史記卷九十五 樊酈滕灌列傳第三十五 酈商
酈商(曲周侯)は高陽の人。陳勝の挙兵時に兵を起こし、のち沛公に帰属して三秦平定・楚漢戦争を通じ各地で戦功を重ね曲周侯に封じられた。晩年は病により政務を執らなかったが、子の酈寄は呂禄を欺いて呂氏誅滅に助力し、天下からは「交わりを売った」と評された。
挙兵から漢中入りまで
- 曲周侯酈商は高陽の人。陳勝の挙兵時、商は若者を集めて東西を略し数千を得た。沛公が地を略して陳留に至った際、六月余りして商は将卒四千人を率いて沛公に属した(岐にて)。長社攻めで先登し信成君の封号を賜った。沛公に従い緱氏を攻め黄河の渡しを絶ち、洛陽の東で秦軍を破った。穰から宛を攻め十七県を平定した。別動で旬関を攻め漢中を平定した。
三秦平定から楚漢戦争
- 項羽が秦を滅ぼし沛公が漢王となると商は信成君の爵を賜り将軍として隴西都尉となった。別将として北地・上郡を平定し、焉氏で雍将軍を、栒邑で周類の軍を、泥陽で蘇駔の軍を破った。武成六千戸を食邑に賜った。隴西都尉として項籍軍を五月間攻め鉅野に出て鍾離眜と激戦し梁の相国印を受け四千戸を加増された。梁相国として項羽を二年三月間攻め胡陵を攻めた。
漢建国後の功
- 項羽死後、漢王が帝となったその秋、燕王臧荼が反すると商は将軍として荼を攻め龍脱で戦い先登陥陣し荼の軍を易下で破って敵を退け右丞相に遷り、列侯として涿五千戸を食邑とし涿侯と号した。右丞相として上谷を平定し代を攻め趙相国印を受けた。右丞相趙相国として絳侯らと代・鴈門を平定し代丞相程縱・守相郭同・将軍以下六百石まで十九人を得た。戻って太上皇の衛を一年七月務め、右丞相として陳豨を攻め東垣を残滅した。さらに右丞相として高帝に従い黥布を攻めその前拒を陥れ二陣を破り布軍を破る功を挙げ曲周五千百戸に食邑を改め前の食邑を除いた。総じて別動で三軍を破り六郡・七十三県を平定し丞相・守相・大将各一人、小将二人、二千石以下六百石まで十九人を得た。
子孫と呂氏誅滅
- 商は孝惠・高后の時に病で政を執らなかった。子の寄(字況)は呂祿と親しかった。高后が崩じ大臣が諸呂を誅そうとした際、呂祿は将軍として北軍を率い太尉勃(周勃)は北軍に入れなかったため、人を送って酈商を脅し、子の況に呂祿を欺かせた。呂祿はこれを信じて況と遊びに出たため太尉勃は北軍に入り諸呂を誅した。この年、商は卒し景侯と諡された。子寄が代わって侯となったが、天下は酈況の行いを「交わりを売った」と評した。
寄・繆侯の代
- 孝景前三年、呉・楚・斉・趙が反すると上は寄を将軍として趙城を囲ませたが十か月下せず、俞侯欒布が斉平定から来援して趙城を下し趙を滅ぼし王は自殺し国は除かれた。孝景中二年、寄が平原君を夫人に迎えようとしたことに景帝は怒り寄を吏に下し罪を得て侯を奪った。景帝は商の他の子堅を繆侯に封じ酈氏の後を継がせた。繆靖侯が卒すると子康侯遂成が立ち、遂成が卒すると子懐侯世宗が立ち、世宗が卒すると子侯終根が立ったが太常となった折に法に触れ国は除かれた。