史記卷三十六 世家第六 東樓公

要約

東樓公は夏后禹の後裔である。殷の時代には杞の地の封が絶えたり続いたりしたが、周の武王が殷の紂に勝つと禹の後裔を求めて東樓公を得、これを杞に封じて夏后氏の祭祀を続けさせた。東樓公から西樓公・題公・謀娶公・武公・靖公・共公・德公・桓公・孝公・文公・平公・悼公・隱公と代を重ね、隱公は弟の遂に弑されて釐公が立った。釐公の子湣公の代、楚の惠王が陳を滅ぼした翌年、湣公は弟の閼路に弑されて哀公が立ち、以後出公・簡公と続いたが、簡公が立って一年、楚の惠王の四十四年に杞は滅ぼされ、陳の滅亡から三十四年後のことであった。杞は小さく微弱で、その事跡は取り立てて称えるに足りないと記されている。舜・禹以来の名臣の後裔についても、陳は楚に、杞は楚に、契の後裔の宋は斉に、皋陶の後裔は楚に、それぞれ後に滅ぼされたことが併せて記され、周の武王の代にはなお千余りあった諸侯も、幽王・厲王の後は互いに力で併呑し合い、江・黄・胡・沈の類は数えきれぬほど滅んだため、いちいち記録には取り上げられていないという。太史公は、禹の功績を大なるものと称えつつも、その後裔である杞が周の代には非常に微弱であったとし、楚の惠王に滅ぼされた後は、同じく禹に連なる越王句践がその後を継ぐように興ったと結んでいる。

年表

東樓公は夏后禹の後裔で、周の武王により杞に封じられ、夏后氏の祭祀を継いだ杞の始祖。国は終始小さく振るわず、代を重ねて弑逆や政変を経た末、楚の惠王に滅ぼされて祭祀は絶えた。

年表(3件)

現代語訳全文

東樓公から靖公まで

  • 東樓公は西樓公を生み、西樓公は題公を生み、題公は謀娶公を生んだ。謀娶公は周の厲王の時代にあたる。謀娶公は武公を生んだ。
  • 武公は立って四十七年で没し、子の靖公が立った。靖公は二十三年で没し、子の共公が立った。共公は八年で没し、子の德公が立った。

德公から哀公・出公・簡公まで(杞の滅亡)

  • 德公は十八年で没し、弟の桓公姑容が立った。桓公は十七年で没し、子の孝公匄が立った。孝公は十七年で没し、弟の文公益姑が立った。
  • 文公は十四年で没し、弟の平公鬱が立った。平公は十八年で没し、子の悼公成が立った。悼公は十二年で没し、子の隱公乞が立った。
  • 七月、隱公の弟の遂が隱公を弑して自ら立った。これが釐公である。釐公は十九年で没し、子の湣公維が立った。
  • 湣公十五年、楚の惠王が陳を滅ぼした。十六年、湣公の弟の閼路が湣公を弑して代わりに立った。これが哀公である。
  • 哀公は立って十年で没し、湣公の子の敕が立った。これが出公である。出公は十二年で没し、子の簡公春が立った。
  • 立って一年、楚の惠王の四十四年、杞を滅ぼした。陳が滅んでから三十四年後のことである。

杞についての付記

  • 杞は小さく微弱であり、その事跡は取り立てて称えるに足りない。

舜・禹以降の諸国の由来

  • 舜の後裔は、周の武王が陳に封じ、楚の惠王がこれを滅ぼした。世家にその記述がある。
  • 禹の後裔は、周の武王が杞に封じ、楚の惠王がこれを滅ぼした。世家にその記述がある。
  • 契の後裔は殷となった。殷には本紀にその記述がある。殷が破れると、周はその後裔を宋に封じ、斉の湣王がこれを滅ぼした。世家にその記述がある。
  • 后稷の後裔は周となった。秦の昭王がこれを滅ぼした。本紀にその記述がある。
  • 皋陶の後裔は、あるいは英・六に封じられ、楚の穆王がこれを滅ぼした。系譜は残っていない。
  • 伯夷の後裔は、周の武王に至って再び斉に封じられ、太公望と称された。陳氏(田氏)がこれを滅ぼした。世家にその記述がある。
  • 伯翳の後裔は、周の平王の時に至って秦に封じられた。項羽がこれを滅ぼした。本紀にその記述がある。
  • 垂・益・夔・龍の後裔は、どこに封じられたか分からず、見ることができない。
  • 以上の十一人は、皆唐虞(堯・舜)の時代に功徳のある名臣であった。その中の五人の後裔は皆帝王に至り、残りは著名な諸侯となった。
  • 滕・薛・騶は夏・殷・周の間に封じられた国であるが、小さいので数えるに足りず、論じない。

周初の諸侯と後世の併呑

  • 周の武王の時、侯伯(諸侯)はなお千余りもいた。幽王・厲王の後になると、諸侯は力によって互いに攻め合い併呑した。
  • 江・黄・胡・沈の類は数えきれないほどあり、それゆえ記録に採り上げず、伝には書き記さない。

史論

  • 太史公は言う。舜の徳は至れりと言うべきである。夏に位を禅譲したが、その後の子孫の祭祀が続いたのは三代(夏・殷・周)にわたった。
  • 楚が陳を滅ぼすに至って、田常が斉で政治を得て、ついに国を建てるに至り、百代にわたって絶えることなく、その子孫は栄え、土地を有する者が絶えることがなかった。
  • 禹に至っては、周の時代には杞となったが、非常に微弱で、数えるに足りなかった。楚の惠王が杞を滅ぼした後、その後を継ぐように越王句踐が興った。