史記卷八十六 刺客列傳第二十六 荊軻

太子丹との出会い

  • その後二百二十余年、秦に荊軻の事があった。荊軻は衛の人。祖先は斉の人で衛に移った。衛人は彼を慶卿と呼び、後に燕に移ると燕人は荊卿と呼んだ。
  • 荊卿は読書と撃剣を好み、剣術をもって衛の元君に仕官を説いたが用いられなかった。その後秦が魏を攻め東郡を置いた際、衛の元君の一族は野王に移された。
  • 荊軻は榆次に遊学した際、蓋聶と剣を論じて蓋聶が怒って睨みつけると、荊軻はそのまま立ち去った。人が呼び戻そうとしたが荊軻は既に馬車で榆次を去っていた。邯鄲では魯句践と博打で道を争い罵られると黙って逃げ去り二度と会わなかった。
  • 荊軻は燕に至ると狗の屠殺人や撃筑(琴に似た楽器)の名手・高漸離と親しくなった。酒を好み市で共に飲み、酔うと高漸離が筑を撃ち荊軻が歌い、楽しんでは泣き傍若無人だった。しかし酒仲間でありながら人柄は深沈として読書を好み、遊学先の諸侯国では賢者・長者と交わった。燕の処士・田光もこれを厚遇し、荊軻を凡人でないと見抜いていた。

燕太子丹の計画

  • しばらくして燕太子丹が秦の人質から逃げ帰った。丹はかつて趙で人質となっており、秦王政も趙で生まれ幼少期に丹と親しかった。政が秦王となり丹が秦の人質となると、秦王は丹を厚遇せず、丹は怨みを抱いて逃げ帰った。丹は秦への報復を望んだが国が小さく力が及ばなかった。秦が山東へ出兵し斉・楚・三晋を攻め諸侯を蚕食し燕にも迫ると、燕の君臣は禍を恐れた。
  • 太子丹は傅の鞠武に相談した。鞠武は「秦は天下に広がり韓・魏・趙を威圧し、地の利も兵の強さも十分。恨みだけで逆鱗に触れるのは危険だ」と答えた。丹が「ではどうすればよいか」と問うと、鞠武は「熟考させてほしい」と答えた。
  • しばらくして秦の将・樊於期が秦王に罪を得て燕に亡命し、太子丹はこれを受け入れた。鞠武は「秦王の暴虐と燕への怒りを考えれば、樊将軍をかくまうのは『餓えた虎の道に肉を置く』ようなもの、管仲・晏嬰でも救えぬ禍になる。将軍を匈奴に送り込み口を封じ、西は三晋と、南は斉・楚と結び、北は匈奴と誼を通じてから策を図るべきだ」と諫めたが、丹は「その計は日を要しすぎる、私は待てない。ましてや樊将軍は天下に窮して私を頼ってきた者、強秦を恐れて彼を見捨てることはできない」と拒んだ。鞠武は「危を行い安を求め、禍を作って福を求めるのは策の浅さの証、燕に賢人・田光先生がいる、彼と謀るべきだ」と勧め、丹は田光との対面を求めた。
  • 太子丹は田光を丁重に迎え「燕秦は両立できない、先生の考えを聞きたい」と請うた。田光は「私は既に盛りを過ぎ、太子が知る私の壮健さは既に消え失せている。ただ荊卿(荊軻)を推薦できる」と述べ、太子は荊卿への紹介を頼んだ。田光は快諾し荊軻を訪ね、太子との対面を勧めた。田光は「長者たる者、人に疑われる行いをしない」と述べ、太子が秘密を漏らすなと言ったことを自らへの疑いと受け止め、荊軻を促すため自刎して死んだ。

出立の準備

  • 荊軻は太子丹に会い田光の死とその言葉を伝えた。太子は跪き涙を流し、田光の死を悼みつつ、秦が既に韓を滅ぼし、楚・趙にも迫っている情勢、燕が小さく秦に抗しえない現状を語り、「天下の勇士を秦に送り重利で近づけ秦王を脅し、諸侯から奪った地を全て返させたい。曹沬が桓公にしたように。それが叶わなければ刺殺したい」との願いを打ち明けた。荊軻は当初「重大事で自分には荷が重い」と辞したが、太子の強い懇願により引き受け、上卿として遇された。
  • 秦が趙を破り燕の南境に迫ると、太子丹は焦り荊軻に急を告げた。荊軻は「秦へ行くには信頼の証が要る。樊将軍の首と燕の督亢の地図を献上すれば秦王は必ず会うだろう」と述べたが、太子は樊於期を害することを躊躇った。
  • 荊軻は自ら樊於期に「秦王はあなたの一族を戮殺し首に千金・万戸の懸賞をかけている、どうするか」と問いかけ、樊於期が痛憤して問うと、荊軻は「あなたの首を秦王に献上すれば必ず会える、その時に刺す」と告げた。樊於期は「これぞ私が日夜歯噛みしていたことだ」と自ら首を刎ねた。太子丹は駆けつけ屍に伏して哀哭した。
  • 太子は天下随一の匕首(趙人・徐夫人の作、百金で購入し毒を焼き付けたもの)を用意し、燕の勇士・秦舞陽(十三歳で人を殺し誰も正視できない)を副使とした。荊軻は同行を待つ人物がいたが遅れたため、太子は疑い先に秦舞陽だけでも出発させようとした。荊軻は怒り「なぜ急かすのか、行って戻らねば豎子(未熟者)だ、私が待っていたのは供の者を待つためだ」と述べ、ついに出発した。

易水の別れと秦王暗殺の失敗

  • 太子と事情を知る賓客は白装束で見送り、易水のほとりで高漸離が筑を撃ち荊軻が変徴の調べで歌い、皆涙した。さらに「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず」と歌うと、羽の調べに変わり皆瞋目し髪は逆立った。荊軻はそのまま車に乗り振り返らず去った。
  • 秦に至り、千金の賄賂で秦王の寵臣・中庶子蒙嘉に取り入り、燕王が秦への恭順と樊於期の首・督亢の地図の献上を願う旨を伝えさせた。秦王は大いに喜び朝服を整え九賓の礼で燕の使者を咸陽宮に迎えた。荊軻が樊於期の首の函を、秦舞陽が地図の匣を捧げ進んだが、階に至ると秦舞陽が顔色を変え震えたため群臣が怪しんだ。荊軻は笑って「北方の蛮夷の田舎者ゆえ天子を見て畏縮している、どうかお許しを」と取り繕った。
  • 荊軻が地図を奏上し秦王が広げると、地図の端から匕首が現れた(図窮まりて匕首見る)。荊軻は左手で秦王の袖を掴み右手の匕首で胸を突こうとしたが、秦王は驚いて身を引き袖が切れて逃れた。剣を抜こうとしたが長く鞘から抜けず、秦王は柱を回って逃げ、群臣も咄嗟のことに動けなかった。秦の法では殿上の群臣は武器を持てず、武装の郎中は殿下に控え詔なくして上がれなかったため、誰も救援に入れなかった。侍医の夏無且が薬嚢を荊軻に投げつけて時間を稼ぎ、左右が「王よ剣を背負え」と叫ぶと秦王は剣を背に回してようやく抜き、荊軻の左股を斬った。
  • 荊軻は倒れながらも匕首を投げつけたが柱に当たり外れた。秦王がさらに斬りつけ荊軻は八箇所の傷を負った。荊軻は事の成らぬことを悟り柱にもたれて笑い、あぐらをかいて「生きたまま脅して約束を取り太子に報いようとしたゆえ、成らなかったのだ」と罵った。左右がついに荊軻を斬殺した。秦王はしばらく気を鎮められなかった。後に論功行賞が行われ、夏無且には黄金二百鎰が与えられ「無且が我を愛し薬嚢を投げてくれたからだ」と述べた。

燕の滅亡と高漸離の最期

  • 秦王は大いに怒り趙へ増兵し王翦に燕討伐を命じ、十月に薊城を落とした。燕王喜と太子丹らは精兵を率い遼東へ逃れた。秦の将・李信が急追すると、代王嘉が燕王喜に「秦が執拗に追うのは太子丹のためだ、丹を殺して献上すれば秦は矛を収め社稷は保てる」と書を送った。李信の追撃により丹は衍水に身を隠したが燕王は使者を送り太子丹を斬らせ秦に献じようとした。しかし秦はなお攻め続け、五年後についに燕を滅ぼし燕王喜を捕虜とした。
  • その翌年、秦は天下を統一し皇帝と号した。秦は太子丹・荊軻の食客を追及し皆逃亡した。高漸離は姓名を変え人に雇われ宋子で身を潜めて働いていたが、雇い主の家で撃筑の音を聞くと立ち去りがたく、思わず「上手いが未熟なところもある」と口にした。従者がこれを主人に告げると「あの雇い人は音楽が分かる」と言われ、家の主人は高漸離を呼び撃筑させると座の皆が称賛し酒を賜った。
  • 高漸離は隠れ続けることに窮迫を感じ、匣から筑と晴れ着を取り出し姿を改めて現れ、座の客は驚き対等の礼を尽くし上客とした。撃筑して歌わせると客は皆涙して去った。宋子の人々が彼を伝え聞き、ついに秦の始皇帝の耳に入った。始皇帝が召し見ると、彼を知る者が「高漸離だ」と告げた。秦皇帝はその撃筑の腕を惜しみ死一等を減じ、目を潰して盲目にした上で撃筑させ、その音色を常に称賛した。次第に近づけるようになったころ、高漸離は筑の中に鉛を仕込み、近づいて筑を秦皇帝に打ちつけたが命中しなかった。ついに高漸離は誅殺され、秦は二度と諸侯の人物を近づけなくなった。
  • 魯句践はかつて荊軻を叱った自分を思い出し、荊軻の秦王暗殺未遂を聞いて「惜しいことに刺剣の術を彼と論じ合わなかった。私は人を見る目がなかった、あの時彼は私を人でなしと思ったに違いない」と密かに語った。

史論

  • 太史公曰く、世に荊軻を語る際「天雨粟、馬生角(天が粟を降らし馬に角が生えた)」という太子丹の運命を示す言い伝えは誇張が過ぎる。また荊軻が秦王を傷つけたという説も誤りである。かつて公孫季功・董生は夏無且と交わりこの事件を詳しく知っており、太史公にこのように語ってくれた。曹沬から荊軻に至る五人は、その義が成るか成らないかは別として、その志の立て方は明確で自らの志を欺かず、名を後世に残した。これは決して虚しいことではない。