史記卷九十五 樊酈滕灌列傳第三十五 灌嬰

灌嬰(潁陰侯)は睢陽の絹商人であった。挙兵に従い各地の戦で軍功を重ね、騎兵の将として楚の騎兵をたびたび破り、韓信に属して斉平定・項羽討伐に功を挙げた。漢建国後は諸王の反乱鎮圧に従軍し、呂氏誅滅と孝文帝擁立にも与して太尉、のち丞相に至った。

年表(2件)
  • 漢三年列侯として杜の平郷を食邑とし、韓信に属して斉平定・項羽討伐に従う
  • 元光三年孫の賢が臨汝侯に封じられ灌氏の後を継ぐ

挙兵から霸上入りまで

  • 潁陰侯灌嬰は睢陽の絹商人であった。高祖が沛公として地を略し雍丘に至った頃、章邯が項梁を破り殺し沛公が碭に軍を返す中、嬰は初め中涓として成武の東郡尉および扛里の秦軍を撃破する戦に従い七大夫の爵を賜った。亳南・開封・曲遇の秦軍攻めに従い執帛の爵と宣陵君の号を賜った。陽武以西から洛陽まで攻め尸の北で秦軍を破り黄河の渡しを北から絶ち、南陽守齮を陽城の東で破って南陽郡を平定した。西の武関に入り藍田で戦い霸上に至って執珪の爵と昌文君の号を賜った。

三秦平定から楚漢戦争

  • 沛公が漢王となると嬰は郎中となり漢中に従い十月に中謁者に拝された。三秦平定に従い櫟陽を下し塞王を降した。廢丘で章邯を囲んだが陥落させられなかった。臨晋関から東へ出て殷王を降しその地を平定した。項羽の将龍且・魏相項他の軍を定陶の南で破った。嬰は列侯となり昌文侯と号し杜の平郷を食邑とした。
  • 中謁者として碭を降し彭城まで進んだが項羽の反撃で漢王は大敗し西へ遁走した。嬰も従い雍丘に軍した。王武・魏公申徒の反乱を撃破し黄を攻め下し、西へ兵を収めて滎陽に軍した。楚の騎兵が増える中、漢王は軍中で車騎将になれる者を選び、もと秦の騎士だった重泉の李必・駱甲が騎兵に精通していると推された。李必・駱甲は「私たちはもと秦の民であり軍の信を得にくい、大王の側近で騎に長けた者を長にしてほしい」と願い出た。若かったが度々奮戦していた灌嬰が中大夫に拝され、李必・駱甲を左右校尉として郎中の騎兵を率い滎陽の東で楚の騎兵を大破した。詔を受けて別動で楚の兵站を絶ち陽武から襄邑まで進んだ。魯の下で項羽の将項冠を破り右司馬・騎将各一人を斬らせ、柘公王武を燕の西で破り樓煩将五人・連尹一人を斬らせ、王武の別将桓嬰を白馬で破り都尉一人を斬らせた。騎兵で黄河を南に渡り漢王を洛陽に送り、北へ相国韓信の軍を邯鄲に迎えに行かせた。敖倉に戻ると御史大夫に遷った。

斉平定から項羽討伐

  • 三年、列侯として杜の平郷を食邑とした。御史大夫として詔を受け郎中騎兵を率い東で相国韓信に属し、歴下で斉軍を破り車騎将軍華毋傷と将吏四十六人を虜とし、臨淄を降し斉の守相田光を得た(博の地で)。斉相田橫を嬴まで追ってその騎兵を破り騎将一人を斬らせ四人を生け捕った(博の地で)。嬴を攻め下し田吸の斉将軍を千乗で破り斬らせた。東へ韓信に従い龍且・留公旋を高密で攻め龍且を斬り右司馬・連尹各一人、樓煩将十人を捕虜とし自ら亜将周蘭を生け捕った。
  • 斉の地が定まり韓信が自ら斉王に立つと、嬰は別将として魯の北で公杲の軍を破った。南に転じ薛郡の長を破り自ら騎将一人を捕虜にした。博・傅陽を攻め下相以東の僮・徐まで進み、取慮を経て淮水を渡りその城邑を悉く降し廣陵まで至った。項羽が項聲・薛公・郯公に淮北を再定させようとしたが、嬰は淮北を渡り項聲・郯公を下邳で破り薛公を斬り下邳を降し、楚の騎兵を平陽で破り彭城を降し柱国項佗を虜とし留・薛・沛・酇・蕭・相を降した。譙・苦を攻め亜将周蘭を再び得た。漢王と頤鄉で合流し、項籍の軍を陳の下で攻め破り樓煩将二人を斬らせ騎将八人を虜とし二千五百戸の食邑を加増された。
  • 項籍が垓下で敗れて去ると嬰は御史大夫として詔を受け車騎を率いて東城まで別動で追撃しこれを破った。麾下の五人が共に項籍を斬り皆列侯の爵を賜った。左右司馬各一人と卒一万二千人を降しその軍将吏を全て得た。東城・歴陽を下し長江を渡り呉郡長を呉の下で破り呉守を得て呉・豫章・会稽の三郡を平定した。淮北を再平定し合計五十二県となった。

漢建国後の功

  • 漢王が帝位に就くと嬰の食邑に三千戸を加増した。その秋、車騎将軍として反した燕王臧荼を撃破する軍に従った。翌年、陳に至り楚王信を捕らえた。改めて割符を与えられ潁陰二千五百戸を食邑とし潁陰侯と号した。
  • 車騎将軍として代で反した韓王信を攻め馬邑に至り詔を受け楼煩以北六県を降し代の左相を斬り胡騎を武泉の北で破った。韓信の胡騎を晋陽の下で再び攻め胡の白題将一人を斬った。詔を受け燕・趙・斉・梁・楚の車騎を併せ率い胡騎を硰石で破った。平城に至り胡に囲まれ東垣まで軍を返した。
  • 陳豨討伐に従い詔を受け豨の丞相侯敞の軍を曲逆で別に攻めて破りその敞と特将五人を斬った。曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降し東垣を攻め下した。
  • 黥布の反乱に際し車騎将軍として先鋒に出て布の別将を相で破り亜将樓煩将三人を斬った。さらに布の上柱国軍・大司馬軍を破り布の別将肥誅を破った。嬰自ら左司馬一人を生け捕り麾下の卒が小将十人を斬り淮水のほとりまで追撃した。二千五百戸を加増された。布討伐後、高帝は帰り嬰の食邑を潁陰五千戸と改め前の食邑を除いた。総じて二千石二人を得、別動で十六軍を破り四十六城を降し一国・二郡・五十二県を平定し将軍二人・柱国と相国各一人・二千石十人を得た。

呂氏誅滅と孝文帝擁立

  • 布討伐から帰った後、高帝が崩じ嬰は列侯として孝惠帝・呂太后に仕えた。太后が崩じると呂祿らは趙王の名で自ら将軍となり長安に軍して乱を起こした。斉哀王がこれを聞き兵を挙げて西進し不当な王を誅そうとしたため、上将軍呂禄らはこれを聞き嬰を大将として撃たせようとした。嬰は滎陽まで進むと絳侯らと謀り滎陽に留まったまま斉王に呂氏誅滅の事を伝え、斉の兵は進軍を止めた。絳侯らが諸呂を誅し終えると斉王も兵を収めて帰り、嬰も滎陽から軍を収めて帰り絳侯・陳平と共に代王を孝文皇帝に立てた。孝文皇帝は嬰にさらに三千戸を加え黄金千斤を賜り太尉に任じた。

丞相への昇進と子孫

  • 三年後、絳侯勃が相を辞して就国すると嬰が丞相となり太尉の官は廃された。この年、匈奴が北地・上郡に大挙侵入し丞相嬰に騎兵八万五千を率いて撃たせたが、匈奴が去ると済北王が反したため詔でその兵は退けられた。歳余り後、嬰は丞相として卒し懿侯と諡された。子平侯阿が継いで二十八年で卒し、子彊が継いだが十三年、彊は罪を得て絶えること二年。元光三年、天子は灌嬰の孫賢を臨汝侯に封じ灌氏の後を継がせたが八年後、賄賂の罪に坐して国は除かれた。

史論

  • 太史公は言う。私は豊沛に赴きその地の古老に問い、蕭何・曹参・樊噲・滕公(夏侯嬰)の家について見聞きしたが、その素性は聞くところと大きく異なっていた。彼らが屠殺・繒売りに従事していた頃、驥の尾に附いて漢の朝廷に名を残し徳を子孫に流すことになろうとは、いったい誰が知り得ただろうか。私は他廣(酈氏の子孫)と交わり、高祖の功臣たちが興った当時の様子をこのように聞いた。