史記卷九十六 張丞相列傳第三十六 張蒼

張蒼丞相(北平侯、?–孝景前5年)は陽武の人。書と律暦を好み、秦の御史から逃げて沛公に従い各地を転戦、代相・趙相などを経て北平侯に封じられた。のち計相・御史大夫を歴任し、孝文帝の擁立にも功があって丞相に至った。漢の暦法・律令の制定を主導し、漢家における律暦の祖と称された。

年表(2件)
  • 六年代相として臧荼討伐に従った功により北平侯に封じられる
  • 十四年御史大夫に遷る

秦から漢への帰属

  • 張丞相蒼は陽武の人。書と律暦を好んだ。秦の御史として柱下方書を司ったが罪を得て逃げ帰った。沛公が地を略して陽武を通った際、蒼は客将として従い南陽を攻めた。蒼が法に坐して斬られようとした際、衣を脱いで俎に伏したが、その体躯が大きく肥えて瓠のように白いのを王陵が見て怪しみ美丈夫だと沛公に言上し、赦されて斬られずに済んだ。西に武関から咸陽へ従い入った。沛公が漢王となり漢中に入り三秦を平定すると、陳餘が常山王張耳を撃退した際、耳が漢に帰したため漢は張蒼を常山守とした。淮陰侯(韓信)に従い趙を攻め蒼は陳餘を捕らえた。趙の地が平定されると漢王は蒼を代の相とし辺境の寇に備えさせ、後に趙相に移って趙王耳を助けた。耳の死後は趙王敖を助け、さらに代王の相に移った。燕王臧荼が反した際、高祖の討伐に代相として従った功により六年、北平侯に封じられ千二百戸を食邑とした。

計相から御史大夫へ

  • 計相に遷り一月後、列侯のまま主計を四年務めた。この時、蕭何が相国であったが張蒼は秦時代から柱下史として天下の図書・計籍に明るく、算術・律暦にも通じていたため列侯のまま相府に居て郡国の上計を統べさせられた。黥布が反して亡ぶと漢は皇子長を淮南王に立て張蒼がその相となった。十四年、御史大夫に遷った。