史記卷九十五 樊酈滕灌列傳第三十五 夏侯嬰

夏侯嬰(汝陰侯)は沛の人。若くして高祖と親しみ、獄に繋がれても高祖を庇い通した。挙兵以来太僕として常に高祖の側にあり、彭城での敗戦時には孝惠・魯元を救い、白登の囲みでも高帝の脱出を助けた。孝文帝の擁立にも功があり、終生太僕を務めた。

年表(1件)
  • 元鼎二年子孫の侯頗、父の側室と姦通した罪で自殺し国が除かれる

高祖との縁

  • 汝陰侯夏侯嬰は沛の人で沛の廄司御であった。使客を送るたびに沛の泗上亭を通り高祖と語り、日が暮れるまで話し込まぬことはなかった。嬰は試補で県吏となり高祖と親しんだ。高祖が戯れに嬰を傷つけた際に人が高祖を告発したが、高祖は当時亭長であり傷害に問われれば重罪となるため嬰を傷つけていないと申し立て、嬰もこれに証言した。後に獄が再審され嬰は高祖を庇った罪で一年余り繋がれ数百回の笞打ちを受けたが、ついに高祖を救った。

挙兵から霸上入りまで

  • 高祖が徒党を率いて沛を攻めようとした当初、嬰は県令史として高祖に仕えた。沛が降ってから一日で高祖は沛公となり、嬰に七大夫の爵を賜り太僕とした。胡陵攻めに従い嬰は蕭何と共に泗水監平を降らせ五大夫の爵を賜った。碭東で秦軍を撃ち済陽を攻め戸牖を下し李由の軍を雍丘の下で破り、兵車での急襲の功で執帛の爵を賜った。太僕として章邯軍を東阿・濮陽で撃ち破って執珪の爵を賜った。開封で趙賁、曲遇で楊熊の軍を撃ち六十八人を捕虜とし八百五十人を降し印一匱を得た。洛陽の東で秦軍を撃ち破って滕公の封号を賜った。南陽を攻め藍田・芷陽で戦い霸上に至った。項羽が至り秦を滅ぼし沛公を漢王に立てると、嬰は列侯として昭平侯の号を賜り太僕に復し蜀・漢に従った。

孝惠・魯元救出

  • 三秦平定に従い項籍を撃った。彭城で項羽が漢軍を大破し漢王が敗走する中、孝惠・魯元(漢王の子女)を見つけて車に乗せた。漢王は急ぎ馬も疲れ虜の追撃が迫る中、幾度も二人を車から落とそうとしたが嬰はその都度拾い上げ乗せ続け、徐行で樹の茂みを回りながらも脱すると馳せた。漢王は怒って嬰を斬ろうとすること十余度に及んだが、ついに脱出し孝惠・魯元を豊に届けた。

楚漢戦争から漢建国後

  • 漢王が滎陽に至り散兵を収めて勢いを取り戻すと嬰に祈陽を賜った。太僕として項籍を撃ち追って陳に至り楚を平定、魯に至り茲氏を加増された。漢王が帝となったその秋、燕王臧荼が反すると太僕として荼討伐に従った。翌年、陳に至り楚王信を捕らえた。改めて汝陰を食邑とし割符を世々絶やさぬことを約された。太僕として代を攻め武泉・雲中に至り千戸を加増された。韓信の胡騎を晋陽の傍らで撃ち大破し、平城まで追撃したが胡に囲まれ七日間通じなかった。高帝が閼氏に厚く贈り物をし冒頓が囲みの一角を開くと、高帝が馳せ出ようとしたのを嬰は敢えて徐行させ弩に矢をつがえたまま外に構え無事脱した。細陽千戸を加増された。太僕として句注の北で胡騎を破り、平城の南で胡騎を撃ち三度陣を陥れ功多く五百戸を賜った。太僕として陳豨・黥布の軍を撃ち陣を陥れ敵を退け千戸を加増され汝陰六千九百戸に食邑を改め前の食邑を除いた。

孝文帝擁立と子孫

  • 嬰は高祖挙兵以来常に太僕として仕え高祖崩御まで務めた。太僕として孝惠帝に仕え、孝惠帝・高后が下邑での孝惠・魯元救出の功に報い都の北第一の邸を賜り「我に近し」と称され特別に尊ばれた。孝惠帝崩御後は太僕として高后に仕え、高后崩御後は代王が来た際、太僕として東牟侯と共に宮中を清め少帝を廃し、天子の法駕をもって代王を代邸に迎え大臣と共に孝文皇帝として立て、再び太僕となった。八年で卒し文侯と諡された。子夷侯竈が継いで七年で卒し、子共侯賜が継いで三十一年で卒し、子の侯頗は陽公主を娶ったが十九年、元鼎二年に父の側室と姦通した罪で自殺し国は除かれた。