史記卷五十四 曹相國世家第二十四 曹参

沛の人、平陽侯曹参。秦代は沛の獄掾で蕭何と共に県の有力吏だった。高祖の挙兵当初から従軍し各地で戦功を重ね、韓信と共に魏・趙・斉を平定して斉相国となった。斉では蓋公に学んだ黄老の治で国を安定させ、惠帝2年に蕭何の死去を受けて漢の相国となると、蕭何の定めをそのまま守る無為の政を貫き「蕭規曹随」と称えられた。

年表(6件)
  • 高祖
  • 2年仮左丞相となり韓信と共に魏・趙・斉を平定した
  • 6年列侯の爵を賜り平陽侯となり斉相国となった
  • 孝惠帝
  • 元年斉丞相となり蓋公の教えを受けて黄老の治を行い斉国を安定させた
  • 惠帝
  • 2年蕭何の死去に伴い漢の相国となり、蕭何の政策をそのまま守る無為の政を行った
  • 相国在任3年曹参が死去し諡は懿侯とされた
  • 征和2年曾孫の宗の代、巫蠱の獄に連座して国は除かれた

出自と挙兵初期の戦功

  • 平陽侯曹参は沛の人。秦代は沛の獄掾で蕭何は主吏、共に県の有力吏だった。
  • 高祖が沛公として挙兵した当初から中涓として従軍。胡陵・方与を攻め秦の監公軍を大破。薛に東下し泗水守軍を撃破、胡陵を再攻略し方与を守った。方与・豊が魏に寝返った際にはこれを攻撃し、七大夫の爵を賜った。
  • 秦の司馬𡰥の軍を碭東で破り碭・狐父・祁善置を取った。下邑以西から虞に至り章邯の車騎を撃ち、爰戚・亢父を先登で攻略し五大夫に昇進。阿を救援し章邯軍を陥れ濮陽まで追撃した。定陶を攻め臨済を取った。南下して雍丘を救援し李由軍を破り李由を殺し秦侯一人を捕虜とした。秦将章邯が項梁を破り殺した後、沛公は項羽と共に東に転じ、楚懐王により碭郡長に任じられた沛公の下、参は執帛に封じられ建成君と号し、戚公に遷り碭郡に属した。

秦滅亡までの転戦

  • 東郡尉軍を成武南で破り、王離軍を成陽南で撃ち杠里で大破した。開封まで追撃し趙賁軍を破って開封城を包囲。曲遇で秦将楊熊軍を破り秦司馬・御史各一人を捕虜とし執珪に昇進した。
  • 陽武を攻め轘轅・緱氏を下し河津を絶ち、尸北で趙賁軍を再度撃破。南下し犨で南陽守齮と戦い陽城郭東で陥陣、宛を取り齮を捕虜とし南陽郡を平定した。武関・嶢関を西攻し攻略。藍田南で秦軍を破り夜襲でさらに北を撃ち、秦軍は大敗、ついに咸陽に至り秦を滅ぼした。

漢中・三秦平定から楚漢戦争

  • 項羽が沛公を漢王に立てると参は建成侯に封じられ漢中に従い将軍に昇進した。三秦平定戦では下辯・故道・雍・斄を攻略、章平軍を好畤南で破り好畤を囲み壌郷を取り、壌東・高櫟で三秦軍を破った。再び章平を囲み章平は好畤から敗走。趙賁・内史保の軍を破り咸陽を東取し新城と改名。参は景陵を20日守り章平らの反攻を撃退、寧秦に食邑を賜った。廢丘では章邯を包囲した。
  • 中尉として漢王に従い臨晋関を出て河内へ、脩武を下し圍津を渡って龍且・項他を定陶で破った。碭・蕭・彭城を東取するが項籍軍に大敗。中尉として雍丘を包囲攻略。外黄の王武、燕の程処、衍氏の柱天侯の反乱をそれぞれ討伐。昆陽で羽嬰を撃ち葉まで追撃。武彊を攻め滎陽に至った。漢中から従軍し項羽敗北まで合計2年を要した。

魏・趙・斉平定

  • 高祖2年、仮左丞相となり関中に駐屯。魏王豹反乱に対し韓信と共に東張で魏将孫遫軍を大破、安邑を攻め魏将王襄を捕虜、曲陽で魏王を撃ち武垣まで追い魏王豹を生け捕り、平陽を取り魏王の母妻子を得て魏地52城を平定し、平陽に食邑を賜った。
  • 韓信に従い趙相国夏説の軍を鄔東で破り夏説を斬った。韓信が井陘で成安君を撃つ間、参は趙の別将戚将軍を鄔城に包囲、逃亡した戚将軍を斬った。韓信が趙を破り相国となり斉を攻める際、右丞相として従い斉の歴下軍を破り臨菑を取った。済北郡を平定し著・漯陰・平原・鬲・盧を攻略。龍且軍を上假密で破り龍且を斬り将軍周蘭を捕虜、斉70余県を平定し斉王田広の相田光・守相許章・膠東将軍田既らを得た。韓信が斉王となり陳へ向かい漢王と共に項羽を破る中、参は斉の未服従地の平定に留まった。

斉相国から漢丞相へ

  • 項籍死後、漢王が皇帝となり韓信は楚王に移され斉は郡となった。参は漢の相印を返上、高帝の長子肥が斉王となり参が斉相国となった。高祖6年、列侯の爵を賜り符節を分かち世々絶やさぬ約束、平陽万六百三十戸を食邑とし平陽侯と号し、以前の食邑は除かれた。
  • 斉相国として陳豨の将張春軍を破った。黥布反乱時には斉相国として悼惠王に従い車騎12万を率い高祖と合流し黥布軍を大破、蘄まで南下し竹邑・相・蕭・留を平定した。
  • 参の総功:2国を下し122県、王2人・相3人・将軍6人・大莫敖と郡守・司馬・侯・御史各1人を得た。

斉における黄老の治

  • 孝惠帝元年、諸侯相国の制を廃し参は斉丞相となった。斉70城を治める中、参は長老・諸生を集め民を安んじる方策を問うたが意見はまちまちで定まらなかった。膠西の蓋公が黄老の言に長じると聞き厚礼で招き、「治道は清静を貴べば民自ずから安んず」との教えを受け、正堂を避けて蓋公を住まわせた。その治世は黄老術を用い、斉相在任9年で斉国は安定し賢相と称された。

相国就任と無為の政

  • 惠帝2年、蕭何が死去。参は「まもなく召されて相となる」と舎人に旅支度をさせ、果たして召された。斉を去るにあたり後任の相に「獄市には手を出すな」と告げ、理由を問われ「獄市は善悪併せ容れる場、乱せば悪人の行き場がなくなる」と答えた。
  • 参は元々蕭何と親しかったが将相となって以降は疎遠だった。しかし何は死に際し推挙する賢者として参のみを挙げた。参は何に代わり漢相国となるが、事業に一切変更を加えず蕭何の定めをそのまま守った。
  • 郡国の吏で無骨朴訥・重厚な長者を選んで丞相史に任じ、言葉巧みで名声を求める吏は退けた。日夜醇酒を飲み、卿大夫や賓客が政治について進言に来ても、参は酒を勧め続けて酔わせ結局言わせずに終わらせるのが常だった。
  • 相府の裏庭が吏舎に近く、吏らが酒宴で歌い騒ぐのを従吏が困り、参を庭に誘って気づかせようとしたが、参はかえって酒席を設けて共に歌い応じた。参は人の小さな過ちを覆い隠し、府中は無事だった。

恵帝との対話

  • 参の子の窋は中大夫。惠帝は相国が政務を執らないことを訝り「私を軽んじているのか」と考え、窋に密かに父へ問わせようとした。窋が父に諫言すると参は怒り笞200を与え「天下の事はお前が言うことではない」と叱った。
  • 朝議で惠帝が咎めると、参は冠を脱ぎ「陛下の武勇は高帝と比べいかが」「臣の才は蕭何と比べいかが」と問い、惠帝が「及ばぬ」と答えると、参は「高帝と蕭何が天下を定め法令は既に明らか、陛下は垂拱し我らが職を守り遵えれば良いのでは」と説き、惠帝は納得した。

参の死と子孫

  • 参は漢相国として在任3年で死去、諡は懿侯。子の窋が代わって侯となった。百姓は「蕭何が法を作り画一のごとく整え、曹参がこれを継いで守り失わず、その清静により民は安寧を得た」と歌った。
  • 窋は高后時代に御史大夫となった。孝文帝即位で免じられ侯のみとなり在位29年で死去、諡は静侯。子の奇が継ぎ7年で死去、諡は簡侯。子の時が継ぎ平陽公主を娶り子の襄を得るが病で帰国、23年で死去、諡は夷侯。子の襄が継ぎ衛長公主を娶り子の宗を得て16年で死去、諡は共侯。子の宗が継ぐが征和2年、太子の事件に連座し国除。

史論

  • 太史公曰く、曹相国参の攻城野戦の功がこれほど多かったのは淮陰侯と共に戦ったからである。韓信が滅んだ後、諸侯の中で唯一その名声を保ったのが参であった。参は漢相国として清静を旨とし道に適う言葉のみを語った。秦の苛政に疲弊した民に休息と無為を与えたため、天下は皆その美徳を称えた。