史記卷四十四 魏世家第十四

畢公高の後裔畢萬を祖とし、晋献公16年に魏の地を封じられて興った一族の世家。趙・韓と共に晋を三分し戦国の一国として自立、魏文侯・武侯の代に強盛を誇ったが、惠王の代に馬陵の戦いで太子・龐涓を失い秦に圧されて大梁へ遷都。以後は秦の東進に押され続け、安釐王の代には信陵君無忌の活躍で一時秦軍を破ったものの、王假3年(BCE225年)に大梁を水攻めにされ滅亡した。

年表(17件)
  • 文侯38年文侯が没し子の擊(武侯)が立った
  • 武侯16年武侯が没し子の罃(惠王)が立った
  • 惠王
  • 元年韓・趙に濁澤で大破され包囲されたが両国の意見不一致により分裂を免れた
  • 18年邯鄲を抜いたが、斉の田忌・孫臏に桂陵で破られた
  • 30年馬陵の戦いで太子申が虜となり将軍龐涓が殺され大敗した
  • 31年秦・趙・斉に相次いで破られ、都を安邑から大梁に遷した
  • 36年惠王が没し子の襄王が立った
  • 襄王
  • 16年襄王が没し子の哀王が立った
  • 哀王
  • 23年哀王が没し子の昭王が立った
  • 昭王
  • 3年秦将白起に伊闕で24万を破られた
  • 19年昭王が没し子の安釐王が立った
  • 安釐王
  • 20年信陵君無忌が晉鄙の兵を奪い趙を救援した(窃符救趙)
  • 30年信陵君が魏に帰り五国の兵を率いて秦を河外で破った
  • 34年安釐王が没し太子増(景湣王)が立ち、この年信陵君無忌も没した
  • 景湣王
  • 元年秦が魏の20城を抜き東郡とした
  • 15年景湣王が没し子の王假が立った
  • 王假3年秦が大梁を水攻めにし王假を虜にして魏を滅ぼした

魏氏の起源

  • 魏の祖先は畢公高の後裔で周と同姓。武王の紂王討伐に際し高は畢に封じられ畢姓を称したが、その後封を失い庶人となり中原や夷狄に散った。その末裔の畢萬は晋献公に仕えた。
  • 献公16年、趙夙が御者、畢萬が車右となって霍・耿・魏を伐って滅ぼし、耿は趙夙に、魏は畢萬に封じられて大夫となった。卜偃は「畢萬の後は必ず栄える。萬は満数を意味し魏は大名を意味する、この名で始まる恩賞は天の啓示だ」と予言した。畢萬が晋への仕官を占った際も『屯』が『比』に変ずる卦を得て、辛廖が「吉、屯(固)比(入)で必ず繁栄する」と占った。
  • 畢萬が封じられて11年、晋献公が没し四子が位を争い晋は乱れたが、畢萬の家はますます栄え、国名の魏を氏とした。その子武子は魏の一族として晋の公子重耳に仕え、献公21年から19年間重耳の亡命に従った。重耳が晋文公として帰国すると武子に魏氏の旧封を継がせ大夫に列し魏を治めさせた。その子悼子は治所を霍に移し、その子魏絳が出た。

魏絳から獻子まで

  • 魏絳は晋悼公に仕えた。悼公3年、諸侯を会した際、悼公の弟楊干が列を乱したため魏絳はその御者を辱めた。悼公は「諸侯を集めて栄誉とする場で私の弟を辱めた」と怒り絳を誅そうとしたが、周囲の説得で思いとどまった。結局悼公は魏絳の政治力を用い戎・翟との和平を実現、戎・翟は晋に親しんだ。悼公11年、「私が魏絳を用いてから8年、9度諸侯を会し戎・翟と和したのはあなたの功績」と楽を賜ったが、絳は三度辞退した後に受けた。治所を安邑に移し、絳は没して昭子と諡された。その子魏嬴、孫が魏獻子である。
  • 獻子は晋昭公に仕えた。昭公の没後、六卿が強大化し公室は衰えた。晋頃公12年、韓宣子が引退し魏獻子が国政を執った。晋の公族祁氏・羊舌氏が互いに争ったため六卿がこれを誅しその邑を十県に分け、各卿の子を大夫とした。獻子は趙簡子・中行文子・范獻子と共に晋の卿となった。
  • その14年後、孔子が魯の相となった。さらに4年後、趙簡子は晋陽の乱を機に韓・魏と共に范・中行氏を攻めた。魏獻子の子魏侈は趙鞅と共に范・中行氏を攻めた。魏侈の孫魏桓子は韓康子・趙襄子と共に知伯を滅ぼしその地を分けた。桓子の孫が文侯都である。

魏文侯

  • 魏文侯元年は秦靈公元年にあたり、韓武子・趙桓子・周威王と同時代であった。
  • 6年、少梁に築城。13年、子の撃に繁・龐を包囲させ民を出させた。16年、秦を伐ち臨晉・元里を築城。
  • 17年、中山を伐ち子の撃に守らせ趙倉唐を傅とした。子擊が朝歌で文侯の師田子方に出会い車を退けて拝謁したが、子方は礼を返さなかった。子擊が「富貴な者と貧賤な者、どちらが人に驕るものか」と問うと、子方は「貧賤な者こそ人に驕るものだ、諸侯が驕れば国を失い、大夫が驕れば家を失う。貧賤な者は行いが合わず言葉が用いられなければ楚・越へ去ればよいだけのこと、富貴な者と同列には論じられない」と答え、子擊は不満げに去った。西の秦を攻め鄭に至って引き返し、雒陰・合陽に築城した。
  • 22年、魏・趙・韓が諸侯に列した。24年、秦が魏を伐ち陽狐に至った。25年、子擊の子罃(後の惠王)が生まれた。
  • 文侯は子夏に経学を学び、段干木を客分として遇し、その家の前を通る時は必ず車上で敬礼した。秦が魏討伐を企てた際も「魏君は賢者を礼遇し、国人は仁に篤いと称え、上下和合しており攻略の隙がない」との声で断念させたほど、文侯は諸侯に名声を得ていた。
  • 西門豹を鄴の太守に任じ河内はよく治まった。
  • 文侯が李克に「先生はかつて『家貧しければ良妻を思い、国乱れれば良相を思う』と教えてくれたが、今相の候補は魏成か翟璜、どちらがよいか」と問うた。李克は「卑しい者は尊い者の人事を、疎遠な者は近親の人事を論じるべきでない」と辞退したが、文侯に重ねて求められると、「人物を知るには、平時に親しむ相手、富める時の交わり、栄達時の推挙、困窮時に何をしないか、貧しい時に何を取らないかの五点を見れば足りる」と答え、判断は文侯に委ねた。
  • 李克が退出後、翟璜の家を通ると、翟璜は誰が相になったか尋ね、魏成子と聞くと憤然として「私は西河の太守を推挙し、鄴の憂いには西門豹を、中山攻略には楽羊を、その後の統治にはあなた自身を、太子の傅には屈侯鮒を推挙した、どこが魏成子に劣るのか」と詰め寄った。李克は、自分が文侯に語った五つの基準に照らして魏成子が相になるべき理由を再確認し、「魏成子は千鍾の禄のうち9割を外部(卜子夏・田子方・段干木という文侯自身が師と仰ぐ人物の招聘)に用い1割のみを内部に用いた。あなたが推挙した5人は皆文侯の臣下にとどまる者ばかりで、比べるべくもない」と説いた。翟璜は恥じ入り「私は見識が浅かった、末席の弟子として教えを乞いたい」と拝礼した。
  • 26年、虢山が崩れ河水を塞いだ。
  • 32年、鄭を伐ち酸棗に築城、秦を注で破った。35年、斉に襄陵を奪われた。36年、秦が陰晉を侵した。
  • 38年、秦を伐ち武下で破り将の識を捕らえた。この年、文侯が没し子の擊が立った(武侯)。

武侯

  • 元年、趙敬侯が即位したばかりのとき、公子朔が乱を起こし敗れて魏に亡命、魏と共に邯鄲を襲ったが敗退した。
  • 2年、安邑・王垣に築城。7年、斉を伐ち桑丘に至る。9年、翟に澮で敗れる。呉起に斉を伐たせ靈丘に至った。斉威王が即位した。
  • 11年、韓・趙と共に晋の地を三分しその後裔を滅ぼした。13年、秦獻公が櫟陽を県とした。15年、趙を北の藺で破った。
  • 16年、楚を伐ち魯陽を取った。武侯が没し子の罃が立った(惠王)。

惠王前期

  • 元年、武侯の没後、罃と公中緩が太子の座を争った。公孫頎が宋から趙、趙から韓へと渡り歩き、韓懿侯に「魏罃と公中緩の争いを知っているか、今魏罃は王錯を得て上黨を抑え国の半ばを握っている、この機に乗じて除けば魏を破るのは確実」と説いた。懿侯はこれを喜び趙成侯と合軍して魏を伐ち、濁澤で戦って魏を大破し魏君を包囲した。
  • 趙は韓に「魏君を除き公中緩を立て、割地を得て退けば我らの利益」と持ちかけたが、韓は「魏君を殺せば暴と誹られ、割地して退けば貪と誹られる、それより魏を二分すれば宋・衛以上には強くならず、我らに魏の患いはなくなる」と反対、趙が聞き入れなかったため韓は不満のまま夜に少数の兵で撤退した。惠王が死なず国も分裂しなかったのは、韓・趙の意見が一致しなかったためであり、もし一方の策に従っていれば魏は必ず分裂していただろう。「君主に嫡子がなければその国は破れる」との言葉通りである。
  • 2年、韓を馬陵で、趙を懐で破った。3年、斉に観で敗れた。5年、韓と宅陽で会見、武堵に築城したが秦に敗れた。6年、宋の儀臺を攻め取った。9年、韓を澮で破ったが、秦との少梁の戦いで将の公孫痤を虜にされ龐を奪われた。秦獻公が没し孝公が立った。
  • 10年、趙の皮牢を攻め取った。彗星が現れた。12年、星が昼に落ち音を発した。
  • 14年、趙と鄗で会見。15年、魯・衛・宋・鄭の君が朝見に来た。16年、秦孝公と杜平で会見。宋の黃池を侵すも宋が奪い返した。
  • 17年、秦と元里で戦い秦に少梁を奪われた。趙の邯鄲を包囲。18年、邯鄲を抜いた。趙は斉に救援を求め、斉は田忌・孫臏を遣わして救援、桂陵で魏を破った。
  • 19年、諸侯が魏の襄陵を包囲した。長城を築き固陽を塞いだ。
  • 20年、邯鄲を趙に返還し漳水のほとりで盟約。21年、秦と彤で会見。趙成侯が没した。28年、斉威王が没した。中山君が魏の相となった。

惠王後期(馬陵の戦い)

  • 30年、魏が趙を伐ち、趙は斉に急を告げた。斉宣王は孫子の計を用い趙を救い魏を攻めた。魏は大軍を興し龐涓を将、太子申を上将軍とした。外黄を通過した際、外黄の徐子が太子に「百戦百勝の術がある」と語りかけ、太子が「聞きたい」と応じると、徐子は「太子自ら将となり大勝して莒を併合しても富は魏一国に留まり、地位も王を超えることはない。もし斉に負ければ魏は永遠に失われる。これが私の百戦百勝の術だ」と説いた。太子は「わかった、あなたの言葉に従い引き返そう」と応じたが、徐子は「太子が戻ろうとしても、戦を望む者が多く、もはや引き返せまい」と告げ、実際に太子の御者も「出陣して引き返すのは敗走と同じ」と諫めたため、太子は結局斉軍と馬陵で戦い敗れた。斉は太子申を虜にし将軍涓を殺し、魏軍は大敗した。
  • 31年、秦・趙・斉が共に魏を攻め、秦の将商君は魏の将公子卬を欺いてその軍を奪い撃破した。秦は商君を重用し東方の地を河水まで広げ、斉・趙もしばしば魏を破ったため、安邑が秦に近いことを憂い都を大梁に遷した。公子赫を太子とした。
  • 33年、秦孝公が没し、商君は秦を逃れ魏に帰ろうとしたが魏は怒って受け入れなかった。35年、斉宣王と平阿の南で会見。
  • 惠王はたびたび軍事で苦境に陥り、礼を低くし厚い贈物で賢者を招いた。鄒衍・淳于髡・孟軻(孟子)が皆梁(魏)に至った。梁惠王は「私は不才で、兵を三度外征で折られ太子を虜にされ上将を失い国は空虚となり先君の宗廟社稷を辱めた、先生は遠路をいとわず来られたが、何をもって我が国を利するか」と問うた。孟軻は「君はそのように利を語るべきでない。君が利を求めれば大夫も利を求め、大夫が利を求めれば庶人も利を求め、上下が利を争えば国は危うくなる。人君たる者はただ仁義を行うのみ、利など問題ではない」と答えた。
  • 36年、再び斉王と甄で会見。この年、惠王が没し子の襄王が立った。

襄王・哀王

  • 元年、諸侯と徐州で会し互いに王を称え合った。父惠王を追尊して王とした。
  • 5年、秦が龍賈の軍4万5千を雕陰で破り、焦・曲沃を包囲、魏は河西の地を秦に与えた。
  • 6年、秦と応で会見。秦が汾陰・皮氏・焦を取った。魏は楚を伐ち陘山で破った。7年、魏は上郡を全て秦に譲り、秦は蒲陽を魏に返した。8年、秦が焦・曲沃を魏に返還した。
  • 12年、楚に襄陵で敗れた。諸侯執政と秦相張儀が齧桑で会見。13年、張儀が魏の相となった。魏で女子が男子に変じたという奇異があった。秦が曲沃・平周を奪った。
  • 16年、襄王が没し子の哀王が立った。張儀は再び秦に帰った。

哀王

  • 元年、五国が共に秦を攻めたが勝てず退いた。
  • 2年、斉に観津で敗れた。5年、秦の樗里子が曲沃を攻め取り、犀首を岸門で走らせた。6年、秦が公子政(後の秦昭王)を太子として立てさせるために来訪、秦と臨晉で会見。7年、斉を攻め、秦と共に燕を伐った。
  • 8年、衛を伐ち城を2つ抜いた。衛君はこれを憂え、如耳が衛君に「魏軍を退かせ成陵君を免職させることができれば」と申し出た。如耳は成陵君に、かつて魏が趙を伐ち羊腸を断ち閼与を抜き趙を分裂寸前まで追い込みながら滅ぼさなかったのは魏が合従の盟主だったからだと説き、今衛が滅亡に瀕し秦に頼ろうとしている以上、秦でなく魏が衛を助ければ衛は永遠に魏に恩義を感じると説得。成陵君は同意し、如耳はさらに魏王に、衛は周室の分家で財宝が多いが、攻めても解放しても魏王が主導したとされなければ財宝は結局魏に入らないと説いた。魏王はこれを容れ兵を退き成陵君を免じ、二度と登用しなかった。
  • 9年、秦王と臨晉で会見。張儀・魏章が共に魏に帰った。魏の相田需が死に、楚は張儀・犀首・薛公の誰かが相になることを警戒した。楚相昭魚は蘇代に相談し、代は「太子自身が相になるよう仕向ければ、三者いずれもが太子を頼りとして自国を挙げて魏に尽くそうとし、丞相の印を得ようとするだろう」と献策、これを梁王(魏王)に説き太子は結局自ら相となった。
  • 10年、張儀が死んだ。11年、秦武王と応で会見。12年、太子が秦に朝見。秦が皮氏を攻めたが陥落前に和解。14年、秦が武王の后を魏に送り返した。16年、秦が蒲反・陽晉・封陵を抜いた。17年、秦と臨晉で会見、秦は蒲反を魏に返した。18年、秦と共に楚を伐った。21年、斉・韓と共に函谷で秦軍を破った。
  • 23年、秦は河外及び封陵を再び魏に返し和を結んだ。哀王が没し子の昭王が立った。

昭王

  • 元年、秦が襄城を抜いた。2年、秦と戦い不利。3年、韓を助けて秦を攻めたが秦将白起に伊闕で24万を破られた。6年、河東の地400里を秦に与えた。芒卯が詐術で重用された。7年、秦が魏の城61を抜いた。8年、秦昭王が西帝、斉湣王が東帝を称したが1か月余りで両者とも王号に復した。9年、秦が新垣・曲陽の城を抜いた。
  • 10年、斉が宋を滅ぼし、宋王は魏の温で死んだ。12年、秦・趙・韓・燕と共に斉を伐ち済西で破り、湣王は出奔、燕が単独で臨菑に入った。秦王と西周で会見。
  • 13年、秦が安城を抜き大梁まで軍を進めたが退いた。18年、秦が郢を抜き楚王は陳に遷った。
  • 19年、昭王が没し子の安釐王が立った。

安釐王前期

  • 元年、秦が魏の2城を抜いた。2年、さらに2城を抜き大梁下に軍を進め、韓の救援で秦に温を与えて和した。3年、秦が4城を抜き4万を斬首。4年、秦は魏・韓・趙を破り15万人を殺し将芒卯を敗走させた。魏将段干子は秦に南陽を与えて和を求めようとした。
  • 蘇代は魏王に「印璽を欲しがるのは段干子、土地を欲しがるのは秦、王が土地を欲しがる者に印璽を、印璽を欲しがる者に土地を扱わせては、魏の土地は尽きるまで求められ続けるだけになる。土地で秦に仕えるのは薪を抱いて火を消そうとするようなもの、薪が尽きるまで火は消えない」と説いたが、王は「事はすでに始まっており今更変えられない」と答えた。蘇代は博打の梟(一種の駒)を例に「有利なら食い、不利なら止めるものだ、始めたから変えられないというのは知恵が梟にも劣る」と反駁した。
  • 9年、秦が懷を抜いた。10年、秦の太子が魏に人質として来ていたが死んだ。11年、秦が郪丘を抜いた。
  • 秦昭王が左右に「今の韓・魏は昔と比べ強いか」と問うと「昔より弱い」と答えた。「如耳・魏齊と孟嘗君・芒卯ではどちらが優れているか」との問いにも「劣る」と答えると、王は「孟嘗君・芒卯ほどの賢才が強い韓・魏を率いて秦を攻めても私に何もできなかった、まして今の無能な如耳・魏齊が弱い韓・魏を率いても脅威にならない」と豪語し、左右も同意した。しかし中旗は琴を抱えたまま「王の天下情勢の見立ては誤っています。晋の六卿の時代、最強だった知氏は范・中行を滅ぼした後、韓・魏の兵を率いて趙襄子を晋陽で包囲し水攻めにしましたが、知伯が『水が人の国を滅ぼせると今初めて知った』と得意げに語った際、実は汾水が安邑を、絳水が平陽を水攻めできることに気づいた魏桓子・韓康子は互いに肘と足で合図し合い、結局知氏を裏切って滅ぼしました。今の秦は知氏ほど強くなく、韓・魏も晋陽の時ほど弱くありません、油断は禁物です」と諫め、秦王は恐れた。

信陵君と唐雎

  • 斉・楚が同盟し魏を攻めた際、魏は秦に救援を求めたが使者を送り続けても秦は動かなかった。90歳を超える魏人唐雎が魏王に「私が秦王を説いて兵を先に出させましょう」と申し出、魏王は再拝して車を用意し送り出した。唐雎は秦王に謁見し、秦王が「魏の求援は度々あり、その急を承知している」と述べると、唐雎は「大王が魏の急を知りながら救援を出さないのは、秦の策臣が任に堪えていないからだ。魏は万乗の大国でありながら西面して秦に事え東の藩屏として礼を尽くしてきたのは、秦の強大さを頼みとしてのこと。今、斉・楚の兵がすでに魏の郊外に迫っているのに秦の救援が来ないのは、まだ危急でないと侮っているのだろう。本当に危急になれば魏は領土を割いて他国と結ぶだろう、その時に救っても何の益があるか。危急を待って救うのは、東の藩屏たる魏を失い斉・楚という二つの敵を強めるだけで、王に何の利があるか」と説いた。秦昭王は急ぎ兵を発して魏を救い、魏は再び安定した。
  • 趙は魏王に「范痤を殺してくれれば70里の地を献じる」と持ちかけ、魏王は同意し役人に捕らえさせたが殺すには至らなかった。痤は屋根の危険な場所に登り「私を死んだものとして取引するより、生かしたまま取引するほうがよい。もし私が死んで趙が土地を与えなければどうするのか、先に割地を確定させてから殺すべきだ」と使者に説いた。魏王はこれに同意した。痤はさらに信陵君に「私はかつて魏の相を免ぜられた身だが、趙が土地の代償として私を殺すことを魏王が容れれば、いずれ強秦も同じ手口で趙を狙うだろう、あなたはどうするか」と上書し、信陵君が王に取りなして痤を救い出した。

魏公子無忌(信陵君)の諫言

  • 魏王は秦の援助を受けたことから秦に親しみ韓を伐って旧地回復を図ろうとした。公子無忌(信陵君)は魏王に諫言した。
  • 秦は戎翟と同じ習俗を持ち、虎狼のような心で貪欲・利己的で信義を知らず、利があれば親戚兄弟すら顧みない禽獣のような国であり、これは天下周知の事実で恩義を積んできた国ではない。秦の太后は実母でありながら憂いのうちに死に、穰侯は舅で大功があったのに追放され、二人の弟も無実のまま国を奪われた。親戚にすらこの有様であるから、まして仇敵の国に対してはなおさらである。今、王が秦と共に韓を伐てば秦の脅威をより近くに招くだけであり、それに気づかず群臣も諫めないのは不明・不忠である。
  • 韓は女主人と幼主のもとで内乱を抱えつつ外に強秦・魏の兵を受けており、滅亡は必至。韓が滅べば秦は鄭の地を得て大梁・鄴に迫る、それを安全と言えるか。旧地回復を望みながら強秦との結びつきを深めるのは果たして利益と言えるか。
  • 秦は無事を望まない国であり、韓の滅亡後は必ず次の行動に出る。それは容易で有利な相手を選ぶはずで、楚・趙を攻めることはない。趙を攻めるには険阻な地を越えねばならず知伯の失敗を繰り返すことになり、楚を攻めるには遠すぎ地形も険しい。したがって秦が次に狙うのは魏をおいて他にない。秦は既に懐・茅・邢丘を有し垝津に城を築いて河内に迫っており、韓の地を得れば垣雍を得て熒澤の水を決壊させ大梁を水没させることができる。さらに魏の使者が安陵氏を秦に讒言したことで、秦は葉陽・昆陽・舞陽の勢力を用いて安陵氏を滅ぼし、東は許に迫り南方諸国も危機に陥るだろう。
  • 過去、秦はまだ河西の晋の地にあり梁(魏都)から千里離れ河山や周・韓に阻まれていたにもかかわらず、林郷の戦い以来7度魏を攻め、5度囿中に侵入し辺境の城は尽く抜かれ、文臺は壊され垂都は焼かれ林木は伐られ麋鹿は尽き、国都まで包囲された。さらに梁の北へ長駆し東は陶・衛の郊外、北は平監に至った。魏が秦に失った土地は山南山北・河外河内にわたる数十の大県、数百の名都に及ぶ。それでもなお秦は千里離れた河西にあった、今もし韓が滅び秦が鄭の地を得て河山の阻みも周・韓の緩衝もなく大梁まで百里という近さになれば、禍はさらに深刻となる。
  • 以前は合従が成らず楚・魏が互いに疑い韓も頼れなかったが、今、韓は3年もの攻撃に耐え秦の講和の誘いにも屈せず、趙に人質を送り天下のために先陣を切る覚悟を示している。楚・趙も必ず兵を集めるだろう。秦の欲望は天下の国々を滅ぼし尽くし海内に臣従させるまで止まらない。それゆえ王には合従の道を進み、楚・趙との盟約を速やかに受け入れ、韓の人質を保持して韓を存続させ、その見返りに旧地を求めるべきだと進言する。これは民を労せず旧地を得られる道であり、秦と共に韓を伐って強秦と隣り合う禍を招くよりはるかに功が大きい。
  • 韓を存続させ魏を安んじることは天下の利益であり、まさに王にとっての好機である。韓の上黨を共・甯に通じさせ道を安定させ出入りの賦税を魏が得るようにすれば、魏は事実上韓の上黨を担保に取ることになり、その税収だけで国を富ませるに足る。韓は魏に徳を感じ愛し重んじ畏れ、決して魏に背かなくなる、いわば韓は魏の属県のようになる。魏が韓を属県として得れば、衛・大梁・河外は安泰となる。逆に韓を存続させなければ、二周・安陵は必ず危うくなり、楚・趙は大破され、衛・斉は畏怖し、天下は挙って秦に朝貢する日も遠くないだろう。
  • 20年、秦が邯鄲を包囲した際、信陵君無忌は将軍晉鄙の兵を偽って奪い趙を救援し、趙は全うされた。無忌はそのまま趙に留まった。26年、秦昭王が没した。
  • 30年、無忌が魏に帰り、五国の兵を率いて秦を攻め河外で破り蒙驁を敗走させた。魏の太子増が秦に人質として送られていたが、秦は怒りこれを幽閉しようとした。ある者が増のために秦王に「公孫喜はかつて魏の相に『魏の兵で急ぎ秦を撃てば秦王は怒って増を幽閉するだろう、魏王もまた怒って秦を撃つので秦は必ず傷つく』と説いていた、今王が増を幽閉すれば公孫喜の策にはまることになる、増を貴んで魏と結び、斉・韓との関係に疑いを生じさせる方が良策」と説き、秦は増の幽閉を取りやめた。
  • 31年、秦王政が即位した。34年、安釐王が没し太子増が立った(景湣王)。信陵君無忌もこの年没した。

景湣王・王假と魏の滅亡

  • 元年、秦が魏の20城を抜き秦の東郡とした。2年、秦が朝歌を抜き、衛は野王に遷った。3年、秦が汲を抜いた。5年、秦が垣・蒲陽・衍を抜いた。15年、景湣王が没し子の王假が立った。
  • 王假元年、燕の太子丹が荊軻に秦王暗殺を企てさせたが秦王に気づかれ失敗した。
  • 3年、秦は大梁に水を引き入れて水攻めにし、王假を虜にして魏を滅ぼし郡県とした。

史論

  • 太史公は言う。私はかつて旧都大梁の廃墟を訪ねた。その跡地に住む人が語るには「秦が梁を破った際、河の水路を引いて大梁に注ぎ込み、3か月で城は壊れ、王は降伏を請い魏は滅んだ」という。世間ではしばしば魏が信陵君を用いなかったために国力が衰え滅亡に至ったと言うが、私はそうは思わない。天がまさに秦に天下平定を命じ、その事業がまだ成っていなかった時期であれば、たとえ魏が伊尹のような賢佐を得ていたとしても、何ほどの益があっただろうか。