史記卷八十九 列傳第二十九 陳餘

陳餘(?–前204年)は大梁の人。儒術を好み、張耳と刎頸の交わりを結んだ。陳勝配下として趙地平定に従軍し、武臣を趙王に立てて大将軍となった。鉅鹿の戦いで救援を渋ったことから張耳との友情に亀裂が生じ、のち張耳を破って趙王歇を再び擁立したが、漢との協調を拒んで離反し、井陘の戦いで韓信・張耳に敗れて斬られた。

年表(6件)
  • 漢2年前205年張耳を破り趙地を回復して趙歇を再び趙王に立てるが、漢が張耳を殺すことを条件に協力を拒み、のち漢に背く
  • 漢3年前204年井陘の戦いで韓信・張耳に敗れ、泜水のほとりで斬られる
  • 漢7年前200年張耳の子張敖、高祖の無礼な待遇にも恭順を貫く
  • 漢8年前199年貫高ら、柏人で高祖暗殺を謀るが果たせず
  • 漢9年前198年貫高の謀反発覚で張敖も捕らえられるが、貫高の弁明により赦される
  • 高后6年張敖薨去。子の偃が魯元王となる

趙の再興と漢への離反

  • 陳餘は張耳を破ると趙地を回復し、代から趙歇を迎えて再び趙王に立てた。趙王は陳餘への感謝から代王に封じたが、陳餘は趙が定まったばかりであることを理由に代国へは赴かず趙王の傅役として留まり、夏説を代の相国として派遣した。
  • 漢2年(前205年)、漢王は東征に際し趙に協力を求めたが、陳餘は「漢が張耳を殺せば従う」と条件を出した。漢王は張耳に似た者の首を送って応じさせ、陳餘は援兵を派遣したが、漢が彭城で大敗した際に張耳が生きていることを知り、漢に背いた。

張耳・陳餘――井陘の戦いと最期

  • 漢3年(前204年)、魏を平定した韓信が張耳とともに趙を攻め、井陘の戦いで陳餘を泜水のほとりで斬り、趙王歇も襄国で追撃され殺された。漢は張耳を趙王に立てた。漢5年(前202年)、張耳は没し、諡は景王。子の張敖が趙王を継ぎ、高祖の長女・魯元公主がその后となった。

張敖――貫高の変

  • 漢7年(前200年)、高祖が平城から趙を通った際、張敖は自ら朝夕食を捧げるほど謙って礼を尽くしたが、高祖は箕踞して罵るなど無礼な態度を取り続けた。趙の相・貫高、趙午らかつての張耳の食客が怒り高祖暗殺を進言したが、張敖は指を噛んで血を出しながら「先人が国を失った時、高祖のおかげで復国できた、その恩は子孫にまで及ぶ、二度とそのようなことを言うな」と拒んだ。貫高らは張敖には知らせず自らの判断で決行することを申し合わせた。
  • 漢8年(前199年)、高祖が柏人を通ろうとした際、貫高らは仕掛けを準備していたが、高祖は「柏人」という地名(人に迫るの意)を嫌って宿泊せず難を逃れた。
  • 漢9年(前198年)、貫高の怨みを持つ者が謀を密告し、趙王・貫高らは捕らえられた。同志の多くは自刃したが、貫高は激しく罵り「王は本当に無実なのに一緒に捕らえられた、我々が死ねば誰が王の潔白を証すのか」と述べ、髡鉗の姿で王家の奴として付き従った。数千回の拷問を受けても貫高は「これは我々だけの企てで王は関与していない」と言い通した。呂后が魯元公主の縁を理由に張敖の赦免を求めても高祖は聞かなかったが、貫高の壮士ぶりを聞き、中大夫・泄公を遣わして真意を確かめさせると、貫高は「人情として親兄弟を思わぬ者はない、それでも三族が死罪となる中で王を偽って助けはしない、王は本当に反していない、我々だけの企てだ」と語り、泄公の報告を受けた上は趙王を赦した。

貫高の最期と張氏の顕栄

  • 貫高も赦されることとなったが、「王がすでに出獄したと聞いた今、私の責任は果たされた、篡殺の企てに関わった身で恥じずに再び上に仕えられようか」と述べ、自ら首を絶って死んだ。当時、その名は天下に知れ渡った。
  • 張敖は魯元公主の夫であることから宣平侯に封じられた。張耳・張敖の食客は鉗奴(囚人の身分)として関中入りした者も、後にみな諸侯の相や郡守となり、恵帝・高后・文帝・景帝の代まで二千石の位を得た。張敖は高后6年に薨去、子の偃が魯元王となったが、母が呂后の娘であったことから高后崩御後の呂氏誅滅の際に廃され、文帝が即位すると南宮侯に復されて張氏の家名を継いだ。

史論

太史公曰く。張耳・陳餘は世に賢者と称され、その賓客・従者もみな天下の俊傑で、仕えた国では卿相となる者ばかりであった。だが二人は貧賤の頃、互いに死を厭わぬ信を誓ったにもかかわらず、権勢を争うに至って互いに滅ぼし合った。かつて慕い合った誠実さと、後に裏切り合った激しさは、勢利によって結ばれた交わりだったからではないか。名声は高く賓客も盛んであったが、その生き方は太伯・延陵季子(呉の季札)とはまるで異なるものであった。