史記卷七十一 樗里子甘茂列傳第十一 甘茂

下蔡の人。張儀・樗里子の紹介で秦に仕え、武王のもとで蜀を平定し、息壌の誓いをもって宜陽を落とした将。のち向壽らの讒言により秦を追われ、斉に上卿として迎えられたが秦へ戻れぬまま魏で客死した。孫の甘羅は12歳で秦の使者として活躍した。

年表(6件)

韓・蜀を平定し、息壌の誓いで宜陽を落とす

  • 甘茂は下蔡の人。史挙先生に仕えて諸子百家の学を修めた。張儀・樗里子の紹介で秦の恵王に見え、将として魏章を助けて漢中の地を平定した。
  • 恵王の死後、武王が立ち張儀・魏章は魏へ去った。蜀侯煇と宰相の壮が反乱を起こすと、秦は甘茂に蜀を平定させ、以後甘茂が左丞相、樗里子が右丞相となった。
  • 武王3年、王が三川を通じて周を望見したいと語ると、甘茂は「魏へ行き韓討伐の約束を取り付けます、向壽を副使として同行させてください」と申し出た。甘茂は向壽に「戻ったら『魏は同意したが伐たないでほしい』と王に伝えよ、成功の功はすべてあなたのものにする」と告げ、向壽が報告すると王は息壌で甘茂を出迎えた。
  • 甘茂は「宜陽は名は県でも実質は郡ほどの大きさで、遠征は難しい」と述べ、曾参と同姓同名の人物が人を殺した際、3人の噂だけで曾参の母が機を投げて逃げ出した故事を引き、「私の賢は曾参に及ばず、王の私への信頼も曾参の母ほどではない、噂する者は3人どころではない」と懸念を示した。さらに張儀が巴蜀・西河・上庸を得ても先王の徳とされ、魏の楽羊が中山を落としても文侯に讒言の書簡を示された故事を引き、「私は寄留の臣にすぎず、樗里子・公孫奭が韓に近く私を非難すれば王も聞き入れ、魏王を欺き公仲侈の怨みを買う結果になる」と危惧した。王は「疑わない、盟約しよう」と約し、甘茂に宜陽攻めを命じた。
  • 5か月経っても落ちず、樗里子・公孫奭が案の定反対した。武王が兵を引こうとすると、甘茂は「息壌の誓いがあります」とだけ言い、王は「その通りだ」と全軍を投入させ、6万を斬首してついに宜陽を落とした。韓の襄王は公仲侈を送って秦と和した。

武王の死後の権力争いと甘茂の失脚

  • 武王は周へ至りそこで没し、弟の昭王が立った。母の宣太后は楚の女であった。楚の懐王はかつて丹陽で秦に敗れた際に韓が救援しなかったことを恨み、韓の雍氏を包囲した。韓の公仲侈が秦に急を告げたが、即位したばかりで太后が楚人の昭王は救援に消極的だった。甘茂は昭王に「公仲は秦の救援を頼みに楚に抵抗している、今救わなければ公仲は秦に見切りをつけ楚と結ぶ、韓・楚が結べば魏も従わざるを得ず、秦を伐つ形勢が成る」と説き、王は殽の兵を動かして韓を救い、楚軍は退いた。
  • 秦は向壽に宜陽の統治を、樗里子・甘茂に魏の皮氏攻めを命じた。向壽は宣太后の外族で昭王と幼少より親しく重用されていた。楚は向壽の重用を知り厚遇した。向壽が宜陽を守り韓討伐に向かうと、韓の公仲は蘇代を使って向壽に「窮した獣は車をも覆す、公が韓を破り公仲を辱めれば、公仲は秦との関係修復を諦め楚と結ぶだろう、韓が滅べば公仲は私兵を率いて秦への恨みを晴らそうとするだろう」と説き、慎重な判断を促した。向壽は秦楚の連携は韓に当たるためではないと弁明したが、蘇代はさらに、王の信頼は向壽より公孫奭・甘茂の智謀に劣ること、公孫奭は韓に、甘茂は魏に近しく信用されていないこと、向壽が楚寄りと見られれば同じ轍を踏むと警告し、むしろ韓と結んで楚に備えるべきだと勧めた。向壽は同意したが、甘茂が既に公仲侈に武遂の返還を約束していたため事は難航した。蘇代はさらに、韓の寄地である潁川を秦のために楚へ求めさせる策や、宜陽平定の功と楚・韓の懐柔・斉魏征伐を組み合わせる案を示した。
  • 結局、甘茂は昭王を説いて武遂を韓へ返還させた。向壽・公孫奭はこれに反発できず、代わりに甘茂を讒言し、甘茂は恐れて魏の蒲阪攻めを中止し秦を出奔した。樗里子は魏と講和し兵を引いた。

甘茂の亡命と客死

  • 甘茂は秦を逃れて斉へ向かう途中、秦の使者として来た蘇代と出会った。甘茂は「秦で罪を得て逃げてきたが身の置き所がない、貧しい女が富める女に『燭を分けてくれれば、あなたの明かりが減ることなく私も助かる』と頼んだ故事のように、私の妻子のために便宜を図ってほしい」と頼み、蘇代は承諾した。
  • 蘇代は秦で昭王に「甘茂は並みの人物ではない、秦での経験も長く殽塞から鬼谷までの地形にも通じている、彼が斉・韓・魏と結んで秦に牙をむけば不利益だ」と説き、王が対策を問うと「厚い贈り物と高い俸禄で迎え、鬼谷に留めて生涯出仕させないのがよい」と献策した。王はこれに従い上卿の位と相印を用意して斉から甘茂を迎えようとしたが、甘茂は行かなかった。蘇代は斉の湣王に「甘茂は賢者、秦の厚遇に感謝して斉に仕えることを望み、あえて行かなかった、王もこれに応えるべきだ」と説き、斉王は甘茂を上卿に据えた。秦はその見返りとして甘茂の家族を厚遇し斉との関係を保った。
  • 斉が甘茂を楚へ使者に出した際、楚の懐王は秦と婚姻を結び親しくしていたところで、秦は甘茂の楚在留を知り「甘茂を秦へ送ってほしい」と要請した。楚王が范蜎に秦の宰相候補を問うと、范蜎は「私には分からない」と一度は辞退したが、楚王が甘茂を推すと「不可」と答え、甘茂の師である史挙が下蔡の卑しい門番であったこと、甘茂がそれでも恵王・武王・張儀に仕えて功を立てた賢者であることを認めつつも、「秦に賢相がいることは楚の利益にならない」と説き、むしろ楚王が越を乱れさせて南方を制した先例を引き、秦についても向壽(宣太后一族で昭王と親しい)を推す方が楚のためになると勧めた。楚は向壽を秦の宰相に推薦し秦もこれに応じたため、甘茂はついに秦へ戻れず、魏で客死した。

甘羅――12歳で秦の使いを果たす

  • 甘茂の孫が甘羅である。甘茂の死後、甘羅は12歳で秦の宰相文信侯呂不韋に仕えた。
  • 秦の始皇帝が剛成君蔡沢を燕へ送り、3年後に燕王喜は太子丹を秦へ人質に送った。秦は張唐を燕の宰相として送り燕と共に趙を攻め河間の地を広げようとしたが、張唐はかつて趙を伐って恨みを買っていたため燕への道中が危険だとして拒んだ。文信侯が不機嫌でいると、甘羅が理由を尋ね、自ら張唐を説得すると申し出た。文信侯は「私自らが頼んでも聞かないのに、お前に何ができる」と一蹴したが、甘羅は「項橐は7歳で孔子の師となったという、私は既に12歳だ、試してもみないうちに叱るのですか」と食い下がった。
  • 甘羅は張唐に「あなたの功は武安君(白起)に及ぶか」と問い、張唐は「武安君は南は楚を挫き北は燕・趙を威服させ、及ばない」と答えた。次に「応侯(范雎)の秦での権勢は文信侯ほどか」と問うと「及ばない」と答えた。甘羅は「応侯が趙攻めを望んだ際、武安君がこれに難色を示したため杜郵で死を賜った、今、文信侯自ら頼んでも従わないあなたが、どこで命を落とすか分からない」と説き、張唐はついに「では若君の言に従って行こう」と応じ、出発の準備を整えた。
  • 出発に先立ち、甘羅は文信侯に「車5乗を貸してほしい、張唐に先立って趙に報告に参る」と申し出た。文信侯は始皇帝に甘羅の功績(張唐を翻意させたこと)を伝え、先遣として趙へ送ることを許された。趙の襄王は甘羅を郊外まで出迎えた。甘羅は趙王に、燕の太子丹が秦へ人質に入ったこと、張唐が燕の宰相となることを確認させたうえで、「燕秦が互いに欺かない関係になれば、趙を攻めて河間を広げることになり、趙にとって危険だ」と説き、「王が5城を割いて河間を広げさせれば、私が太子丹を返還させよう、そうすれば強い趙が弱い燕を攻める好機になる」と提案した。趙王は自ら5城を割いて河間を広げ、秦は燕の太子を帰した。趙はその後燕を攻めて上谷の30城を得、うち11城を秦に譲った。
  • 甘羅は秦に帰還して報告し、上卿に封じられ、かつて甘茂に与えられていた田宅も再び賜った。

史論

  • 太史公は言う。樗里子は王族の血縁で重んじられたのも道理であり、秦人がその知恵を称えたので本篇に多く取り上げた。甘茂は下蔡の庶民から身を起こし諸侯にその名を知られ、斉・楚においても重んじられた。甘羅は若くしてただ一つの奇計により後世にまでその名を残した。二人とも篤実な君子とは言えないが、いずれも戦国の策士であった。ちょうど秦が強大化していく時代、天下がひたすら権謀を競っていたことがうかがえる。