史記卷四十二 鄭世家第十二
周宣王の異母弟鄭桓公友を祖とする鄭国の世家。桓公が雒水東の地に建国し、莊公の代に周王室を破って威を張ったが、以後は昭公・厲公・子亹・鄭子の間で弑逆や亡命が相次いだ。文公・繆公を経て晋・楚・秦の間で外交に翻弄され、簡公の代に子産が政を執って国を安定させた。後にBCE375年、韓哀侯に滅ぼされた。
年表(22件)
- 宣王
- 22年(BCE806年)鄭桓公友が鄭に封じられ建国した
- 莊公元年弟の段を京に封じ太叔と号した
- 莊公22年段の鄭襲撃を撃退して出奔させた
- 莊公37年周桓王の親征を大破した
- 莊公43年(BCE701年)莊公が没し太子忽(昭公)が立った
- 厲公4年祭仲暗殺の謀が露見し辺境の櫟へ出奔した
- 昭公2年高渠彌に射殺され、弟の子亹が立った
- 子亹元年斉の会に赴き非礼を怒った斉襄公に殺された
- 鄭子14年旧厲公突が甫假を介して復位した
- 厲公後元7年虢叔と共に王子穨を殺し周惠王を復位させた
- 文公37年亡命中の晋公子重耳を礼遇しなかった
- 文公43年晋・秦の包囲を受け、詹の死と引き換えに子蘭を太子に立てた
- 文公45年文公が没し子蘭(繆公)が立った
- 繆公元年弦高の機転で秦の奇襲を退け、晋が崤で秦軍を破った
- 靈公元年黿の羹を巡る諍いから子家・子公に弑された
- 襄公8年楚莊王に降り肉袒して迎え、社稷存続を許された
- 成公10年鄢陵の戦いで晋が楚を破った
- 釐公5年相国子駟に毒殺され、5歳の嘉(簡公)が立った
- 簡公12年子産が卿となった
- 聲公5年相子産が没した
- 幽公元年韓武子に攻められ殺された
- 鄭君乙21年韓哀侯に滅ぼされ鄭は絶えた
桓公の建国
- 鄭桓公友は周の厲王の末子で宣王の異母弟。宣王22年(BCE806年)に鄭に封じられ、33年間治めて民に慕われた。
- 幽王の司徒となり周の民をよくまとめたが、幽王が襃姒を寵愛して王室が乱れ、諸侯の離反が続いた。
- 桓公は太史伯に身の振り方を問うた。太史伯は、雒水の東・河水と済水の南の地は虢・鄶の君が貪欲で民心を失っているため奪いやすいと説き、南の江上(楚の地)は祝融の後裔である楚がいずれ興るので不利、西方も民が貪欲で久しく住めないと退けた。さらに周が衰えれば興る国として斉(姜姓、伯夷の後)・秦(嬴姓、伯翳の後)・晋(成王の弟叔虞の後)・楚を挙げた。
- 桓公は太史伯の勧めに従い、民を雒水東に移した。虢・鄶は結局10邑を献上し、鄭はその地に国を構えた。
- 2年後(幽王が犬戎に殺された年)、桓公も犬戎に殺された。鄭人は子の掘突を立て、これが武公である。
武公・莊公の代
- 武公10年、申侯の女を娶り武姜とした。太子寤生(難産で生まれ、夫人に疎まれた)と、夫人に愛された末子の叔段が生まれた。
- 武公27年、病に際し夫人は段を太子に立てるよう求めたが武公は聞かず、この年に武公が没し、寤生が立って莊公となった。
- 莊公元年、弟の段を京に封じ太叔と号した。祭仲は京の規模が国都を上回ることを諫めたが、莊公は母武姜の意向を理由に許した。段は京で武備を整え、母武姜と共に鄭を襲う謀を進めた。
- 莊公22年、段は実際に鄭を襲ったが、莊公が兵を発して撃退。段は京、鄢、共と敗走を重ねて出奔した。莊公は母武姜を城潁に遷し「黄泉に至るまで会わない」と誓ったが、後に後悔した。潁谷の考叔の助言で地下道を掘って母と再会した。
- 莊公24年、宋の繆公が没し公子馮が鄭に亡命。鄭が周の禾を奪ったことなどから、莊公25年に衛の州吁が宋と結んで鄭を攻めた。
- 莊公27年、周桓王に初めて朝見したが、禾を奪ったことを桓王に無礼に扱われた。29年、莊公は魯と祊・許田を交換した。33年、宋が孔父を殺害。
- 莊公37年、莊公が周に朝見しなかったため、桓王は陳・蔡・虢・衛の兵を率いて鄭を討った。莊公は祭仲・高渠彌と自ら迎撃し王師を大破、祝聸が桓王の腕を射た。祝聸は追撃を望んだが莊公は「天子を陵ぐことは許されない」と止め、夜に祭仲を遣わして王の病を見舞わせた。
- 莊公38年、北戎が斉を攻め、鄭は太子忽に兵を率いさせ斉を救った。斉釐公は忽に娘を娶らせようとしたが忽は小国を理由に辞退。祭仲は太子の地位を固めるため婚姻を勧めたが忽は従わなかった。莊公には三人の公子(太子忽・弟突・次弟子亹)がいた。
昭公・厲公の争い
- 莊公43年(BCE701年)、莊公が没した。祭仲は鄧氏出身の太子忽を立て、これが昭公である。
- しかし莊公はまた宋の雍氏の娘を娶り、厲公突を生んでいた。雍氏は宋で寵愛されており、宋莊公は祭仲を誘い出して捕らえ、突を立てなければ殺すと脅した。祭仲は宋と盟約して突を鄭に入れ、これが厲公となった。昭公忽は衛へ出奔した。
- 厲公4年、祭仲が国政を専断するのを憂えた厲公は、娘婿の雍糾に祭仲暗殺を謀らせた。糾の妻(祭仲の娘)は父と夫のどちらが親しいかを母に問い、「父は一人だが夫は誰でもなれる」との答えを得て父に密告。祭仲は逆に雍糾を殺し市に晒した。厲公はなすすべなく辺境の櫟に出て住んだ。
- 祭仲は昭公忽を再び迎え、復位させた。
- 秋、厲公突は櫟の人を使って大夫の単伯を殺しそのまま櫟に居座った。諸侯が厲公の出奔を聞いて鄭を討ったが克てず退いた。宋は厲公に兵を与え援助し、鄭も櫟を攻めなかった。
- 昭公2年、かつて太子時代から高渠彌の登用に反対していた昭公は、即位後に渠彌に殺されることを恐れた。渠彌は昭公と共に狩に出て野で昭公を射殺した。祭仲と渠彌は厲公を入れることをためらい、昭公の弟子亹を立てた(子亹、諡号なし)。
子亹の死と鄭子の擁立
- 子亹元年7月、斉襄公が諸侯を首止に会したとき、子亹は高渠彌を伴って赴いたが、祭仲は病と称して行かなかった。子亹はかつて公子時代に斉襄公と争い遺恨があったため危惧されたが、子亹は「行かなければ諸侯を率いて我を伐ち厲公を入れる口実を与える」と考え赴いた。斉侯は子亹の非礼に怒り、伏兵を出して子亹を殺した。
- 高渠彌は逃げ帰り、祭仲と謀って陳にいた子亹の弟公子嬰を迎えて立てた(鄭子)。この年、斉襄公は彭生に命じて魯桓公を酔わせ殺させた。
- 鄭子8年、斉で管至父らが乱を起こし襄公を弑した。鄭子12年、宋の長萬が湣公を弑した。この年、祭仲が死んだ。
- 鄭子14年、櫟にいた旧厲公突は鄭大夫の甫假を誘って自分を鄭に入れるよう求めた。甫假は「私を放してくれれば鄭子を殺して君を入れる」と約し、厲公はこれを承諾。甫假は鄭子とその二子を殺して厲公突を迎え、突は再び即位した。
- かつて鄭の南門で内蛇と外蛇が戦い内蛇が死ぬという前兆があり、6年後に厲公は実際に復位した。厲公は復位後、伯父の原を「私が亡命中、伯父は入国を助けようとしなかった」と責めたが、原は「二心なく君に仕えるのが臣の道、私に罪がある」と述べて自殺した。厲公は甫假についても「二心ある臣」として誅殺した。甫假は「重い恩を返さない報いか」と嘆いた。
厲公の後半生と文公
- 厲公突の後元年、斉桓公が覇を称え始めた。
- 5年、燕・衛が周惠王の弟穨と共に王を攻め、惠王は温に出奔、穨が王を称した。6年、惠王が鄭に急を告げ、厲公は兵を発して穨を攻めたが勝てず、惠王を伴い帰った。惠王は櫟に居した。7年春、厲公は虢叔と共に穨を殺し、惠王を周に入れた。
- 秋、厲公が没し、子の文公踕が立った。厲公は在位4年で亡命し、櫟に17年、復位後7年、合計28年間の治世であった。
- 文公17年、斉桓公が蔡を破り楚を伐ち召陵に至った。
- 文公24年、文公の賤妾燕姞が夢で天から蘭を授かる夢を見た(自らを伯鯈と名乗る祖先の霊が「これをお前の子とせよ」と告げた)。文公はこの夢の話を聞いて燕姞を寵愛し、蘭の草を与えて信物とした。生まれた子は蘭と名づけられた。
- 文公36年、晋の公子重耳が亡命中に鄭を通過したが、文公は礼遇しなかった。弟の叔詹は「重耳は賢く同姓でもあり、困窮して立ち寄った以上礼を尽くすべき」と諫めたが、文公は諸侯の亡命公子は多く皆に礼を尽くせないと聞かなかった。詹はさらに、礼を尽くさないなら殺すべきで、生かして帰国させれば鄭の憂いになると進言したが、文公は聞き入れなかった。
- 文公37年春、重耳は晋に帰り即位した(晋文公)。秋、鄭が滑を攻めて服属させたが滑は後に衛に寝返り、鄭は再び滑を攻めた。周襄王は伯犕を遣わして滑の赦免を求めたが、文公は惠王の恩義を受けながら厲公に爵禄を与えなかったこと、また襄王が衛・滑を助けたことを恨み、要求を聞かずに伯犕を捕らえた。怒った襄王は翟人と共に鄭を攻めたが勝てず、冬には逆に翟が襄王を攻め、襄王は鄭に出奔、文公は氾の地に王を住まわせた。38年、晋文公が襄王を周の成周に送り届けた。
- 文公41年、鄭は楚に味方して晋を攻めた。晋文公への無礼を理由に晋に背き楚についていた。43年、晋文公と秦穆公が共に鄭を包囲し、楚に味方したことと文公のかつての無礼を問責した。文公には三人の夫人があり、寵愛する五人の子がいたが皆罪を得て早世していた。文公は怒って群公子を追放し、子蘭は晋に亡命して晋文公に仕え寵愛を受け、晋の力で鄭の太子となることを求めた。
- 晋は叔詹の身柄を要求し、詹はこれを聞いて自ら鄭の存続のため死を選んだ。鄭は詹の遺体を晋に渡したが、晋文公はなお鄭君に会って辱めたいと要求。鄭は秦に「鄭を破れば晋が益するだけで秦の利にならない」と説き、秦兵を退かせた。
- 晋文公は子蘭を太子に立てることを条件に交渉、鄭大夫石癸も「姞姓は后稷の元妃の後裔で興隆の兆しがあり、子蘭の母もその後裔、他の庶子は蘭に及ばない」と支持したため、鄭は晋と盟約して子蘭を太子に立て、晋兵は撤退した。
- 文公45年、文公が没し、子蘭が立って繆公となった。
繆公から靈公へ
- 繆公元年春、秦繆公は三将に兵を与えて鄭を奇襲させたが、滑で鄭の商人弦高が牛12頭を軍への慰労と偽って献じたため秦兵は鄭に至らず引き返し、晋がこれを崤で撃破した。前年、鄭の司城繒賀が鄭の内情を秦に漏らしていたため秦は出兵していた。
- 繆公3年、鄭は晋に従い秦を伐ち、汪で秦兵を破った。
- 前年、楚の太子商臣が父成王を弑して即位していた。繆公21年、宋の華元と共に鄭を伐った際、華元は羊を殺して兵に振る舞ったが御者の羊斟には与えず、怒った羊斟が車を鄭軍に駆け入れたため華元は鄭に捕らえられた。宋が贖い、華元も後に逃げた。晋は趙穿に兵を与え鄭を伐たせた。
- 繆公22年、繆公が没し、子の夷が立って靈公となった。
- 靈公元年春、楚が黿(すっぽん)を靈公に献じた。子家・子公が朝見しようとした際、子公の人差し指が動き「今日は珍味を食べる兆し」と語ったところ、実際に靈公が黿の羹を振る舞い、子公は笑って的中を告げた。靈公はその理由を聞くと、子公にだけ羹を与えず、怒った子公は指を羹に浸して味わってから退出した。靈公は怒って子公を殺そうとし、子公は子家と謀って先手を打ち、夏に靈公を弑した。
- 鄭人は靈公の弟去疾を立てようとしたが、去疾は自分は不肖であり、順序からいえば庶兄の公子堅が長であるとして辞退。堅が立って襄公となった。
襄公・悼公・成公
- 襄公は即位すると、靈公と子公を殺した繆氏の一族を根絶やしにしようとしたが、去疾が「繆氏を除くなら私も除け」と諫めたため取りやめ、皆を大夫とした。
- 襄公元年、楚は鄭が宋の賄賂を受けて華元を釈放したことを怒り鄭を攻めた。鄭は楚に背き晋と親しんだ。5年、楚が再び鄭を攻め、晋が救援した。6年、子家が没し、国人は靈公弑逆の罪で子家の一族を追放した。
- 襄公7年、鄭は晋と鄢陵で盟約。8年、楚莊王は鄭が晋と盟約したことを怒り、鄭を包囲すること3か月、鄭は城を明け渡して降った。楚王が皇門から入城すると、襄公は肉袒(上半身を露わにする服従の礼)して羊を牽き出迎え、「辺境の身で王の怒りを招いたのは我が罪、遷都させるも諸侯に分け与えるも御命令に従うが、もし厲・宣・桓・武の代からの縁を思い社稷を絶やさぬ恩恵をいただければ幸い」と述べた。莊王は感じ入り30里退いて軍を留めた。楚の群臣は郢から遠征し疲弊した兵を休めるため国を得たまま引くよう勧めたが、莊王は「討伐は不服従を正すためで、既に服したなら求めるものはない」と兵を引いた。
- 晋は楚が鄭を伐ったと聞き救援に向かったが、去就を迷い到着が遅れ、河に至った時には楚兵は既に去っていた。晋の将は渡河をめぐり意見が割れたが結局渡河、莊王はこれを聞いて引き返し、鄭も楚に味方して河上で晋軍を大破した。10年、晋は鄭が晋に背いて楚に親しんだことを理由に再び鄭を攻めた。
- 襄公11年、楚莊王が宋を攻め、宋は晋に急を告げた。晋景公は救援を考えたが伯宗は「天は今楚を助けている、まだ討つべきでない」と諫め、代わりに壮士の解揚(字は子虎)を送り、宋に降伏しないよう偽って伝えさせた。鄭を通過した際、鄭は楚に親しかったため解揚を捕らえて楚に献じた。楚王は厚く賜って言葉を偽らせ、宋に降伏を促すよう命じ、三度要求してようやく解揚は承諾するふりをした。しかし楼車に登ると解揚は約束を裏切り、晋君の本来の命令「晋は総力を挙げて宋を救援するので降伏するな」を叫んだ。楚莊王は激怒し処刑しようとしたが、解揚は「君命を守り死んでも悔いない」と述べ、群臣の諫めもあって赦され晋に帰され上卿に任じられた。
- 襄公18年、襄公が没し子の悼公㵒が立った。
- 悼公元年、鄦公が楚に鄭を讒言し、悼公は弟の睔を楚に遣わして弁明させたが訴えは通らず睔は楚に囚われた。鄭悼公は晋と和して親交を結び、睔は楚の子反に取り入り、子反の口添えで鄭に帰された。
- 悼公2年、楚が鄭を攻め、晋が救援に来た。この年、悼公が没し弟の睔が立って成公となった。
- 成公3年、楚共王は「鄭成公は徳のある人物」と評し盟約を求め、成公は密かに応じた。秋、成公が晋に朝見すると、晋は鄭が楚と密かに和したことを咎めて成公を捕らえ、欒書に鄭討伐を命じた。成公4年春、鄭は晋の包囲を憂い、公子如が成公の庶兄繻を新たな君に立てたが、4月に晋が鄭の新君擁立を知ると成公を釈放。鄭人は成公の帰還を聞くと君繻を殺して成公を迎え、晋兵は退いた。
- 成公10年、鄭は晋との盟約に背き楚と盟約した。晋厲公は怒って鄭を攻め、楚共王が救援。晋楚は鄢陵で戦い楚が敗れ、晋は楚共王の目を射傷させ、両軍とも疲弊して退いた。成公13年、晋悼公が鄭を攻め洧水のほとりに布陣したが、鄭が城を固めて守ったため晋も退いた。
- 成公14年、成公が没し子の惲が立って釐公となった。
釐公・簡公と子産の登場
- 釐公5年、鄭の相国子駟が釐公に朝見した際、礼遇されなかったことを怒り、料理人に毒を盛らせて釐公を殺させた。諸侯には「釐公は急病で亡くなった」と報告した。釐公の子で5歳の嘉を立て、簡公とした。
- 簡公元年、諸公子が相国子駟の誅殺を謀ったが露見し、逆に子駟が公子たちを皆殺しにした。2年、晋が鄭を攻め鄭は盟約して退かせたが、冬には楚とも盟約した。子駟は誅罰を恐れ晋・楚双方に親しんだ。3年、子駟が自ら君主になろうとしたため、公子子孔は尉止に命じて子駟を殺させ自ら代わった。子孔もまた自立を図ろうとしたが、子産は「子駟の専横を誅したばかりでまた同じことを繰り返せば乱が絶えない」と諫め、子孔はこれに従い簡公の相となった。
- 簡公4年、晋は鄭が楚と盟約したことを怒って攻め、鄭は盟約に応じたが楚共王が救援し晋兵を破った。簡公は晋との和を望んだが、楚は鄭の使者を捕らえた。
- 簡公12年、簡公は相子孔の国権専断を怒って誅殺し、子産を卿とした。19年、簡公が晋に赴き衛君の帰国を求め、その功で子産に六邑を封じたが、子産は辞退して三邑のみ受けた。22年、呉の延陵季子(季札)が鄭を訪れ子産と旧知のように親しみ、「鄭の執政は驕っており難が及ぶ、政は必ずあなたに及ぶ。あなたが政を執るなら必ず礼をもってせよ、さもなくば鄭は敗れる」と忠告し、子産は季子を厚く遇した。23年、諸公子が寵を争い互いに殺し合い、子産をも殺そうとしたが、ある公子が「子産は仁人であり鄭が存続しているのは子産のおかげ、殺してはならない」と諫め止められた。
- 簡公25年、鄭は子産を晋に遣わし平公の病を見舞わせた。平公は占いに実沈・臺駘の祟りと出たが誰のことか分からず子産に尋ねた。子産は、高辛氏の二子閼伯(後に商丘に遷り商星=辰の神となる)と実沈(大夏に遷り参の神となり、その末裔が晋の始祖唐叔虞となる)の故事、また金天氏の裔子昧の子臺駘(汾・洮の治水を行い汾川の神となった)の故事を語り、これらは山川・日月星辰の神であって君の病とは直接関わらず、病は飲食・哀楽・女色から生じるものと説いた。平公と叔嚮は「博識な君子」と感服し、子産を厚く礼遇した。
- 簡公27年夏、簡公は晋に朝見。冬には楚靈王の強勢を恐れて楚にも朝見し、子産が随行した。28年、鄭君の病のため子産が諸侯の会に代わり出席し、楚靈王と申で盟約し、斉の慶封を誅する場に加わった。
- 簡公36年、簡公が没し子の定公寧が立った。秋、定公は晋昭公に朝見した。
定公から聲公まで
- 定公元年、楚の公子棄疾が靈王を弑して自立し平王となった。平王は諸侯に徳を示そうとし、靈王が侵した鄭の地を返還した。
- 定公4年、晋昭公が没し六卿が強大化、公室が衰えた。子産は韓宣子に「政は徳をもって行い、立国の由来を忘れてはならない」と説いた。
- 定公6年、鄭で火災が起き、公は禳(祈祷)で災いを払おうとしたが、子産は「徳を修めるに如くはない」と諭した。
- 定公8年、楚の太子建が鄭に亡命。10年、太子建が晋と結んで鄭を襲おうとしたため、鄭は建を殺し、建の子勝は呉に亡命した。
- 定公11年、定公が晋に赴き、晋と鄭は周の乱臣を誅して敬王を周に入れることを謀った。
- 定公13年、定公が没し子の獻公蠆が立った。獻公は13年で没し子の聲公勝が立った。この頃、晋の六卿が強大となり鄭を侵奪し、鄭は次第に弱体化した。
- 聲公5年、鄭の相子産が没した。鄭人は皆哭泣し、肉親を失ったかのように悲しんだ。子産は鄭成公の末子で、人柄は仁愛に篤く、君に忠実に仕えた。孔子はかつて鄭を訪れた際、子産と兄弟のような親交を結んでおり、その死を聞いて涙し「古の遺愛を受け継ぐ人であった」と嘆いた。
- 聲公8年、晋の范氏・中行氏が晋に反し鄭に急を告げ、鄭は救援したが、晋が鄭を攻め鉄で鄭軍を破った。
- 聲公14年、宋景公が曹を滅ぼした。20年、斉の田常が君の簡公を弑して斉の相となった。22年、楚惠王が陳を滅ぼし、この年孔子が没した。
- 聲公36年、晋の知伯が鄭を攻め九邑を奪った。37年、聲公が没し子の哀公易が立った。哀公8年、鄭人は哀公を弑し聲公の弟丑を立てた(共公)。共公3年、三晋(韓・魏・趙)が知伯を滅ぼした。共公31年、共公が没し子の幽公已が立った。幽公元年、韓武子が鄭を攻め幽公を殺した。鄭人は幽公の弟駘を立てた(繻公)。
鄭の滅亡
- 繻公15年、韓景侯が鄭を攻め雍丘を取った。鄭は京に城を築いた。
- 繻公16年、鄭が韓を攻め負黍で韓兵を破った。20年、韓・趙・魏が諸侯に列した。23年、鄭が韓の陽翟を包囲した。
- 繻公25年、鄭君が相の子陽を殺した。27年、子陽の一党が繻公駘を弑し、幽公の弟乙を君に立てた(鄭君)。
- 鄭君乙2年、鄭に属していた負黍が反乱を起こして韓に帰属した。11年、韓が鄭を攻め陽城を取った。
- 鄭君乙21年、韓哀侯が鄭を滅ぼし、その国を併合した。
史論
- 太史公は言う。「利害の一致だけで結んだ関係は、利害が尽きれば疎遠になる」との言葉があるが、甫瑕(甫假)はまさにその例である。甫瑕は劫殺という形で鄭子を廃し厲公を入れたが、厲公は結局その恩を裏切って彼を殺した。これは晋の里克の運命と何ら変わらない。節義を守り通した荀息でさえ、身を捨てても奚齊を存続させることはできなかった。事の変転がもたらす結末は、実に様々な事情によるものである。