史記卷九十六 張丞相列傳第三十六 周昌

沛からの従軍

  • 周昌は沛の人。従兄の周苛と共に秦時代は泗水の卒史であった。高祖が沛で挙兵し泗水守監を破ると、周昌・周苛は卒史から沛公に従い、沛公は周昌を職志、周苛を客とした。関に入って秦を破ると、沛公が漢王に立った際には周苛を御史大夫、周昌を中尉とした。

周苛――滎陽での死

  • 漢王四年、楚が滎陽の漢王を急囲し漢王が脱出する中、周苛に滎陽城を守らせた。楚が滎陽城を破ると周苛を将にしようとしたが、苛は「お前は早く漢王に降れ、さもなくば今すぐ虜となるぞ」と楚を罵り、怒った項羽は周苛を煮殺した。この後、周昌が御史大夫に拝され、しばしば項籍討伐に従った。六年、蕭何・曹参らと共に封ぜられ周昌は汾陰侯となり、周苛の子周成は父が国事に死した功により高景侯に封ぜられた。

直言の臣

  • 昌は人となり剛健で敢えて直言し、蕭何・曹参らも皆一目置いた。ある時、宴の折に昌が奏事のため入ると高帝は戚姫を抱いており、昌は逃げ戻ろうとしたが高帝に追いつかれ首に乗られ「私はどんな主か」と問われた。昌は仰いで「陛下はまさに桀紂のような主です」と答え、上は笑いつつも周昌をひときわ憚った。上が太子を廃し戚姫の子如意を太子に立てようとした時、大臣がこぞって諫めても効なく留侯(張良)の計でようやく収まったが、周昌も廷議で強く争った。上がその理由を問うと、吃音の昌は激昂して「臣の口はうまく回りませんが、期期として不可なのは分かります。陛下が太子を廃されようとも臣は期期としてお受けできません」と答え、上は笑い出した。退出後、東の脇で聞いていた呂后は周昌に跪いて「あなたがいなければ太子は危うく廃されるところでした」と謝した。

趙相への転出と趙堯

  • その後、戚姫の子如意は趙王となり十歳であったが、高祖は自分の死後の身の安全を憂えた。若い趙堯は符璽御史であった。趙人方与公は御史大夫周昌に「あなたの史である趙堯は若いが奇才、必ず重んじよ、いずれあなたの位を継ぐだろう」と語ったが、昌は「堯は若い、刀筆吏に過ぎぬ、どうしてそうなろうか」と笑った。やがて趙堯が高祖に近侍するようになった頃、高祖は心楽しまず悲歌を口ずさみ群臣はその理由を知らなかった。趙堯が「陛下がお楽しみでないのは趙王が幼く戚夫人と呂后の間に隙があるためではないですか、陛下の万一の後、趙王は無事でいられましょうか」と問うと、高祖は「そうだ、私も密かに憂えているが打つ手が分からない」と答えた。堯は「陛下はぜひ趙王のため貴くて強い相を置き、呂后・太子・群臣が日頃敬い憚る者にすべきです」と進言し、高祖が「そう思うが、群臣の中で誰が適任か」と問うと、堯は「御史大夫周昌はその人柄が堅忍質直で、呂后・太子・大臣がみな敬い憚っています。昌でなければなりません」と答えた。高祖は「善し」と述べ周昌を召し「私はあなたに無理を頼みたい、趙王の相になってほしい」と告げた。周昌は泣いて「臣は初めから陛下に従ってきましたのに、なぜ今、私を諸侯の元へ捨て置かれるのですか」と訴えたが、高祖は「左遷であることはよく分かっている、しかし私は趙王を密かに憂えており、あなたでなければ任せられない、無理を承知で行ってほしい」と告げ、御史大夫周昌は趙相に転じた。

趙堯――御史大夫への昇進

  • 昌が任地に赴いてしばらく後、高祖は御史大夫の印を弄びながら「誰を御史大夫にすべきか」とつぶやき、趙堯をじっと見て「堯に代わる者はいない」と述べ、趙堯を御史大夫に拝した。堯は以前から軍功で食邑を得ていたが、御史大夫として陳豨討伐に功があり江邑侯に封ぜられた。

趙王の死とその後

  • 高祖崩御後、呂太后は使者を送って趙王を召したが、相の周昌は王に病と称して行かせなかった。使者が三度往復しても周昌は頑として趙王を送らず、高后はこれを憂え周昌を召した。周昌が至って高后に謁すると、高后は怒って「お前は私が戚氏を怨んでいるのを知らぬのか、なぜ趙王を送らぬのか」と罵った。周昌が召されて都に留まる間に高后は改めて使者を送って趙王を召し、趙王はついに来ることとなった。長安に至って月余り、趙王は毒を飲んで死んだ。周昌はこれ以後、病と称して朝見せず、三年後に死んだ。

趙堯・任敖――御史大夫の交代

  • その後五年、高后は御史大夫江邑侯趙堯がかつて高祖の趙王如意への処遇を画策したと聞き、堯に罪を着せ、広阿侯任敖を御史大夫とした。任敖はもと沛の獄吏であった。高祖がかつて官事で身を隠していた頃、獄吏が呂后を捕らえ丁重に扱わなかったことに、高祖と親しかった任敖は怒って呂后を扱う吏を傷つけた。高祖の挙兵後、敖は客将として御史となり豊を二年守った。高祖が漢王となり東で項籍を討つと敖は上党守に遷った。陳豨が反した時に敖は堅く守った功により広阿侯に封じられ千八百戸を食邑とした。高后の時に御史大夫となったが三年で免ぜられ、平陽侯曹窋が御史大夫となった。高后崩御後、曹窋は大臣と共に呂禄らを誅する側に加わらず免ぜられ、淮南相張蒼が御史大夫となった。

張蒼――丞相への昇進と律暦の制定

  • 蒼は絳侯らと共に代王を尊び孝文皇帝に立てる働きをした。四年、丞相灌嬰が卒すると張蒼が丞相となった。漢の興りから孝文の代まで二十余年、天下が初めて定まったばかりで将相公卿は皆軍吏出身であった。張蒼は計相であった頃に律暦を整えた。高祖が十月に霸上に至ったことに因み秦以来の十月歳首を改めなかった。五徳の運を推し漢は水徳の時にあたるとして黒を尚ぶことを秦のままとした。音律を吹いて音声に入れ律令の制定にも用いた。百工の規範にも至るまで、丞相となってついにこれを成し遂げたため、漢家で律暦を語る者は張蒼を本とした。蒼はもとより読書を好み通じぬ所なく、律暦にはことに長じていた。

張蒼――王陵への恩義と晩年

  • 張蒼は王陵に恩を感じていた。王陵は安国侯である。蒼が貴くなってからも父のように王陵に仕え、陵の死後、丞相となってからも沐浴の日には必ず先に陵の夫人に食事を差し上げてから帰宅した。
  • 蒼が丞相を十余年務めた頃、魯人公孫臣が上書して漢は土徳の時であり黄龍が現れる符が出るはずと述べた。詔でこれを張蒼に議させたが張蒼は誤りとして退けた。その後、成紀に黄龍が現れ、文帝は公孫臣を召して博士とし土徳の暦制度を起草させ改元した。これにより張丞相は自ら退き病と称して隠退を願った。蒼は中候に任じた人物が大いに不正を働き上から責められたため丞相を辞し免ぜられた。丞相在任は十五年であった。孝景前五年、蒼は卒し文侯と諡された。子康侯が代わり八年で卒し、子類が代わったが八年、諸侯の喪に不敬があったとして国は除かれた。
  • もと張蒼の父は身の丈五尺に満たなかったが、生まれた蒼は八尺余りとなり侯・丞相となった。蒼の子はさらに長身であったが、孫の類は六尺余りで法に坐して侯を失った。蒼は丞相を退いた後、老いて歯がなくなり乳を飲み、女性を乳母とした。妻妾は百人を数えたが一度妊娠した者は再び寵愛されなかった。蒼は百余歳で卒した。