史記卷四十五 韓世家第十五
周と同姓の姫姓を出自とし、晋に仕えて韓原に封じられた一族の世家。韓厥は趙氏孤児趙武の祀りを継がせる陰徳を成し、鞍の戦いの功で晋の六卿に列した。子孫は趙・魏と共に知伯を滅ぼして晋を三分し、戦国の一国として自立。申不害の法術による治世で一時は諸侯の侵略を防いだが、以後は秦の東進に押され続け、桓惠王の代に長平の戦いの発端となる上黨の帰属問題を招き、王安9年(BCE230年)に秦に滅ぼされた戦国七雄中最初の国となった。
年表(18件)
- 晋景公11年韓厥が鞍の戦いで斉を破った功により晋の六卿の一つに列した
- 晋悼公7年獻子(韓厥)が引退し子の宣子が継いだ
- 武子2年鄭を伐ちその君幽公を殺した
- 景侯6年趙・魏と共に諸侯に列した
- 哀侯2年鄭を滅ぼしその地に都を遷した
- 哀侯6年韓嚴に弑逆され子の懿侯が立った
- 昭侯8年申不害が相となり法術を修めてよく治め諸侯の侵略を受けなくなった
- 昭侯26年高門の完成と同時に昭侯が没した
- 宣惠王
- 11年君号を王とした
- 19年秦に岸門で大破され太子倉を人質に出して和した
- 21年秦と共に楚を破ったが、この年宣惠王が没し太子倉(襄王)が立った
- 襄王
- 16年秦が河外・武遂を返還したが、この年襄王が没し太子咎(釐王)が立った
- 釐王
- 3年秦将白起に伊闕で24万を破られた
- 23年秦の救援で趙・魏を華陽で破ったが、この年釐王が没し桓惠王が立った
- 桓惠王
- 14年上黨を秦に抜かれ、秦が趙括の軍40万余を長平で殺した
- 34年桓惠王が没し子の王安が立った
- 王安5年秦の攻撃に急を告げ韓非を秦に使わしたが、秦は韓非を留め置き殺した
- 王安9年秦に虜にされ韓は滅んだ
韓氏の起源
- 韓の先祖は周と同姓で姫姓。その苗裔が晋に仕え韓原に封じられ韓武子と称した。武子から3代後の韓厥が、封地の名から韓氏を称した。
韓厥
- 韓厥は晋景公3年、晋の司寇屠岸賈が乱を起こし靈公の賊として趙盾(既に死去)の子趙朔を誅そうとした際、賈を諫めたが聞き入れられず、趙朔に亡命を勧めた。朔は「趙の祭祀さえ絶やさなければ死んでも恨まない」と述べ、厥はこれを承諾し、賈が趙氏を誅した際は病と称して関わらなかった。程嬰・公孫杵臼が趙氏の孤児趙武を匿った経緯を厥は知っていた。
- 景公11年、厥は郤克と共に兵車800乗を率いて斉を伐ち、鞍で斉頃公を破り逢丑父を捕らえた。この功により晋に六卿が置かれ、韓厥は一卿の位を得て獻子と号した。
- 晋景公17年、景公が病に伏し、占いで「大業の後裔で祀りが絶えている者の祟り」と出た。厥は趙成季(趙衰)の功を挙げ、その後裔の祀りが絶えていることが景公の心を動かし、景公が「まだ子孫はいるか」と問うと厥は趙武の存在を告げ、旧領を返して趙氏の祀りを継がせた。
- 晋悼公7年、獻子(韓厥)は引退した。その後を子の宣子が継ぎ、宣子は治所を州に移した。
宣子から康子まで
- 晋平公14年、呉の季札が晋を訪れ「晋国の政はついに韓・魏・趙に帰するだろう」と評した。晋頃公12年、韓宣子は趙・魏と共に祁氏・羊舌氏の十県を分け取った。晋定公15年、宣子は趙簡子と共に范・中行氏を攻めた。宣子が没し子の貞子が継ぎ、治所を平陽に移した。
- 貞子が没し子の簡子が継ぎ、簡子が没し子の莊子が継ぎ、莊子が没し子の康子が継いだ。康子は趙襄子・魏桓子と共に知伯を破りその地を分け、韓の領土は諸侯を上回るまでに拡大した。
武子から景侯まで
- 康子が没し子の武子が継いだ。武子2年、鄭を伐ちその君幽公を殺した。16年、武子が没し子の景侯が立った。
- 景侯虔元年、鄭を伐ち雍丘を取った。2年、鄭に負黍で敗れた。6年、趙・魏と共に諸侯に列した。9年、鄭に陽翟を包囲された。景侯が没し子の列侯取が立った。
列侯から哀侯まで
- 列侯3年、聶政が韓の相俠累を暗殺した。9年、秦が宜陽を攻め6邑を奪った。13年、列侯が没し子の文侯が立った。この年、魏文侯も没した。
- 文侯2年、鄭を伐ち陽城を取った。宋を伐ち彭城に至り宋君を捕らえた。7年、斉を伐ち桑丘に至った。鄭が晋に反した。9年、斉を伐ち靈丘に至った。10年、文侯が没し子の哀侯が立った。
- 哀侯元年、趙・魏と共に晋国を分割した。2年、鄭を滅ぼしその地に都を遷した。6年、韓嚴が君の哀侯を弑し、子の懿侯が立った。
懿侯から昭侯まで
- 懿侯2年、魏に馬陵で敗れた。5年、魏惠王と宅陽で会見。9年、魏に澮で敗れた。12年、懿侯が没し子の昭侯が立った。
- 昭侯元年、秦に西山で敗れた。2年、宋に黃池を、魏に朱を取られた。6年、東周を伐ち陵觀・邢丘を取った。
- 8年、申不害が韓の相となり、術(法術)を修め道を行い、国内はよく治まり諸侯の侵略を受けなくなった。
- 10年、韓姬が君の悼公を弑した。11年、昭侯が秦を訪れた。22年、申不害が没した。24年、秦が宜陽を攻め抜いた。
- 25年、旱魃の中で高門を築いた。屈宜臼は「昭侯はこの門を出ることはないだろう」と予言し、その理由を「私の言う『時』とは日取りのことではなく、人にはそれぞれ利・不利の時機があるということだ。昭侯はかつて有利な時期を得ながら高門を築かなかった、去年秦に宜陽を抜かれ今年は旱魃という時に民の急を顧みずかえって奢侈に走るのは『時が困窮しているのに贏(贅沢)を挙げる』というものだ」と述べた。26年、高門が完成すると同時に昭侯は没し、果たしてこの門を出ることはなかった。子の宣惠王が立った。
宣惠王
- 5年、張儀が秦の相となった。8年、魏に将の韓舉を破られた。11年、君号を王とした。趙と区鼠で会見。14年、秦に鄢で破られた。
- 16年、秦に脩魚で敗れ、将の䱸・申差を濁澤で虜にされた。韓は急を告げ、公仲は韓王に「同盟国は頼りにならない、秦は久しく楚を伐とうとしているのだから、張儀を通じて秦と和し、名都一つと甲兵を賂として共に楚を伐てば、一を失って二を得る計となる」と進言、王はこれを容れ公仲を秦に遣わそうとした。
- これを聞いた楚王は恐れ、陳軫に相談した。陳軫は「秦は久しく楚を伐とうとしており、今また韓の名都と甲兵を得て共に楚を攻めれば、これは秦が最も望んできたこと。楚が救援を約束すれば、たとえ韓が実際に従わなくとも韓は楚に恩義を感じ秦韓の連携は崩れる。もし韓が本当に秦との盟約を絶てば秦は激怒し韓を恨む、韓は南の楚に親しみ秦を軽んじるようになり、これによって秦韓の兵を利用しつつ楚の禍を免れられる」と献策。楚王はこれに従い国境を固め、韓救援を号令し戦車を道に連ね、使者を厚遇して信を示した。韓王はこれを喜び公仲の秦行きを取りやめた。
- 公仲は「秦は実際に我らを攻める国、楚は虚名で救う国です。楚の虚名を頼みに強秦との断交を軽々しく行えば天下の笑いものになります。楚韓は兄弟国でも同盟国でもなく、既に秦韓開戦の形勢がある中で急に救援を約したのは陳軫の策謀に違いありません。すでに秦に使者を送った以上、今更行かないのは秦を欺くことになり、強秦を軽んじ楚の謀臣を信じれば必ず後悔します」と諫めたが、韓王は聞かず秦との関係を絶った。秦は大いに怒り増兵して韓を攻め大戦となったが、楚の救援は来なかった。
- 19年、秦に岸門で大破された。太子倉を人質に出して和した。
- 21年、秦と共に楚を攻め、楚将屈丐を破り丹陽で8万を斬首。この年、宣惠王が没し太子倉が立った(襄王)。
襄王
- 4年、秦武王と臨晉で会見。その秋、秦は甘茂に宜陽を攻めさせた。5年、秦が宜陽を抜き6万を斬首。秦武王が没した。6年、秦は武遂を韓に返した。9年、秦が再び武遂を奪った。10年、太子嬰が秦に朝見して帰った。11年、秦に穰を奪われた。秦と共に楚を伐ち将の唐眛を破った。
- 12年、太子嬰が死んだ。公子咎と公子蟣蝨が太子の座を争った。当時蟣蝨は楚に人質としていた。蘇代は韓咎に「蟣蝨は楚にあり楚王は彼を韓に入れたがっている、今楚兵10万余が方城の外にいる、あなたが楚王に雍氏のそばに万室の都を築かせれば韓は必ず兵を挙げて救援し、あなたが将となるだろう、その兵で蟣蝨を擁して国に入れれば楚は必ずあなたの言うことを聞き、楚韓の地をあなたに封じるだろう」と献策、韓咎はこの策に従った。
- 楚が雍氏を包囲し、韓は秦に救援を求めたが秦はすぐには動かず公孫昧を韓に遣わした。公仲が「秦は本当に韓を救う気があるか」と問うと、公孫昧は「秦王は『南鄭・藍田を通って楚へ出兵しあなたを待つ』と言っているが、実現しないだろう」と答え、秦王が張儀の旧策(楚が魏を攻めた際、秦が魏を助ければ魏は楚に傾き秦は孤立する、それより出兵して両者を戦わせ疲弊させてから西河の外を得るという策)を踏襲するはずで、表向き韓を助けると言いながら実際には楚に密かに利する魂胆だと分析した。
- 公孫昧はさらに、韓が秦を頼って楚と軽々しく開戦すれば、勝てば秦が漁夫の利を得て三川を奪い、負ければ楚に三川を塞がれ秦の救援も受けられない苦境に陥ると警告し、司馬庚が何度も郢(楚都)を往復し甘茂が昭魚と商於で会談していることから、秦楚の間に密約があるとみられると告げた。公仲は恐れ「どうすればよいか」と問うと、公孫昧は「韓を先に、秦を後に。自らの立場を先に、張儀を後に考えるべきだ。国を挙げて斉・楚と結ぶのが良策で、それにより齊・楚は必ず国を挙げてあなたを頼るだろう。あなたが憎むのは張儀だが、実は秦そのものへの依存も同じく無用」と説いた。これにより楚は雍氏の包囲を解いた。
- 蘇代はまた秦の太后の弟羋戎に、韓の公叔伯嬰が秦楚が蟣蝨を韓に入れることを恐れていることを利用し、韓のために楚から人質を得ればそれが叶わぬ場合と叶う場合の両方で秦の利になる複雑な策を説いた。結局蟣蝨は韓に帰れず、韓は咎を太子に立てた。斉・魏の王が来訪した。
- 14年、斉・魏の王と共に秦を攻め函谷関に軍を進めた。16年、秦は河外及び武遂を韓に返した。襄王が没し太子咎が立った(釐王)。
釐王
- 3年、公孫喜に周・魏の兵を率いさせ秦を攻めさせたが、秦に24万を破られ喜は伊闕で虜となった。5年、秦が宛を抜いた。6年、秦に武遂の地200里を与えた。10年、秦に夏山で師を破られた。12年、秦昭王と西周で会見し秦の斉攻めを助けた。斉は敗れ湣王は出奔した。14年、秦と両周の間で会見。21年、暴䳒に魏救援をさせたが秦に敗れ䳒は開封に逃れた。
- 23年、趙・魏が韓の華陽を攻めた。韓は秦に急を告げたが秦は救援しなかった。韓の相国は陳筮に「事は急を要する、病であっても一晩の行程を頼む」と依頼、陳筮は穰侯に会った。穰侯が「事は急か」と問うと陳筮は「まだ急ではない」と答えたため穰侯は「それであなたを主君の使者として寄越したのか、旗鼓相望むほどの急を告げておきながら急でないとはどういうことか」と怒った。陳筮は「韓が本当に急なら他国と結ぶ道を選ぶだろう、まだ急でないからこそ再び使いを送ってきたのだ」と切り返し、穰侯は「王に会う必要はない、すぐに兵を発して韓を救おう」と応じ、8日で到着し趙・魏を華陽の下で破った。この年、釐王が没し子の桓惠王が立った。
桓惠王から王安まで(韓の滅亡)
- 元年、燕を伐った。9年、秦が陘を抜き汾のほとりに築城。10年、秦が太行で攻め、韓の上黨郡守は上黨郡を挙げて趙に降った。14年、秦は趙の上黨を抜き、馬服子(趙括)の軍40万余を長平で殺した。17年、秦が陽城・負黍を抜いた。22年、秦昭王が没した。24年、秦が城皋・滎陽を抜いた。26年、秦が上黨を全て抜いた。29年、秦が13城を抜いた。
- 34年、桓惠王が没し子の王安が立った。
- 王安5年、秦が韓を攻め、韓は急を告げ韓非を秦に使わしたが、秦は韓非を留め置き殺した。
- 9年、秦は王安を虜にしその地を全て併呑して潁川郡とした。韓はこうして滅んだ。
史論
- 太史公は言う。韓厥が晋景公の心を動かし趙氏の孤児趙武の祀りを継がせ、程嬰・公孫杵臼の義を成就させたことは、天下における陰徳と呼ぶべきものである。韓氏の功績は、晋国においてはさほど大きく見えなかったかもしれない。しかし趙・魏と共に諸侯として十余世にわたり続いたのは、まことにふさわしいことであった。