史記卷三十四 燕召公世家第四 召公奭

周と同姓で武王により北燕に封じられた召公奭。成王の代には周公旦と共に三公となり、陝を境に西方を治めて棠の木の下で政事を裁き、民に深く慕われた(甘棠の詩)。その子孫は代々燕を治め、易王の代に王を称し、昭王・楽毅の代に斉を大破して最盛期を迎えたが、末代の燕王喜の代に秦に滅ぼされるまで約800〜900年続いた。

年表(15件)
  • 莊公27年山戎の侵攻を斉の桓公が救援し、桓公の至った地を燕に割譲
  • 惠公6年寵姫の子を立てようとした惠公を大夫らが咎め、惠公は斉へ亡命
  • 文公28年蘇秦が初めて燕を訪れ合従を説き、六国合従の長となる
  • 易王
  • 10年燕君が初めて王を称する
  • 燕噲3年楚・三晋と共に秦を攻めたが敗退
  • (子之専権)3年国が大いに乱れ、太子平が子之を攻めて内紛化
  • (子之滅亡から)2年燕人が共に太子平(昭王)を立てる
  • 昭王
  • 28年楽毅を上将軍とし斉を大破、臨淄に入り斉の宝物を奪う
  • 武成王
  • 7年斉の田単が燕を伐ち中陽を落とす
  • 今王
  • 喜4年栗腹の進言で趙を攻めるが大敗し、燕都を包囲される
  • 喜12年劇辛を将として趙を攻めるが敗死
  • 喜23年秦の人質だった太子丹が逃げ帰る
  • 喜27年秦が趙王遷を捕らえ趙を滅ぼす
  • 喜29年秦が薊を攻略、燕王は遼東へ逃れ太子丹の首を秦に献じる
  • 喜33年秦が遼東を攻略し燕王喜を捕らえ、燕は滅亡する

出自と成王期の輔弼

  • 召公奭は周と同姓、姓は姬氏。武王が紂を滅ぼすと召公は北燕に封じられた。
  • 成王の時代、召公は三公の一人となり、陝を境に西を召公が、東を周公が治めた。成王がまだ幼く周公が摂政して国事を執ると召公はこれを疑い『君奭』を作った。この文は周公に不満を示すものであった。周公はこれに対し「湯王の代には伊尹が天に通じ、太戊の代には伊陟・臣扈が天帝に通じ巫咸が王家を治め、祖乙の代には巫賢が、武丁の代には甘般がいた。こうした賢臣が続いたからこそ殷は保たれた」と説き、召公は納得した。
  • 召公の西方統治は民の心をよく得た。各地を巡行し棠の木の下で訴訟や政事を裁いたため、諸侯から庶人まで各々その職分を得て怠る者がなかった。召公の没後も民は召公の政を慕い、その棠の木を惜しんで伐らず、これを歌に詠んだ。これが『甘棠』の詩である。

召公から惠侯までの継承

  • 召公から9代を経て惠侯に至る。燕の惠侯の時代は周の厲王が彘に出奔し共和が行われていた頃にあたる。
  • 惠侯が没し子の釐侯が立った。この年、周の宣王が即位。釐侯21年、鄭の桓公が初めて鄭に封じられた。36年、釐侯が没し子の頃侯が立った。
  • 頃侯20年、周の幽王が淫乱により犬戎に弒された。秦がこの時初めて諸侯に列した。24年、頃侯が没し子の哀侯が立った。哀侯は2年で没し子の鄭侯が立った。鄭侯は36年で没し子の繆侯が立った。

繆侯から莊公まで

  • 繆侯7年は魯の隱公元年にあたる。18年で没し子の宣侯が立った。宣侯は13年で没し子の桓侯が立った。桓侯は7年で没し子の莊公が立った。
  • 莊公12年、斉の桓公が覇を始めた。16年、宋・衛と共に周の惠王を伐ち、惠王は温へ出奔、惠王の弟穨が周王に立てられた。17年、鄭が燕の仲父を捕らえ惠王を周に復帰させた。27年、山戎が燕を侵し、斉の桓公が燕を救援し山戎を北伐して戻った。燕君が国境を越えて桓公を見送ったため、桓公は燕君の至った地を燕に割譲し、周への貢納と召公の法の復興を命じた。33年、莊公が没し子の襄公が立った。

襄公から惠公まで

  • 襄公26年、晋の文公が踐土の会を開き覇を称した。31年、秦軍が殽で敗れた。37年、秦の穆公が没す。40年、襄公が没し桓公が立った。
  • 桓公は16年で没し宣公が立つ。宣公は15年で没し昭公が立つ。昭公は13年で没し武公が立つ。この年、晋が三郤の大夫を滅ぼした。
  • 武公は19年で没し文公が立つ。文公は6年で没し懿公が立つ。懿公元年、斉の崔杼が君莊公を弒す。懿公は4年で没し子の惠公が立った。

惠公の亡命

  • 惠公元年、斉の高止が燕に亡命。6年、惠公は寵姫が多く、諸大夫を退けて寵姫の宋を立てようとしたため、大夫たちは共に姫の宋を誅殺し、惠公は恐れて斉へ亡命した。数年後、斉の高偃が晋に赴き燕討伐と惠公の復位を求め、晋の平公はこれを許し、斉と共に燕を伐ち惠公を復位させた。しかし惠公は帰国後まもなく没し、燕は悼公を立てた。

悼公以降、戦国期に至るまでの継承

  • 悼公は7年で没し共公が立つ。共公は5年で没し平公が立つ。この頃晋の公室は衰え六卿が強大化していた。平公18年、呉王闔閭が楚を破り郢に入った。19年、平公が没し簡公が立つ。簡公は12年で没し獻公が立つ。この頃晋の趙鞅が范氏・中行氏を朝歌に包囲していた。獻公12年、斉の田常が君簡公を弒す。14年、孔子が没す。28年、獻公が没し孝公が立つ。

三晋の台頭

  • 孝公12年、韓・魏・趙が知伯を滅ぼしその地を分け、三晋が強大化した。15年、孝公が没し成公が立つ。成公は16年で没し湣公が立つ。湣公は31年で没し釐公が立つ。この年、三晋が正式に諸侯に列した。

釐公から文公、蘇秦の来訪

  • 釐公30年、林營で斉を破った。釐公が没し桓公が立つ。桓公は11年で没し文公が立つ。この年、秦の獻公が没し秦はますます強盛となった。
  • 文公19年、斉の威王が没す。28年、蘇秦が初めて燕を訪れ文公を説いた。文公は車馬・金帛を与えて趙へ赴かせ、趙の肅侯がこれを用いた。蘇秦は六国を結んで合従の長となった。秦の惠王は娘を燕の太子妃とした。29年、文公が没し太子(易王)が立った。

易王と子之の乱

  • 易王の即位当初、斉の宣王が燕の喪に乗じて燕を伐ち十城を奪ったが、蘇秦が斉を説き十城を燕に返させた。10年、燕君が王を称した。蘇秦は燕の文公の夫人と密通し誅殺を恐れて王を説き斉に反間の計を仕掛けさせ斉を乱そうとした。易王は在位12年で没し子の燕噲が立った。
  • 燕噲の即位後、斉人が蘇秦を殺した。蘇秦は燕にいた頃、宰相の子之と姻戚関係を結び、蘇代(蘇秦の弟)も子之と親しかった。蘇秦の死後、斉の宣王は蘇代を再び用いた。燕噲3年、楚・三晋と共に秦を攻めたが勝てず退いた。子之は燕の宰相として重んじられ実権を握った。斉の使者として燕を訪れた蘇代に、燕王が「斉王はどのような人物か」と問うと蘇代は「決して覇者にはなれない」と答え、理由を問われると「臣下を信用しないからだ」と答えた。これは子之を尊重させるための策略であり、燕王は子之を深く信頼するようになった。子之は蘇代に百金を贈り自らの意のままに動かせるようにした。

燕王噲の禅譲と子之の簒奪

  • 鹿毛壽は燕王に「国を宰相子之に譲るべき。堯が天下を許由に譲り許由が受けなかったことで、堯は天下を譲った名声を得ながら実際に天下を失わずに済んだ故事がある。今、王が国を子之に譲れば、子之は必ず受けまい、それでも王は堯と同じ名声を得られる」と説いた。燕王は国を子之に委ね、子之の権勢は大いに増した。ある者は「禹は益に位を譲ったが、その後は啓(禹の子)の側近を官吏にした。老いてから、啓には天下を任せるに足りないとして益に位を伝えたが、啓とその党が益を攻めて位を奪った。世間は禹が天下を益に伝えたと言うが、実質は啓自ら奪い取ったのだ。今、王は国を子之に属すると言っても、役人は皆太子の人選による者ばかり。名目上は子之に属しても実質は太子が政を行っている」と述べた。王は300石以上の役人の印を集めて子之に渡させた。子之は南面して王事を行い、噲は老いて政務を執らず臣下同然となり、国事は全て子之が決めた。

太子平の反乱と斉の侵攻

  • 3年、国は大いに乱れ百姓は恐れおののいた。将軍市被と太子平が謀り子之を攻めようとした。斉の将たちは湣王に「この機に乗じて赴けば燕を必ず破れる」と進言した。斉王は太子平に人を遣わし「太子の義、私を捨てて公を立てようとする姿勢、君臣・父子の位を正そうとする志を聞いた。我が国は小さいので先導役にはなれないが、太子の意のままにお伝えする」と告げた。太子は徒党を集め、将軍市被が公宮を囲み子之を攻めたが破れず、逆に市被と百姓が太子平を攻め、市被は死に晒された。この内紛は数ヶ月続き死者数万に及び、民心は離反した。孟軻(孟子)が斉王に「今こそ燕を伐つべき時、文王・武王の再来の好機、逃してはならない」と説き、斉王は将軍章子に五都の兵と北方の兵を率いさせ燕を伐たせた。燕の士卒は戦意を失い城門も閉じられず、燕君噲は死に、斉は大勝した。子之が滅んで2年、燕人は共に太子平を立てた。これが燕の昭王。

昭王の招賢と楽毅の登用

  • 燕の昭王は破れた国を継いで即位すると、身をへりくだり厚遇して賢者を招いた。郭隗に「斉は我が国の乱に乗じて燕を破った。燕が小さく力弱いことは重々承知しているが、真に賢士を得て共に国を治め、先王の恥をすすぎたい。適任者があれば私自らお仕えしたい」と述べると、郭隗は「王が本気で賢士を招きたいなら、まず私(隗)から始めるべき。私程度の者が優遇されれば、私より優れた者は千里の道も遠しとせず来るはずだ」と答えた。昭王は隗のために新たに宮を築き師として仕えた。すると楽毅が魏から、鄒衍が斉から、劇辛が趙からと、士がこぞって燕に集まった。燕王は死者を弔い孤児を助け、百姓と苦楽を共にした。

楽毅の斉討伐

  • 28年、燕は富み士卒も戦意に満ちていたため、楽毅を上将軍とし秦・楚・三晋と合従して斉を伐った。斉軍は敗れ湣王は国外へ逃亡。燕軍は単独で追撃を続け臨淄に入り斉の宝物を全て奪い、宮殿・宗廟を焼いた。聊・莒・即墨の3城を除き斉の全土が6年間にわたり燕に属した。

惠王と楽毅の失脚

  • 昭王は33年で没し子の惠王が立った。
  • 惠王は太子時代から楽毅と不和であった。即位後、楽毅を疑い騎劫に将を代えさせたため、楽毅は趙へ亡命した。斉の田単が即墨で燕軍を破り、騎劫は戦死、燕軍は引き上げ、斉は旧領をことごとく回復した。斉の湣王は莒で死に、その子が立てられ襄王となった。

惠王以降、武成王・孝王・喜王の代

  • 惠王は7年で没す。韓・魏・楚が共に燕を伐ち、燕の武成王が立った。
  • 武成王7年、斉の田単が燕を伐ち中陽を落とした。13年、秦が長平で趙を破り40余万を殺した。14年、武成王が没し子の孝王が立った。
  • 孝王元年、秦が邯鄲を包囲していたが解いて去った。3年で没し子の今王喜が立った。

燕王喜と趙攻めの失敗

  • 今王喜4年、秦の昭王が没す。燕王は宰相の栗腹を遣わして趙と修好を約し、500金を趙王への酒代として贈った。栗腹は帰国後「趙の壮年は皆長平で死に、その孤児たちはまだ成人していない、今こそ趙を伐てる」と報告した。王は昌国君樂閒に問うと「趙は四方から攻められ続けた国、民は戦い慣れている、伐つべきではない」と答えた。王は「5倍の兵力で1に勝つのだ」と言い張るが「不可」と重ねて答えた。燕王は怒ったが群臣は皆賛成した。ついに二軍・戦車2000乗を発し、栗腹が鄗を、卿秦が代を攻めた。ただ大夫の將渠だけが「友好を結び500金で王に酒を献じておきながら使者の報告のみで攻めるのは不祥、成功しない」と諫めたが聞かれず、燕王自ら別働隊を率いて随行しようとした。將渠は王の綬を引いて「王自ら赴いてはならない、行けば成功しない」と止めたが、王は足で蹴った。將渠は泣いて「自分のためではなく王のために申し上げているのです」と言った。燕軍が宋子に至ると、趙は廉頗を将として鄗で栗腹を破り、樂乘は代で卿秦を破った。樂閒は趙に亡命し、廉頗は500里余りを追撃し燕都を包囲した。燕は和を請うたが趙は聞かず、將渠が交渉役に立つことを条件とした。燕は將渠を宰相として和議に当たらせ、趙もこれを容れて包囲を解いた。

秦の東方進出と燕の滅亡

  • 6年、秦が東周を滅ぼし三川郡を置いた。7年、秦が趙の榆次など37城を落とし太原郡を置いた。9年、秦王政が即位。10年、趙が廉頗に繁陽を攻めさせ落とし、趙の孝成王が没して悼襄王が立った。趙は樂乘に廉頗を代えさせようとしたが廉頗は従わず樂乘を攻め、樂乘は逃亡し廉頗も大梁へ亡命した。12年、趙の李牧が燕を攻め武遂・方城を落とした。もと趙にいた劇辛は龐煖と親しかったが燕へ逃れていた。燕は趙がたびたび秦に苦しめられ廉頗も去り龐煖が将となったのを見て、趙の疲弊に乗じようと劇辛に相談すると「龐煖など御しやすい」と答えた。燕は劇辛を将として趙を攻めたが、趙は龐煖を将として応戦し燕軍1万を破り劇辛を殺した。秦は魏の20城を落とし東郡を置いた。19年、秦が趙の鄴など9城を落とし、趙の悼襄王が没した。23年、太子丹が秦に人質として送られていたが逃げ帰った。25年、秦が韓王安を捕らえ滅ぼし潁川郡を置いた。27年、秦が趙王遷を捕らえ趙を滅ぼした。趙の公子嘉は自立して代王となった。

荊軻の刺客未遂と燕の滅亡

  • 燕は秦が六国を滅ぼそうとするのを見て、秦兵が易水に迫り禍が及ぶことを恐れた。太子丹は密かに壮士20人を養い、荊軻に督亢の地図を献じさせて秦王暗殺を図らせたが、秦王は気づき荊軻を殺し、将軍王翦に燕を攻めさせた。29年、秦は燕の薊を攻略、燕王は逃れ遼東に移り住み、丹の首を斬って秦に献じた。30年、秦が魏を滅ぼす。
  • 33年、秦が遼東を攻略し燕王喜を捕らえ、燕はついに滅んだ。この年、秦の将軍王賁も代王嘉を捕らえた。

史論

  • 太史公は言う。召公奭はまことに仁者と呼ぶべきであろう。甘棠の木でさえこれほど慕われたのだから、まして召公その人をやである。燕は外は蛮貉に迫られ、内は斉・晋という強国に挟まれ、諸侯の中で最も弱小で、幾度も滅亡の危機に瀕した。それでも社稷の祭祀を800〜900年にわたり保ち、姫姓の国々の中で最後まで滅びなかったのは、召公の功業のゆえではないだろうか。