史記卷八十九 列傳第二十九 張耳

張耳(?–前202年、諡は景王)は大梁の人。若くして魏の公子・毋忌の食客となり、陳餘と刎頸の交わりを結んだ。陳勝配下として趙地平定に加わり、武臣を趙王に立てて右丞相となった。楚漢の争いでは項羽に常山王に封じられたが、陳餘に攻められて漢に帰順、井陘の戦いで陳餘を討って趙王に立てられた。子の張敖は貫高の変に連座しかけたが赦され、宣平侯に封じられた。

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出自と刎頸の交わり

  • 張耳は大梁の人。若い頃、魏の公子・毋忌の食客となった。かつて外黄に亡命していた際、外黄の富人の娘(庸奴に嫁いだ後、夫を捨てて父の客のもとに身を寄せていた)を父の客の勧めで娶り、その財力の後援を得て名声を高め、魏の外黄令に任じられた。
  • 陳餘もまた大梁の人で儒術を好み、たびたび趙の苦陘に遊学した。富人・公乗氏がその娘を陳餘に嫁がせた。年少の陳餘は張耳に父のごとく仕え、二人は刎頸の交わりを結んだ。

逃亡から陳勝への帰属

  • 秦が魏を滅ぼした後も張耳は外黄に住んでいた。高祖(劉邦)は布衣の頃しばしば張耳のもとに遊び、数か月食客となったこともある。秦が魏を滅ぼして数年後、両者が魏の名士であることを知った秦は張耳に千金、陳餘に五百金の懸賞をかけた。二人は姓名を変えて陳へ赴き、里の門番となって身を隠した。ある時、里吏の過失で陳餘が笞打たれそうになった際、起き上がろうとした陳餘を張耳が制して笞を受けさせ、後に「かつて何と語り合ったか、小さな辱めのために死のうとするのか」と諭した逸話が伝わる。
  • 陳勝が蘄で挙兵し陳に入り数万の兵を得ると、張耳・陳餘は謁見を求め、陳勝もかねて二人の名を聞いており大いに喜んだ。陳の父老・豪傑らは陳勝に王位に就くよう勧めたが、張耳・陳餘は「秦打倒を優先し、六国の後継者を立てて自らの徳を天下に示すべき、今すぐ王を称するのは天下に私心を示すことになる」と諫めた。陳勝はこれを聞かず自ら王となった。

趙地平定と武臣の王位

  • 陳餘の献策により、陳勝は自らの信任する陳人・武臣を将軍、邵騒を護軍、張耳・陳餘を左右校尉として三千の兵を与え、趙地の攻略に向かわせた。武臣らは白馬から渡河し、各県の豪傑に秦の圧政と陳勝の蜂起を説いて回り、数万の兵を得て「武信君」と号した。趙の十城を下したが残りは城を固く守って降らなかった。
  • 范陽を攻めた際、遊説家・蒯通が范陽令に「秦法の下で恨まれてきたあなたも、天下が乱れた今は少年たちに殺され武信君に降されるだろう、私を使者に立てれば禍を福に転じられる」と説き、武信君のもとへ遣わされた蒯通は「戦わずして城を降し、檄を伝えるだけで千里が定まる」策を進言、范陽令に侯印を与えて優遇させることで戦わずに三十余城を下すことに成功した。
  • 邯鄲に至った張耳・陳餘は、陳勝が謀を用いず自分たちを校尉止まりに留めたことを恨み、また讒言により誅殺される諸将が多いと聞いて武臣に自立を勧めた。「陳王は必ずしも六国の後継に固執していない、将軍は三千の兵で趙数十城を落としながら河北に孤立している、王とならねば治めきれない」と説き、武臣は趙王に立った。陳餘は大将軍、張耳は右丞相、邵騒は左丞相となった。
  • 報告を受けた陳勝は激怒し武臣らの一族を族滅しようとしたが、相国・房君の「秦が滅びぬうちに武臣らの家族を誅すればもう一つの敵を作るだけ、むしろ祝賀して西進を促すべき」との諫めに従い、武臣らの家族は宮中に移すにとどめ、張耳の子・敖を成都君に封じた。使者が趙の祝賀に赴き西征を促すと、張耳・陳餘は「趙王となったのは楚の本意ではなく便宜上の策に過ぎない、楚が秦に勝てば必ず趙にも兵を向けるだろう、西進はやめ燕・代・河内を先に固めるべき」と武臣に進言し、趙は西進せず韓広を燕へ、李良を常山へ、張黶を上党へ派遣した。
  • 韓広は燕に至ると燕人に推されて燕王となった。趙王武臣が燕の国境を巡視中に燕軍に捕らわれ、使者を送っても悉く殺される中、廝養卒(雑役の兵卒)の機知(燕将に「張耳・陳餘の本意は趙を分けて王となることにあり、燕がここで趙王を殺せば二人はその機に乗じて趙を独占し、燕を滅ぼすのはたやすい」と説いた)により趙王は救出された。

李良の反乱と趙歇の擁立

  • 李良は常山平定の後、太原攻略に向かうが秦軍に阻まれ引き返した。その途上、秦将の偽の書状(帰順すれば秦が重用するとの誘い)に心を動かされていた矢先、酔った趙王の姉の一行と行き違い、非礼を受けたと激昂した従者に唆され、李良は王姉を殺害し、そのまま趙に反して邯鄲を急襲、武臣・邵騒を殺害した。趙の民の内通により張耳・陳餘は脱出し、数万の兵を収めた。食客の勧めで趙の旧王族・趙歇を立てて趙王とし、信都に拠った。李良は陳餘に敗れて章邯のもとへ降った。

鉅鹿の戦いと決裂

  • 章邯は邯鄲を落とすと民を河内に移し城郭を破壊した。張耳と趙王歇は鉅鹿城に籠り秦将・王離に包囲された。陳餘は常山の兵数万を集めたが秦軍を恐れて進めず、鉅鹿の北に布陣したまま動かなかった。城中の食料が尽きる中、張耳は幾度も使者を送って陳餘を責め、ついに張黶・陳澤を遣わし「かつて刎頸の交わりを誓いながら、王と自分が今にも死のうという時に数万の兵を擁して救わぬのはどういうことか」と詰問させた。陳餘は「進めば全滅するだけ、それでも死なずにいるのは趙王・張君のために復讐せんがためだ」と応じたが、張黶・陳澤の強い要求に折れ、五千の兵を先鋒として送ったが全滅した。
  • 燕・斉・楚の諸侯も救援に来たが皆観望して動かなかった。項羽は章邯の兵糧輸送路(甬道)を断ち、自ら渡河して章邯を破ると、諸侯もようやく秦軍を攻め、王離を虜にし、秦将・涉閒は自殺した。鉅鹿が持ちこたえたのは楚の力によるものであった。
  • 救出された張耳は陳餘を責め、張黶・陳澤の行方を問い詰めた。陳餘は「二人は必死を求めて自分を責め、五千を先鋒に送ったがみな全滅した」と答えたが、張耳は信じず殺したのではと疑い執拗に問い質した。陳餘は怒り「これほど恨まれるとは思わなかった」と印綬を外して張耳に押し付け、張耳もためらいつつこれを受け取ったため、両者の間に決定的な溝が生じた。陳餘は麾下の数百人と共に河上の沢へ隠棲し漁猟の日々を送った。

常山王への封と漢への帰順

  • 趙王歇は信都に戻った。張耳は項羽に従い関中に入った。漢元年(前206年)2月、項羽が諸侯を封じる際、人望のあった張耳は常山王に封じられ信都(襄国と改名)を治めた。
  • 陳餘の食客は「陳餘・張耳はともに趙に功があった」と項羽に訴えたが、項羽は陳餘が関中入りしなかったことを理由に南皮周辺三県のみを与え、趙王歇は代王に移された。
  • 陳餘は「功は張耳と同じなのに自分だけ侯に留められた」と怒り、斉王田栄の反楚に乗じて夏説を通じ兵を借り、常山王張耳を攻めた。張耳は敗走し、身の寄せ先を思案した末、甘公の「漢王入関の際、五星が東井に集まった、これは覇者の兆しであり最初に至った者が必ず覇を成す」との言に従い漢王のもとへ走った。漢王はこれを厚遇した。