史記卷八十八 列傳第二十八 蒙恬

蒙恬(?–前210年)は斉の出身、祖父蒙驁・父蒙武とともに秦に仕えた名将の家系。秦の天下統一後、三十万の兵を率いて北方の戎狄を逐い河南の地を収め、臨洮から遼東に及ぶ万里の長城を築いて匈奴に威を振るった。弟の蒙毅とともに始皇の信任篤かったが、始皇の死後、趙高の讒言により弟蒙毅とともに幽閉され、自ら罪を引き受けて服毒自殺した。

年表(9件)

出自と一族

  • 蒙恬の先祖は斉の人。祖父・蒙驁は斉から秦の昭王に仕え上卿にまで至った。秦の荘襄王元年(前249年)、蒙驁は秦将として韓を伐ち成皋・滎陽を取り三川郡を置いた。2年(前248年)には趙を攻め三十七城を取り、始皇3年(前244年)には韓を攻め十三城を取り、5年(前242年)には魏を攻め二十城を取って東郡を置いた。始皇7年(前240年)、蒙驁は没した。驁の子は武、武の子が恬である。恬はかつて訟獄の文書を掌る職にあった。
  • 始皇23年(前224年)、蒙武は秦の裨将軍として王翦とともに楚を攻め大破し、楚将・項燕を殺した。24年(前223年)、蒙武は楚を攻め楚王を虜にした。蒙恬には弟・蒙毅がいた。

秦統一後の活躍

  • 始皇26年(前221年)、蒙恬は家世により秦の将となり斉を攻めて大破し、内史に拝された。秦の天下統一後、蒙恬は三十万の兵を率いて北方の戎狄を逐い、河南の地を収めた。臨洮から遼東まで万余里に及ぶ長城を地形を利して築き、黄河を渡って陽山に拠り、北へと展開した。十余年にわたり軍を外に置き上郡に居り、匈奴に威を振るった。
  • 始皇は蒙氏一族を厚く尊寵し、弟の蒙毅も上卿にまで至って側近として重用された。外出には陪乗し、内では御前に仕えた。蒙恬が外事を、蒙毅が内謀を担い、忠信の名で知られ、諸将相もあえてこれと争おうとしなかった。

趙高と蒙毅の確執

  • 趙高は趙の疎遠な一族の出で、兄弟数人はみな隠宮(宦官)の生まれ、母は刑戮を受け、代々卑賤の家であった。秦王は趙高が力強く獄法に通じていることを聞き、中車府令に任じた。趙高は密かに公子胡亥に仕え、獄事の判断を教えた。かつて趙高が大罪を犯した際、秦王は蒙毅に法に照らして裁かせ、蒙毅は法を曲げず死罪と判定して宦籍を除いたが、始皇は趙高の職務能力を惜しみこれを赦し、官爵を復させた。

沙丘の変と蒙氏の粛清

  • 始皇は九原から甘泉に至る直道の建設を蒙恬に命じたが、山を削り谷を埋める千八百里の工事は未完のままであった。始皇37年(前210年)冬、会稽への巡遊に出た際、道中で病となり蒙毅を山川の祈祷に遣わしたため、蒙毅は始皇の崩御に立ち会えなかった。
  • 始皇が沙丘で崩御すると事は秘され、群臣は知らなかった。丞相李斯、公子胡亥、中車府令趙高が随行していた。趙高はかねて胡亥に取り入っており、また蒙毅に法で裁かれた恨みから害意を抱いていたため、李斯・胡亥と共謀し、胡亥を太子に立てた。太子が立つと使者を送り扶蘇と蒙恬に死を賜った。扶蘇はすでに死んだが、蒙恬は疑って再度の上請を求め、使者は蒙恬をひとまず吏に引き渡し交代させるにとどめた。胡亥は扶蘇の死を知ると蒙恬を釈放しようとしたが、趙高は蒙氏が再び重用され権勢を持つことを恐れこれを妨げた。
  • 蒙毅が戻ると、趙高は胡亥への「忠計」と称し、「先帝がかねて胡亥様を太子に立てようとした際、蒙毅は『不可』と諫めた。賢と知りながら太子擁立を長らく認めなかったのは不忠にして主君を惑わせたものであり、誅すべき」と讒言した。胡亥はこれを聞き入れ、蒙毅を代に幽閉した。蒙恬は先に陽周に幽閉されていた。喪が咸陽に至り葬儀を終えると太子は二世皇帝として即位し、趙高は側近として日夜蒙氏を誹り、その罪を求めて弾劾した。
  • 子嬰は「かつて趙王遷は良将・李牧を殺し顔聚を用いて滅び、燕王喜は荊軻の謀を用いて秦との約束に背き滅び、斉王建は忠臣を殺し后勝の議を用いて滅んだ。この三君はみな古を変えて国を失い、身に禍を招いた。蒙氏は秦の大臣・謀士であるのに、これを一朝にして棄て去るのは不可であろう。軽慮の者は国を治められず、独智の者は君を保てない。忠臣を誅し無節の者を立てれば、内は群臣が互いに信じ合わず、外は闘士の心を離れさせる」と諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。
  • 胡亥は御史・曲宮を代へ遣わし、蒙毅に「先主が太子を立てようとした時、卿はこれを難じた。今丞相はあなたを不忠とし罪は宗族に及ぶが、朕は忍びず死を賜う、これも甚だ幸いなことだ」と告げた。蒙毅は「先主の意を得られなかったなら、私は幼少より仕え終生寵幸を得てきた身、意を知っていたと言えるはず。太子の器量を知らなかったのなら、太子は独り先帝に従い天下を巡り、他の公子とは隔絶した扱いを受けていた、疑う余地はなかった」と反論し、さらに秦の穆公が三良を殺し百里奚の罪なきを罰した故事(この故事により穆公は『繆』と諡された)、昭襄王が武安君白起を殺した故事、楚の平王が伍奢を殺した故事、呉王夫差が伍子胥を殺した故事を挙げ、「この四君はみな大過を犯し天下に非難された。『道を用いて治める者は無実の者を殺さず、罰は罪なき者に及ぼさない』というではないか」と訴えたが、使者は胡亥の意を悟っており、蒙毅の言を聞き入れず遂に殺した。

蒙恬の最期

  • 二世はさらに使者を陽周へ遣わし、蒙恬に「あなたの過ちは多く、弟の毅も大罪を犯し、その法はあなたにも及ぶ」と告げた。蒙恬は「私の先祖から子孫に至るまで、秦に三代にわたり功と信を積んできた。今、私は三十余万の兵を率い、身は囚われの身とはいえその勢いは叛くに足るものがある。それでも自ら死を選び義を守るのは、先人の教えを辱めず先主を忘れぬためだ」と述べ、周の成王がまだ幼い頃、周公旦が王を背負って朝見し、成王が病篤い時には自ら爪を切って河に沈め身代わりを願い、その書を記府に蔵した故事、また讒言により周公旦が一時楚へ逃れたが、成王が記府でその書を見出し涙して周公旦を呼び戻した故事を引き、「今、我が一族には二心なきにもかかわらずこの仕儀に至ったのは、必ずや悪しき臣の逆乱によるものだ。成王は過ちに気づき盛んになったが、桀は関龍逢を、紂は王子比干を殺して悔いず、身は死に国は滅んだ。過ちは正せるし、諫めは気づかせられる。ものを参伍(照合)して察するのは上聖の法である」と述べ、「私の言は罪を免れるためではなく、諫めて死ぬことで陛下に万民のための道を思っていただきたいからだ」と結んだ。使者は「私は詔を受けて将軍に法を行うのみ、将軍の言を上に伝える権はない」と拒んだ。
  • 蒙恬は嘆息して「私は天に何の罪があって、過ちなくして死ぬのか」と述べたが、しばらくして「私の罪は当然のものだ。臨洮から遼東まで塹を掘り万余里の城を築いた、この間に地脈を絶たぬはずがなかろう。これこそ私の罪だ」と自ら罪を引き受け、薬を仰いで自殺した。

史論

太史公曰く。私は北辺に赴き、直道を通って帰った際、蒙恬が秦のために築いた長城の亭障を見た。山を塹り谷を埋めて直道を通したことは、まことに民の力を軽んじたものである。秦が諸侯を滅ぼしたばかりで天下の人心もまだ定まらず、傷ついた者もまだ癒えぬ時に、蒙恬は名将でありながら強く諫めて民の急を救い、老を養い孤児を存し民の和を図ることをせず、かえって始皇の意に阿って功を興した。その兄弟が誅に遇ったのも、当然のことではないか。どうして地脈のせいにできようか。