史記卷七十二 穰侯列傳第十二 穰侯(魏冉)

秦昭王の母・宣太后の異父兄。武王没後の昭王擁立に功があり、秦相として白起を登用し伊闕・華陽などの戦いで秦の勢力を広げた立役者。富貴は王室を凌ぐほどとなったが、范雎の進言により昭王に免ぜられ、封地の陶で没した。

年表(7件)
  • 昭王
  • 七年趙の要請により魏冉が秦相となる
  • 十四年白起を登用し伊闕で韓・魏を大破、斬首二十四万
  • 十九年秦は西帝、斉は東帝を称するが一月余りで取りやめる
  • その四年後白起に楚の郢を攻め取らせ、秦は南郡を置き白起を武安君に封じた
  • 三十二年魏の大梁を包囲するも須賈の説得を容れ包囲を解いた
  • 三十六年客卿竈の策で斉の剛・壽を攻めようとし、これを機に范雎が昭王に取り入る
  • 范雎の言上を受け昭王は穰侯を相国から免じ、関外の封邑へ退去させた

出自と生い立ち

  • 穰侯魏冉は、秦昭王の母・宣太后の弟。その先祖は楚人で、姓は羋氏。
  • 秦武王が子なく没し、弟が擁立されて昭王となった。昭王の母はもと羋八子と呼ばれ、昭王即位後に宣太后と号した。宣太后は武王の母ではない。武王の母は惠文后といい、武王より先に死去していた。
  • 宣太后には二人の弟がいた。異父の兄が穰侯(姓は魏、名は冉)、同父の弟が羋戎(華陽君)である。昭王の同母弟には高陵君・涇陽君がいた。魏冉が最も賢く、惠文王・武王の代からすでに任用され政務にあたっていた。
  • 武王が没すると諸弟が王位を争ったが、魏冉の力によって昭王が擁立された。

昭王擁立と初期の権勢

  • 昭王が即位すると魏冉は将軍となり咸陽を守った。季君の乱を誅し、武王の后を魏へ追放し、昭王に従わない兄弟をすべて滅ぼして秦国に威を振るった。
  • 昭王がまだ若かったため宣太后が自ら政を執り、魏冉に政務を任せた。

秦相への就任

  • 昭王七年、樗里子が没し涇陽君が斉へ人質に出された。趙人の樓緩が秦の相となったが趙にとって不利であったため、趙は仇液を秦へ遣わし魏冉を秦相にするよう請わせた。
  • 仇液が出発する際、食客の宋公は「秦がもし公の言を聞かなければ樓緩は公を恨むだろう。むしろ樓緩に『魏冉のことは急がなくてよい』と伝えておけ。秦王が趙が魏冉の登用を急いでいないと見れば公の言を聞かないだろうが、事が成らなくとも樓緩に恩を売ることになり、事が成れば魏冉が公に恩義を感じる」と献策し、仇液はこれに従った。結果、秦は樓緩を免じ魏冉が秦相となった。
  • その後、呂禮を誅そうとしたため呂禮は斉へ出奔した。

白起の登用と伊闕の戦い

  • 昭王十四年、魏冉は白起を挙用し向壽に代えて将とし、韓・魏を攻めて伊闕で大破、斬首二十四万、魏将公孫喜を捕虜とした。
  • 翌年、さらに楚の宛・葉を取った。魏冉は病と称して相を辞し、客卿の壽燭が代わって相となったが、その翌年に燭は免じられ、魏冉が再び相となった。魏冉は穰に封ぜられ、さらに陶を加封され、「穰侯」と号した。

穰への封と権勢の拡大

  • 穰侯に封ぜられて四年、秦の将として魏を攻め、魏は河東方四百里を献上した。魏の河内を抜き、大小六十余城を取った。
  • 昭王十九年、秦は西帝、斉は東帝を称したが、一月余りで呂禮が来朝し両者とも帝号を取りやめた。魏冉は再び秦相となり、六年で免ぜられ、二年後にまた相となった。
  • その四年後、白起に楚の郢を攻め取らせ、秦はここに南郡を置き、白起を武安君に封じた。白起は穰侯が推挙した人物で、両者は親しい間柄だった。この頃、穰侯の富は王室をしのぐほどであった。

須賈の説得(大梁包囲の解除)

  • 昭王三十二年、穰侯は相国として魏を攻め、芒卯を敗走させて北宅に入り、大梁を包囲した。
  • 梁の大夫須賈が穰侯に説いた。衛・趙はかつて割地の要求を渋りながらも国を全うしたが、宋・中山は割地を重ねて滅んだ例を挙げ、「秦は貪欲な国で満足を知らない。伊闕・華陽の勝利は兵力の精強や計略の巧みさによるものではなく天の幸運に過ぎず、これを常態と見なすのは智者のすることではない。魏は百県から三十万の兵を大梁に集めており、これを攻略するのは容易でない。魏がなお迷っているうちに少しの割地で早期に手を打つべきだ」と説いた。
  • 穰侯は「善し」として大梁の包囲を解いた。

その後の対魏・対趙・対斉戦

  • 翌年、魏が秦に背き斉と結んだため、秦は穰侯に魏を討たせ、斬首四万、魏将暴鳶を敗走させて三県を得た。穰侯は加封された。
  • 翌年、穰侯は白起・客卿胡陽とともに趙・韓・魏を攻め、華陽で芒卯を破り、斬首十万。魏の卷・蔡陽・長社と趙の観津を取った。観津を趙に与え、さらに兵を益して斉を伐とうとした。
  • 斉の襄王は恐れ、蘇代を遣わしひそかに穰侯へ書を送らせた。書は、趙を益して斉を破っても趙が利するだけで趙は秦の深讎であること、斉を破っても晋・楚を疲弊させることにはならないこと、秦の出兵の多寡いずれの場合も晋・楚を利すること、割地はかえって晋・楚に秦への不信を生むことなどを説き、安邑を得て事える方が得策だと述べた。穰侯はこれを容れ、兵を引いて帰った。

范雎の登用と穰侯の失脚

  • 昭王三十六年、相国穰侯は客卿竈の言を用い、斉の剛・壽を攻めて陶邑を広げようとした。このとき魏人の范雎(張祿先生と自称)は穰侯が三晋を越えて斉を攻めることを批判し、これを機に秘かに昭王へ取り入った。
  • 昭王は范雎を用いた。范雎は宣太后の専制、穰侯の諸侯への擅権、涇陽君・高陵君らの奢侈が王室を上回ることを言上した。昭王はこれを聞いて悟り、穰侯を相国から免じ、涇陽君らを関外の封邑へ退去させた。穰侯が関を出るとき、その輜車は千乗余りに及んだ。
  • 穰侯は陶で没し、そこに葬られた。秦は陶を回収し郡とした。

史論

  • 太史公曰く、穰侯は昭王の実の伯父である。秦が東方に領土を広げ諸侯を弱め、天下に帝号を称し諸侯が西に向かい稽首するに至ったのは穰侯の功績である。しかし富貴が極まったところで、たった一人の説客の言により権勢を折られ憂いのうちに死んだ。まして他国から来た臣下であればなおさらであろう。