史記卷八十七 列傳第二十七 李斯

李斯(?–前208年)は楚の上蔡の人。荀卿に帝王の術を学び、秦に入って呂不韋の舎人から身を起こし、始皇の天下統一に献策で尽力した秦の丞相。焚書を建議し法度・文字を統一するなど始皇の治世を支えた。始皇の死後、趙高・胡亥と共謀して胡亥を二世皇帝に立てたが、のち趙高に讒言されて捕らえられ、腰斬に処されて三族を夷された。

年表(3件)
  • 始皇34年前213年焚書を建議し始皇に裁可される
  • 始皇37年前210年沙丘で始皇の崩御に立ち会い、趙高・胡亥と共謀して胡亥を太子に立てる
  • 二世2年前208年趙高の讒言で捕らえられ拷問の末誣服し、咸陽の市で腰斬され三族を夷される

出自と若き日

  • 李斯は楚の上蔡の人。若い頃郡の小吏となり、厠のネズミが不潔な物を食べ人や犬に怯えるのを見、また倉のネズミが積んだ穀物を食べ広い建物の下で人や犬の心配もなく暮らすのを見て、「人の賢愚も、ネズミと同じくどこに身を置くかで決まる」と嘆いた。
  • 荀卿に帝王の術を学び、学び終えると、楚王は仕えるに足らず六国もみな弱いと見て、西の秦へ入ることを志した。荀卿への別れの辞で「時を得て怠らぬことが肝要。今万乗の国々が時を争い、遊説の者が事を主どる時代だ。秦王は天下を併呑し帝と称して治めようとしている。卑賤の位にあって何もしないのは、人の姿をした獣に等しい。卑賤より大きな恥はなく、窮困より甚だしい悲しみはない」と述べ、秦王を説くために西へ向かうと告げた。

秦への仕官と諫言

  • 秦に至ると荘襄王が没し、李斯は秦相・文信侯呂不韋の舎人となることを求め、不韋に認められて郎に任じられた。これにより秦王への遊説の機会を得、「好機を逃さぬこと」「瑕釁に乗じて忍び行うこと」を説き、秦孝公以来の六代の勝利で諸侯はすでに郡県同然であり、今こそ天下統一の好機であって、怠れば再び諸侯が強くなり黄帝の賢をもってしても併呑できなくなると進言した。秦王は李斯を長史とし、その計に従って謀臣を諸侯へ遣わし、財で誘い従わぬ者は刺客で除く策を用いた。李斯は客卿に任じられた。
  • 韓人鄭国が灌漑水路建設を口実に秦を疲弊させる間者であったことが発覚すると、秦の宗室大臣は諸侯出身者の全追放(逐客令)を進言し、李斯もその対象となった。李斯は上書し、繆公が由余・百里奚・蹇叔・丕豹・公孫支ら他国出身の五子を用いて西戎を覇したこと、孝公が商鞅の法を用いて国を富強にしたこと、恵王が張儀の計で三川・巴蜀・上郡・漢中を得たこと、昭王が范雎を得て穣侯を廃し王室を強めたことを挙げ、この四君はみな客の功によって業を成したと説いた。さらに、秦が愛用する宝玉・音楽・美女の多くは他国産であるのに、人材だけを国産に限るのは矛盾であり、人を軽んじ財宝を重んじるのは天下を制する道ではないと諭した。秦王は逐客令を廃して李斯の官を復し、その計をことごとく用いた。李斯は廷尉にまで昇進した。

天下統一への貢献と焚書

  • 秦の統一後、李斯は丞相となり、郡県の城を壊し兵器を鎔かして二度と武力に頼らぬ姿勢を示し、子弟・功臣を王侯に立てず後の戦乱の芽を絶った。
  • 始皇34年(前213年)、咸陽宮の酒宴で博士僕射・周青臣らが始皇の威徳を頌えたのに対し、斉人・淳于越が「殷周は子弟功臣を封じて千年続いたが、今陛下の子弟は匹夫のままで田常・六卿のような禍を防ぐ輔弼がない。古を師としない政は長続きしない」と諫めた。始皇はこの議を丞相に下し、李斯はこれを退け、上書して「昔は天下が乱れ諸侯が並び立ち、私学の徒が古を語って今を非難し、令が下ればめいめいの学説で議論し、朝廷の権威を損なっている」と述べ、医薬・卜筮・種樹の書を除く『詩』『書』・諸子百家の書を焼却し、令から30日以内に焼かぬ者は黥刑・城旦に処し、学びたい者は吏を師とすべしと建議した。始皇はこれを裁可し、法度・律令を統一、文字(同文書)を統一し、離宮別館を天下に整備した。翌年の巡狩・四夷への遠征にも李斯は力を尽くした。

栄華の絶頂

  • 李斯の長男・李由は三川守となり、他の息子たちはみな秦の公主を娶り、娘たちも秦の公子に嫁いだ。李由が休暇で咸陽に帰った際、李斯は自邸で酒宴を開き、百官の長がみな進み出て寿を述べ、門前には千を数える車馬が並んだ。李斯は嘆いて「荀卿の『物は盛んになりすぎることを禁ずる』の言葉を思い出す。私は上蔡の一布衣、閭巷の民に過ぎなかったのに、主上は私の愚かさを知らずここまで引き立てて下さった。今、人臣の位で私の上に立つ者はなく、富貴を極めたと言えよう。だが物事は極まれば衰える。私はまだ自分の行き着く先を知らない」と語った。

沙丘の変

  • 始皇37年(前210年)10月、始皇は会稽へ巡遊し海沿いを北上した。丞相李斯・中車府令趙高(符璽令を兼務)が随行した。始皇には二十余人の子がいたが、しばしば直諫した長子扶蘇は上郡で蒙恬とともに軍を監督させられており、末子胡亥だけが願い出て随行を許された。
  • その年7月、始皇は沙丘で重病となり、趙高に扶蘇宛ての詔書(軍を蒙恬に委ね咸陽で会葬せよとの内容)を書かせたが、使者に渡す前に崩御した。璽書は趙高の手にあり、胡亥・丞相李斯・趙高と側近の宦者五、六人のみが崩御を知り、他の群臣は知らなかった。李斯は太子未定のまま外で崩御したことを秘匿した。
  • 趙高は扶蘇宛ての璽書を握りつぶし、胡亥に「長子が立てば陛下には尺寸の地もなくなる」と説いた。胡亥は当初「廃兄立弟は不義、父の詔に背くのは不孝、才の乏しさで人の功を奪うのは不能」と拒んだが、趙高は湯武・衛君の例を引き大事の前には小義を捨てるべきと説き、遂に説得された。
  • 趙高は李斯を訪ね「あなたの才・功績・謀略・怨みのなさ・扶蘇の信頼、いずれも蒙恬に及ばない。長子が立てば必ず蒙恬が丞相となり、あなたは通侯の印を郷里へ持ち帰れずに終わる。一方胡亥は慈仁篤厚で人材にふさわしい」と説いた。李斯は当初「人臣の議すべきことではない」と拒んだが、趙高は「安危は定まっていない、何によって聖と称せようか」と迫り、李斯は乱世に生きて死に切れなかったことを嘆きつつ最終的に趙高に従った。
  • 三人は共謀して始皇の詔と偽り胡亥を太子に立て、扶蘇には不孝・不忠を理由に自裁を命じ、蒙恬にも連座を理由に賜死を命じる偽の書を作り、胡亥の客に持たせて上郡の扶蘇へ送った。扶蘇は使者の書を見て自殺しようとしたが、蒙恬は詐りを疑い再度の上請を勧めた。扶蘇は父の命に従って自殺し、蒙恬は死を拒み捕らえられ陽周に幽閉された。
  • 使者の報告を受け胡亥・李斯・趙高は大いに喜んだ。咸陽に着くと発喪し、太子は二世皇帝として即位、趙高は郎中令となり常に側近として実権を握った。

二世皇帝下の粛清

  • 二世は趙高に、耳目の欲を尽くし天下を長く保つ道を問うた。趙高は「厳法酷刑で罪ある者を族滅し、先帝の旧臣を除いて陛下の親信を近づければ、憂いなく高枕に寵楽できる」と説いた。二世はこれに従い法律を改め、公子十二人が咸陽の市で戮死、公主十人が杜で矺死し、財産は没収され連座者は数えきれなかった。公子高は連座を恐れ、先帝への殉死を願う上書をして許され、銭十万を賜って葬られた。
  • 法令はますます苛烈となり、群臣は皆自らの身を危ぶんだ。阿房宮の造営、直道・馳道の建設で賦税・徭役はいよいよ重くなり、楚の戍卒・陳勝、呉広らが山東で挙兵し、その勢いは鴻門にまで及んで秦軍がようやく押し返した。李斯はしばしば二世に諫言しようとしたが機会を得られなかった。
  • 二世は韓非の言を引き「堯・禹のような苦労は賢者のすべきことではなく、賢者は天下を自分に適するようにするものだ」との放縦の論を李斯に語った。折しも李斯の子・李由は三川守として呉広らの西進を防げず譴責を受けており、李斯は保身のため二世の意に阿り、「督責の術」を説く上書を提出した。これは申不害・韓非の法術思想に基づき、君主が独断で厳罰を行使し臣下を完全に統制すれば、天下は乱れず、求めるものはすべて得られると説くものであった。二世はこれを喜び、督責をいよいよ厳しくし、刑を受けた者が道に相半ばし、死者が日に日に市に積まれるほどになったが、二世は「これでこそ督責が行われていると言える」と評した。

李斯の失脚と死

  • 趙高は郎中令として殺傷・私怨の報復を重ね、大臣が二世に自分を讒言することを恐れ、二世に「天子が貴いのは声だけを聞き顔を見せぬからこそ、群臣は畏れる」と説き、朝廷に出て大臣に会わぬよう仕向けた。二世は禁中に籠るようになり、政務はことごとく趙高が決するようになった。
  • 趙高は李斯に「関東の群盗が多いのに阿房宮の造営を急がせている、諫めるべきだ」と唆しつつ、実際には二世が燕楽に耽っている隙を狙って李斯に上奏させ、二世の怒りを誘った。さらに趙高は「沙丘の謀に丞相も関わった、丞相の子・李由は三川守として楚の盗賊(陳勝ら)と近しい地縁があり、盗賊の通行を阻んでいない」と讒言し、李斯が地を裂いて王たらんとしているのではと疑わせた。二世は三川守と盗賊の内通を調べさせた。
  • 二世が甘泉で見世物に興じ会えずにいた李斯は、趙高の危険を上書し、宋の司城子罕、斉の田常の故事を引いて権臣の専横を戒めたが、二世は「趙高は宦官ながら清廉勤勉で私の頼りだ」と信任を崩さず、李斯の疑いを退けた。二世が趙高にこれを告げると、趙高は「丞相の患いは私だけ、私さえ死ねば丞相は田常のようになる」と讒言し、二世は李斯を郎中令(趙高)の管轄に付した。
  • 趙高は李斯を取り調べ、千余回の拷問の末、李斯は耐えかねて誣服した。獄中から上書し、韓・魏・燕・趙・斉・楚を并せ秦を強大にした功、大臣を尊び親しみを固めた功、社稷・宗廟を興した功など七つの「罪」(実は功績)を列挙して弁明したが、趙高は使者にこれを握りつぶさせ、「囚人に上書の資格などない」と一蹴した。趙高は偽の御史・謁者・侍中を送って李斯を繰り返し尋問させ、実情を述べれば拷問を加えるという偽装を重ねた末、李斯はついに前の自白を覆さず罪に服した。
  • 二世2年(前208年)7月、李斯は五刑を科され咸陽の市で腰斬に処された。獄を出る際、共に連座した中子を顧みて「もう一度お前と黄犬を牽いて上蔡の東門で兎狩りをしたいものだが、それも叶わぬな」と語り、父子で泣き合い、三族を夷された。

趙高の専権と秦の滅亡

  • 李斯の死後、趙高は中丞相となり、大小の事はすべて趙高が決した。趙高は自らの権勢を試そうと鹿を献上し「馬」と称した。二世が左右に問うと、皆「馬です」と答え、二世は自ら惑ったかと恐れ太卜に占わせた。太卜は「斎戒が明らかでないため」と告げ、二世は上林苑に入って斎戒した。その間、狩猟中に誤って通行人を射殺してしまい、趙高はこれを口実に二世を望夷宮へ移らせた。
  • 3日後、趙高は衛士を欺いて「山東の群盗の大軍が迫った」と偽らせ、二世を脅して自殺に追い込んだ。趙高は璽を引いて帯びようとしたが左右の百官は従わず、殿に上ろうとすると殿は三度も崩れかけた。天が味方せず群臣も許さぬと悟った趙高は、始皇の弟(子嬰)を立てて璽を授けた。
  • 子嬰は即位すると趙高を憂え、病と称して政務を執らず、宦者・韓談とその子と謀って趙高を殺害する策を立てた。趙高が見舞いを口実に参内すると、韓談に刺殺させ、三族を夷した。
  • 子嬰の在位3か月にして、沛公(劉邦)の軍が武関から入って咸陽に至り、群臣百官はみな叛いて従わなかった。子嬰は妻子とともに首に組紐をかけ、軹道のほとりで降伏した。沛公は子嬰を吏に引き渡し、後に項王(項羽)が至って斬った。かくして秦は天下を失った。

史論

太史公曰く。李斯は閭閻の身から諸侯を遍歴し、秦に仕えてその隙に乗じ始皇を輔け、ついに帝業を成して自らも三公に至った。まことに尊用されたと言えよう。しかし李斯は六経の本旨を知りながら、政を正して主上の欠を補うことをせず、爵禄の重さに執着して阿諛し、厳威酷刑を行い、趙高の邪説に従って嫡子を廃し庶子を立てた。諸侯がすでに叛いてから諫争しようとしたのは、あまりに遅すぎたと言うほかない。世は李斯を至忠でありながら五刑を受けて死んだと見るが、その本質を察すれば世の評判とは異なる。そうでなければ、李斯の功は周公・召公に並んだであろう。