史記卷八十一 列傳第二十一 藺相如
趙の宦者令・繆賢の舎人から抜擢された智勇の臣。和氏の璧を無事に趙へ持ち帰った「完璧帰趙」と、澠池の会での機知で知られ、のち廉頗と刎頸の交わりを結んだ。長平の戦いでは趙括の起用に反対した。生没年不明。
年表(1件)
- 4年後斉を攻めて平邑まで至るも撤退した
完璧帰趙
- 恵文王が楚の和氏の璧を得ると、秦の昭王は十五城との交換を申し出た。趙王は廉頗ら大臣と協議したが、璧を渡せば秦城を得られず欺かれる恐れがあり、渡さねば秦の侵攻を招く恐れがあると悩み、適任の使者が得られずにいた。
- 繆賢が舎人・藺相如を推薦した。かつて自分が罪を犯して燕へ逃げようとした際、燕王との親交を頼ろうとする自分を藺相如が「燕が趙を恐れて君を捕らえ趙に送り返すだろう」と諫め、自ら罪を認めて赦しを乞うよう勧め、その通りにして赦された経緯を語り、藺相如を勇智の士と評した。
- 趙王が藺相如に璧を渡すべきか問うと、「秦は強く趙は弱いので許すべき」と答え、璧だけ取られて城を得られない懸念には「秦が求めて趙が拒めば非は趙にあり、趙が渡して秦が城を渡さねば非は秦にある。渡して秦に非を負わせる方がよい」と説き、自ら璧を奉じて秦に赴き、「城が入れば璧は秦に残し、入らなければ璧を無事に持ち帰る」と約した。
- 秦王は璧を受け取ると喜んで美人や左右に見せ、城を償う意思のないことを見て取った藺相如は「瑕があるので指し示す」と璧を取り戻し、柱に寄りかかって怒髪天を衝く勢いで、趙王が斎戒五日の礼を尽くして璧を送ったにもかかわらず秦王が非礼に応じたことを責め、璧もろとも柱に頭を砕くと脅した。秦王は璧の破損を恐れて謝り、地図を示して十五城の割譲を約したが、藺相如はそれが偽りと見抜き、秦王にも斎戒五日と九賓の礼を求めさせ、その間に従者に璧を懐に忍ばせて密かに趙へ送り返させた。
- 秦王が斎戒の後、九賓の礼で藺相如を迎えると、藺相如は「秦の歴代の王で約束を守った者はいない、璧はすでに趙に送り返した、欺いた罪は死に値するが、群臣とよくご検討を」と述べた。秦王と群臣は顔を見合わせるばかりで、殺しても璧は得られず秦趙の友好を絶つだけと判断し、藺相如を厚遇して趙に帰した。
- 藺相如は帰国後、上大夫に任じられた。結局秦は城を与えず、趙も璧を渡さなかった。
澠池の会
- その後秦は趙を攻め石城を抜き、翌年また攻めて二万人を殺した。秦王は西河外の澠池での会見を求め、趙王は恐れて行くのを渋ったが、廉頗・藺相如は行かねば趙の弱さを示すことになると進言し、趙王は赴いた。廉頗は国境まで見送り、30日以内に戻らねば太子を王に立て秦の望みを断つと約した。
- 酒宴で秦王が趙王に瑟を弾かせ秦の史官に記録させると、藺相如は秦王に盆缻を打つよう求め、拒む秦王を「五歩以内で頸の血を浴びせる」と脅して打たせ、趙の史官に記録させた。秦の群臣が「趙の十五城を秦王への祝いに」と言うと、藺相如も「秦の咸陽を趙王への祝いに」と切り返し、秦は最後まで趙に対して優位に立てなかった。
廉頗・藺相如――刎頸の交わり
- 帰国後、藺相如の功が大きいとして上卿に任じられ、廉頗より上位となった。廉頗は「攻城野戦の功のある自分より、口先だけの藺相如が上位にあるのは恥だ」と辱めると宣言した。藺相如はこれを避け、朝会でも病と称して争いを避け、廉頗を見ると車を引いて避けた。舎人たちが情けないと諫めると、藺相如は「秦王の威に対しても叱りつけた自分が廉将軍を恐れるはずがない。強秦が趙を攻めないのは自分たち二人がいるからで、両虎が争えば共倒れになる。国家の急を私怨より優先しているのだ」と答えた。これを聞いた廉頗は肉袒し荊を背負って藺相如の門に謝罪し、二人は刎頸の交わりを結んだ。
- この年、廉頗は斉を攻めその一軍を破った。2年後、斉の幾を伐って抜き、3年後、魏の防陵・安陽を攻め抜いた。4年後、藺相如も斉を攻めて平邑まで至り撤退。翌年、趙奢が秦軍を閼与で破った。