸陽に入りながら項羽に約を破られ漢中に王とされたこと、義帝殺害後に漢王が蜀漢の兵を興して三秦を撃ち、諸侯の後裔を立てて天下と利を分かち合ったこと、対して項羽は約束を破った悪名を負い、功に報いず罪を忘れず、人を用いる度量に欠けることを対比して論じ、蜀漢平定・西河渡河・井陘攻略・成安君誅殺・北魏撃破など漢の連勝を「天の福」と評した。斉王がこれを受け入れれば国は保たれ、拒めば滅亡が待つと迫った。田広はこれを納得し、歴下の守備を解いて酈食其と連日酒宴を開いた。
斉王による処刑
- 淮陰侯韓信は酈食其が弁舌のみで斉の七十余城を降したと聞き、夜に平原から兵を渡して斉を襲った。斉王田広は漢軍来襲を酈食其の裏切りと見なし、「漢軍を止めれば生かすが、さもなくば煮殺す」と脅した。酈食其は「大事をなす者は細事にこだわらず、盛徳ある者は辞譲しない。お前のために言葉を改めはしない」と言い放ち、斉王はついに酈食其を釜茹でにして東へ逃走した。
死後の顕彰
- 漢十二年(前195年)、曲周侯酈商は丞相として黥布討伐に功を立てた。高祖が列侯・功臣を挙げる際に酈食其のことを思い出し、その子酈疥は数度出兵していたが侯に封じられるほどの功はなかったものの、父の功により高梁侯に封じられた。のち武遂に食邑を改め、三代にわたり継承された。
- 元狩元年(前122年)、武遂侯酈平は詐って詔と偽り衡山王から金百斤を取った罪に問われ、棄市に当たるところ病死し、国は除かれた。