閼与の戦い
- 趙奢は趙の田部吏(租税官)であった。平原君の家が租税を拒んだ際、法に従って処理し用事者九人を殺した。怒った平原君に対し趙奢は「貴公子である君の家が奉公せねば法が緩み、国が弱まり諸侯に攻められ、君の富貴もなくなる。上下平等に法を守れば国は強まる」と説き、平原君は感服して趙王に推挙し、趙奢は国の租税を治めて国を富ませた。
- 秦が韓を攻め閼与に軍を置いた際、王が廉頗・楽乗に問うと「道遠く険しく救援は難しい」と答えたが、趙奢は「両鼠が穴で争うようなもの、勇者が勝つ」と答え、将として救援に赴くことになった。
- 邯鄲を離れて三十里の地点で軍事を諫める者を斬ると令し、秦軍が武安に迫っても動かず、28日間陣を固めてさらに塁を増した。秦の間者を厚遇して帰したところ、秦将は「国から三十里で進まず塁を増すのは閼与を守る気がない証」と油断した。趙奢はその間者を送り返した後、急遽甲を巻いて二日一夜で駆けつけ、五十里手前に布陣。軍吏・許歴の進言(「先に北山を取った方が勝つ」)に従い一万の兵で山を取らせ、後から来た秦軍が山を奪えず、趙奢は総攻撃をかけて秦軍を大破、閼与の囲みを解いた。
- 恵文王は趙奢に馬服君の号を与え、許歴を国尉とした。趙奢は廉頗・藺相如と並ぶ地位を得た。
趙括――長平の敗戦
- 4年後、恵文王が卒し孝成王が立った。7年、秦と趙は長平で対峙。趙奢はすでに死去、藺相如も病篤であったため廉頗が将となり秦を攻めたが度々敗れ、以後は城壁を固めて戦わなかった。秦の間者が「秦が恐れるのは馬服君の子・趙括だけ」と流言すると、趙王はこれを信じ趙括を廉頗に代えて将とした。藺相如は「名声だけで括を用いるのは膠柱鼓瑟(融通の利かないこと)に等しい。括は父の兵書を読んだだけで臨機応変を知らない」と諌めたが聞かれなかった。
- 趙括は少時から兵法を学び自信満々であったが、父・趙奢は「兵は死地であるのに括は軽々しく語る」と危惧し、括の母も「父は将であった時、賞賜はすべて軍吏に分け与え家事を顧みなかったが、括は将となるや軍吏が仰ぎ見ることさえできぬほど威張り、賜った金帛は自宅にしまい田宅を買い漁っている。父子で心根が異なる」と王に将としての不適格を訴えたが、王は「すでに決めた」と退けた。母は「不首尾の際は連座を免れたい」と念を押し、王は承諾した。
- 趙括は着任するや規則をすべて改め軍吏を入れ替えた。秦将・白起はこれを見て偽って敗走し糧道を断ち、趙軍を二分して士気を崩壊させた。40日余りの飢餓の末、趙括は自ら精鋭を率いて突撃したが射殺され、数十万の趙軍は降伏、秦はことごとくこれを生き埋めにした。趙の死者・捕虜は前後合わせて45万に及んだ。翌年秦軍は邯鄲を包囲し1年余り陥落寸前まで追い詰めたが、楚・魏の救援でかろうじて解囲した。趙王は括母の先の進言により連座は問わなかった。
廉頗――晩年
- 邯鄲解囲から5年後、燕は「趙の壮者は長平で失われ孤児が育っていない」として栗腹の献策で趙を攻めたが、廉頗が大破して栗腹を殺し燕を包囲、燕は五城割譲で和を求めた。趙は廉頗を信平君・仮相国とした。
- 廉頗が長平の失脚時に落魄すると客はみな去ったが、再び用いられると客は戻った。廉頗が「客は退け」と言うと、客は「天下は市の道理で交わるもの、勢いのある時は従い、勢いを失えば去るのが道理」と答えた。6年後、廉頗は魏の繁陽を攻め抜いた。
- 孝成王が卒し悼襄王が立つと楽乗を廉頗に代えた。廉頗は怒って楽乗を攻め、楽乗は逃走、廉頗も魏の大梁に亡命した。翌年、趙は李牧を将として燕を攻め武遂・方城を抜いた。
- 魏では廉頗は用いられず不遇の中、趙は秦にたびたび苦しめられ廉頗の再登用を望み、使者を送って様子を見させた。廉頗の仇・郭開が使者に賄賂を贈って中傷させたため、廉頗が一飯で米一斗・肉十斤を平らげ甲を着けて馬に乗って見せたにもかかわらず、使者は「食欲はあるが座談の間に三度も便意を漏らした」と報告、趙王は老いたと判断し召さなかった。
- 楚が廉頗を招くと将となったが功はなく、「趙人を用いたい」と嘆きつつ寿春で没した。