史記卷九十六 張丞相列傳第三十六 申屠嘉
申屠嘉丞相(故安侯)は梁の人。材官の蹶張として高帝に従い項籍を攻め、孝文帝の代に御史大夫を経て丞相となった。廉直な人柄で知られ、文帝の寵臣鄧通の朝廷での非礼を厳しく責めた逸話で知られる。景帝の代には晁錯との対立に敗れ、誅殺の奏請を退けられて憤死した。
挙兵から丞相へ
- 申屠丞相嘉は梁の人で材官の蹶張として高帝に従い項籍を攻め隊率に遷った。黥布討伐に従い都尉となった。孝惠の時、淮陽守となった。孝文帝元年、高皇帝に従った旧吏で二千石だった者を挙げて悉く関内侯とし食邑を与えた者二十四人の中で申屠嘉は五百戸の食邑を得た。張蒼が丞相となると嘉は御史大夫に遷った。張蒼が丞相を免ぜられた後、孝文帝は皇后の弟竇廣国を丞相にしたいと考えたが「天下に私が広国を私したと思われるのを恐れる」と述べた。広国は賢く行いも良かったが長く思案した末、高帝時代の大臣も多く死んでおり他に適任者がいないとして御史大夫嘉を丞相とし、旧邑をもって故安侯に封じた。
鄧通との対立
- 嘉は人となり廉直で私的な謁見は受けなかった。この時、太中大夫鄧通は文帝の寵愛を一身に受け賜物は巨万に及んでいた。文帝はしばしば鄧通の家で宴を催すほどの寵愛ぶりであった。ある時、丞相が参内する際に鄧通が上座におり礼を怠る様子があった。丞相は奏事を終えると「陛下が寵臣を愛されるのはよいが、朝廷の礼を乱すことは許されません」と述べた。上は「そなたは言うな、私が自分で処理する」と言った。退朝後、丞相府で嘉は檄を送って鄧通を丞相府へ召し、来なければ斬ると告げた。恐れた通は文帝に訴えたが、文帝は「そなたはとにかく行け、私が後で人を送って呼び戻す」と告げた。通は丞相府に至り冠を脱ぎ裸足で頓首して謝った。嘉は座ったまま礼を返さず「朝廷は高皇帝の朝廷である。通のような小臣が殿上で戯れるのは大不敬にあたり斬に当たる、今すぐ斬れ」と責めた。通は頭を打ち付けて血を流しても許されず、文帝は丞相が既に通を十分に懲らしめたと見て使者を持節で送り通を召し、丞相に「これは私の弄臣だ、許してやってくれ」と謝した。鄧通は戻ると文帝に泣いて「丞相にもう少しで殺されるところでした」と訴えた。
晁錯との対立と死
- 嘉が丞相となって五年、孝文帝が崩じ孝景帝が即位した。二年、晁錯が内史となり寵幸を受け重んじられ、多くの法令の変更を進言し謫罰をもって諸侯を削ることを議した。丞相嘉は自らの進言が用いられないことを不満とし錯を憎んでいた。錯は内史の官舎の門が東向きで不便だとして南に新たな門を穿ったが、その南は太上皇廟の外垣にあたる場所であった。これを聞いた嘉は宗廟の垣を勝手に穿って門としたことを法をもって咎め、錯の誅殺を奏請しようとした。錯の客がこれを錯に告げると錯は恐れ、夜に宮中に入り自ら景帝に事情を申し出た。朝廷で丞相が内史錯の誅殺を奏請すると景帝は「錯が穿ったのは真の廟垣ではなく外垣であり、他の官もその中に居を構えている。しかも私が命じてやらせたことで錯に罪はない」と答えた。退朝後、嘉は長史に「先に錯を斬っておけばよかったものを、先に奏請してしまい錯に出し抜かれた」と嘆き、府に戻ると血を吐いて死んだ。節侯と諡された。子共侯蔑が代わり三年で卒し、子侯去病が代わり三十一年で卒し、子侯臾が代わったが六年、九江太守として旧官からの贈物を受けた罪に坐して国は除かれた。
丞相の交代――景帝から武帝の初め
- 申屠嘉の死後、景帝の時代には開封侯陶青・桃侯劉舍が丞相となった。今上(武帝)の時代には柏至侯許昌・平棘侯薛澤・武彊侯莊青翟・高陵侯趙周らが丞相となった。彼らは皆列侯の家系を継いだ者で、控えめで謹直ではあったが丞相として員数を満たすのみで功名を世に著すことはなかった。
史論
- 太史公は言う。張蒼は文学・律暦に通じ漢の名相となったが、賈生・公孫臣らの正朔服色の説を退け秦の顓頊暦をなお用いたのはなぜであろうか。周昌は木のように剛直な人であった。任敖は旧恩によって用いられた。申屠嘉は剛毅で節を守ったと言えるが学識に乏しく、蕭何・曹参・陳平とは異なる質の人物であった。
孝武帝以降の丞相たち(附録)
- 孝武帝の時代は丞相が甚だ多く、その行状や履歴は記録されず伝わっていない。ここでは征和以降のことのみを記す。
車丞相
- 車丞相は長陵の人であった。卒すると韋丞相が代わった。
韋賢(韋丞相)
- 韋丞相賢は魯の人。読書と学術で吏となり大鴻臚に至った。ある人相見が賢を見て「丞相に至る相」と告げ、賢は四人の男子を相人に見せた。二番目の子玄成を見た相人は「この子は貴く封を受けるだろう」と述べたが、賢は「私自身が丞相となり長子がいるのに、なぜ次子が継ぐことがあろうか」と述べた。後に賢は果たして丞相となり病死したが、長子は罪に問われ嗣げず、玄成が立てられた。玄成は当初、狂を装って辞退したが、ついに立てられ国を譲った名を得た。後に廟への参拝時の不敬に坐し爵一級を奪われ関内侯となり列侯の位を失ったが旧国の食邑は保った。韋丞相が卒すると魏丞相が代わった。
魏相(魏丞相)
- 魏丞相相は済陰の人。文吏から丞相に至った。その人柄は武を好み、諸吏に剣を帯びさせ奏事の際も帯剣させた。剣を帯びていない者は借りてでも入って奏事した。当時の京兆尹趙君は丞相に免罪を奏されたことを恨み、人を使って魏丞相を捕らえ脅して罪を逃れようとしたが聞き入れられず、さらに夫人が侍婢を殺したとの疑いを私に取り調べようと吏卒を丞相の家に発し奴婢を捕らえて笞打ち尋問させたが、実際に刃物で殺した事実はなかった。丞相司直の繁君は京兆尹趙君が丞相を脅迫し夫人に殺人の罪を誣告し吏卒を発して丞相の邸を包囲捕縛した不道の罪、さらに擅に騎士を動かした罪を上奏し、趙京兆は腰斬に処された。また使掾の陳平らが中尚書を弾劾し独断で事を強行したとして大不敬に問われ、長史以下は皆死罪や蚕室送りとなった。魏丞相は結局、丞相在任のまま病死した。子が嗣いだが後に廟参拝の不敬に坐し爵一級を奪われ関内侯となり列侯を失ったものの旧国の食邑は保った。魏丞相が卒すると御史大夫邴吉が代わった。
邴吉(邴丞相)
- 邴丞相吉は魯国の人。読書と法令に通じ御史大夫に至った。孝宣帝の時、旧恩により列侯に封じられ丞相となった。物事に明るく大いなる智恵を持ち後世に称えられた。丞相在任のまま病死した。子の顯が嗣いだが後に廟参拝の不敬に坐し爵一級を奪われ列侯を失ったが旧国の食邑は保った。顯は吏として太僕に至ったが官の不正・混乱に坐し自身と子に姦贓の罪があり庶人に落とされた。
黄霸(黄丞相)
- 邴丞相の死後、黄丞相が代わった。長安の善き相人田文なる者があり、韋丞相・魏丞相・邴丞相がまだ微賤であった頃、共に客の家で会した際、田文は「今日ここにいる三君は皆丞相となるだろう」と述べたという。その後、実際に三人が代わる代わる丞相となった、その見通しの明らかなことよ。
- 黄丞相霸は淮陽の人。読書で吏となり潁川太守に至った。潁川を治めるにあたり礼義と条教で民を教化し、法を犯す者には風諭して自ら改めさせた。教化は大いに行われ名声が広まった。孝宣帝は詔して「潁川太守霸は詔令を布いて民を治め、道に落し物を拾わず男女は道を異にし獄に重囚がない」と述べ関内侯の爵と黄金百斤を賜った。京兆尹に徴されて後、丞相に至り、なお礼義による統治を続けた。丞相在任のまま病死した。子が嗣ぎ後に列侯となった。黄丞相が卒すると御史大夫于定国が代わった。于丞相についてはすでに廷尉としての伝が「張廷尉」の中に記されている。于丞相が去ると御史大夫韋玄成が代わった。
韋玄成(韋丞相)
- 韋丞相玄成は前の韋丞相の子である。父を継いだが後に列侯を失った。若い頃から読書を好み『詩』『論語』に通じた。吏として衛尉に至り太子太傅に遷った。御史大夫薛君が免ぜられると御史大夫となった。于丞相が骸骨を乞うて免ぜられると玄成が丞相となり、旧邑によって扶陽侯に封ぜられた。数年後、病死した。孝元帝が自ら喪に臨み手厚く賜物をした。子が後を嗣いだ。玄成の治めぶりは世俗に流されがちで諂い巧みだと評されたが、相人がかつて父を継いで侯となると告げながら後に一度は失い、また自ら仕官して丞相に至ったのは、父子共に丞相となったこととして世間で美談とされた。何と天命であろうか、相人はその先を知っていたのである。韋丞相が卒すると御史大夫匡衡が代わった。
匡衡(丞相)
- 丞相匡衡は東海の人。読書を好み博士について『詩』を学んだ。家が貧しく衡は雇われ仕事で食を得た。才が乏しく射策に幾度も落ち九回目でようやく丙科に及第した。その経学は落第を重ねたことでかえって深く身についた。平原の文学卒史に補せられたが数年、郡では尊重されなかった。御史がこれを徴し百石の属に補してから郎に薦められ、博士に補され太子少傅に拝され孝元帝に仕えた。孝元帝は『詩』を好み、衡は光禄勲に遷り殿中で師となり左右に教授し、県官(皇帝)もその傍らで聴いて大いに喜び日ごとに尊貴となった。御史大夫鄭弘が事に坐して免ぜられると匡君が御史大夫となった。歳余り、韋丞相が死ぬと匡君が代わって丞相となり楽安侯に封じられた。十年の間に長安の城門を出ることなく丞相に至ったとは、時に遇い命に恵まれたと言うほかない。
史論(附録)
- 太史公は言う。士が仕官して封侯に至る道を深く考えてみるに、その機会は甚だ稀である。多くは御史大夫まで至って退く者が多い。大夫となった者は丞相の座を次に望み、内心では丞相の死没を待ち望むほどであり、密かに互いに讒毀し合ってその座を狙う者もある。しかし長く守っても得られぬ者があり、少ない期間で得る者もある、封侯に至ることはまさに命というほかない。御史大夫鄭君は数年その座を守っても得られなかったのに、匡君は一年に満たぬ間にその座に居て韋丞相が死ぬとすぐに代わった。これを智巧で得られるものと言えようか。賢聖の才を持ちながら困窮して得られぬ者は実に多いのである。