史記卷六 秦始皇本紀
始皇帝は姓は趙氏、名は政。荘襄王の子で13歳で秦王となり、丞相李斯らを用いて六国を次々に滅ぼし前221年に天下を統一、「皇帝」の号を創始した。焚書・坑術士など統制策も行い、三十七年、巡行中の沙丘で崩じた。末子の胡亥(二世皇帝)は趙高の擁立で即位し趙高を重用したが、即位の年に陳勝・呉広の乱が起こって秦は内部崩壊に向かい、趙高一派に望夷宮で追い詰められ自殺した。
年表(24件)
- 昭王
- 四十八年始皇帝、邯鄲で誕生した
- 九年(前)前238年嫪毐の乱を鎮圧した
- 十年(前)前237年呂不韋が嫪毐の一件に連座して免職となった
- 十七年(前)前230年韓を滅ぼした
- 十九年(前)前228年趙を滅ぼした
- 二十年(前)前227年荊軻に暗殺を謀られたが逃れた
- 二十一年(前)前226年燕を破り太子丹の首級を得た
- 二十二年(前)前225年魏を滅ぼした
- 二十四年(前)前223年荊(楚)を滅ぼした
- 二十五年(前)前222年燕を完全に滅ぼし、代も滅ぼした
- 二十六年(前)前221年斉を滅ぼして天下を統一し、皇帝号を定めて始皇帝と称した
- 二十八年(前)前219年泰山で封禅を行った
- 三十二年(前)前215年蒙恬に匈奴を撃たせ、河南の地を得た
- 三十四年(前)前213年李斯の建議により書物を焼いた(焚書)
- 三十五年(前)前212年阿房宮の造営を始め、方士を弾圧して四百六十余人を生き埋めにした
- 三十七年(前)前210年巡行中、沙丘で崩じた
- 二世元年(前)前209年21歳で即位し、趙高を郎中令に重用した
- 二世元年(前)前209年趙高に唆され大臣・諸公子を誅殺した
- 二世元年(前)前209年陳勝・呉広が反乱を起こし「張楚」を号した
- 二世二年(前)前208年章邯に反乱軍を迎撃させ、陳勝・項梁・魏咎らを破った
- 二世二年(前)前208年去疾・李斯・馮劫の諫言を退け、李斯を投獄した
- 二世三年(前)前207年趙高が丞相となり李斯を処刑した
- 二世三年(前)前207年趙高が「指鹿為馬」で群臣を試した
- 二世三年(前)前207年趙高の一派に望夷宮を襲われ、自殺に追い込まれた
出自と生い立ち
- 秦始皇帝(姓は趙氏、名は政)は、荘襄王の子。荘襄王が趙に人質としてあったとき呂不韋の姫を見初めて娶り、秦昭王四十八年正月、邯鄲で始皇を生んだ。
- 13歳のとき荘襄王が死に、政が秦王となった。当時秦はすでに巴・蜀・漢中を併合し、宛を越えて郢を有し南郡を置き、北は上郡以東を収めて河東・太原・上党郡を、東は滎陽に至り東西周を滅ぼして三川郡を置いていた。
- 呂不韋が相となり十万戸に封ぜられ文信侯と号し、賓客遊士を集めて天下併合を図った。李斯は舎人となり、蒙驁・王齮・麃公らが将軍となった。王は年少で即位したばかりのため、国事は大臣に委ねられた。
元年(前前246年)
- 晋陽の反乱を将軍蒙驁が平定した。
二年(前前245年)
- 麃公が卷を攻め三万人を斬った。
三年(前前244年)
- 蒙驁が韓を攻めて十三城を取った。王齮が死んだ。蒙驁は魏の畼・有詭を攻めた。この年大飢饉。
四年(前前243年)
- 畼・有詭を陥落させたが、三月に兵を退いた。秦の人質が趙から帰り、趙の太子も帰国した。十月、蝗が東方から来て天を蔽い、天下に疫病が流行した。百姓が粟千石を納めれば爵一級を授けるとした。
五年(前前242年)
- 将軍驁が魏を攻め、酸棗・燕・虚・長平・雍丘・山陽城など二十城を取り、初めて東郡を置いた。冬に雷があった。
六年(前前241年)
- 韓・魏・趙・衛・楚の五国が共同で秦を攻め寿陵を取ったが、秦が出兵すると五国軍は退いた。秦は衛を落とし東郡に迫り、衛君角は一族を率いて野王に移り、山を頼りに魏の河内を保った。
七年(前前240年)
- 彗星が東方に現れ、のち北方・西方に見えた。将軍驁が死んだ。龍・孤・慶都を攻め、汲を攻めた。彗星は西方に十六日再び見えた。夏太后が死んだ。
八年(前前239年)
- 王弟の長安君成蟜が趙を攻める途中で反乱を起こし屯留で死に、その軍吏は皆斬られ、民は臨洮に遷された。将軍壁も死に、屯留・蒲鸇の兵も反乱を起こしその屍を戮された。黄河の魚が大量に上り、車馬が東へ食を求めた。
九年(前前238年)
- 嫪毐が長信侯に封ぜられ山陽の地を与えられ、宮室・車馬・衣服・苑囿・狩猟が意のままとなり、事の大小を問わず嫪毐が決した。河西太原郡も毐国とされた。彗星が現れ天を横切ることもあった。魏の垣・蒲陽を攻めた。四月、王は雍に宿り、己酉の日に冠礼を行い剣を帯びた。
- 長信侯嫪毐が乱を起こそうとして発覚し、王の御璽と太后の璽を偽って県卒・衛卒・官騎・戎翟の君公・舎人を発し、蘄年宮を攻めようとした。王はこれを知り、相国昌平君・昌文君に命じて嫪毐を攻めさせ、咸陽で戦って数百人を斬った。参戦者はみな爵を授けられ、宦者も同様であった。嫪毐らは敗走したが、生け捕り百万銭、殺害五十万銭の懸賞ですべて捕らえられた。
- 衛尉竭・内史肆・佐弋竭・中大夫令斉ら二十人は梟首・車裂に処され、一族は滅ぼされた。舎人も軽い者は鬼薪の刑となり、爵を奪われ蜀へ遷された者四千余家は房陵に移された。この月は寒凍で凍死者が出た。楊端和が衍氏を攻めた。彗星は西方、のち北方にも現れ斗宿から南へ八十日続いた。
十年(前前237年)
- 相国呂不韋が嫪毐の一件に連座して免職となった。桓齮が将軍となった。斉・趙が来て酒宴を設けた。斉人茅焦が秦王に「大王には母太后を遷した名があり、諸侯がこれを聞けば秦から離反する恐れがある」と説き、王は太后を雍から迎えて咸陽に入れ、甘泉宮に住まわせた。
- 大規模な捜索を行い遊説の客を逐った。李斯が上書して諫めたため逐客令は取り止められた。李斯はさらに秦王に説き、まず韓を取って他国を恐れさせるべきだと進言し、李斯を韓に派遣した。韓王はこれを憂い、韓非と共に秦を弱める謀をした。
- 大梁人の尉繚が来て秦王に、諸侯を郡県の君のように見て財物を惜しまず豪臣を賂して謀を乱すべきと説いた。秦王はこれに従い尉繚を厚遇したが、尉繚は秦王の人相(蜂準・長目・鷙鳥膺・豺声)を見て「恩少なく虎狼の心を持つ、志を得れば人を軽んじる」と評し、久しく共にいるべきでないとして逃げようとした。秦王はこれを引き留め秦の国尉とし、その計策を用いた。李斯も重用された。
十一年(前前236年)
- 王翦・桓齮・楊端和が鄴を攻め九城を取った。王翦は閼与・橑楊を攻め一軍にまとめた。翦の将たること十八日、軍中の下級者から十人に二人を従軍させた。鄴・安陽を取り、桓齮が守将となった。
十二年(前前235年)
- 文信侯呂不韋が死に、密かに葬られた。会葬した舎人のうち晋の者は追放、秦人で六百石以上は爵を奪われ遷され、五百石以下で会葬しなかった者は遷されるが爵は奪われなかった。今後国事を嫪毐・不韋のように不当に扱う者はその一族を没収するとされた。秋、嫪毐の舎人で蜀へ遷された者を赦した。この年、天下大旱で六月から八月まで雨が降らなかった。
十三年(前前234年)
- 桓齮が趙の平陽を攻め趙将扈輒を殺し十万人を斬った。王は河南に赴いた。正月、彗星が東方に現れた。十月、桓齮が趙を攻めた。
十四年(前前233年)
- 趙軍を平陽で攻め、宜安を取ってこれを破り、その将軍を殺した。桓齮が平陽・武城を平定した。韓非が秦に使者として来たが、李斯の謀により留め置かれ、雲陽で死んだ。韓王は臣従を請うた。
十五年(前前232年)
- 大規模に兵を興し、一軍は鄴に、一軍は太原に至り狼孟を取った。地震があった。
十六年(前前231年)
- 九月、卒を発して韓の南陽の地を受け取り、仮守として騰を置いた。初めて男子に年齢を書かせる法令を出した。魏が秦に地を献じ、秦は麗邑を置いた。
十七年(前前230年)
- 内史騰が韓を攻め、韓王安を捕らえ全土を接収して潁川郡とした(韓の滅亡)。地震があった。華陽太后が死んだ。民に大飢饉があった。
十八年(前前229年)
- 大規模に趙を攻め、王翦は上地から井陘に下り、楊端和は河内を率い、羌瘣は趙を伐ち、端和が邯鄲城を囲んだ。
十九年(前前228年)
- 王翦・羌瘣が趙の東陽をことごとく平定し趙王を捕らえた(趙の滅亡)。燕を攻めようと中山に駐屯した。秦王は邯鄲に赴き、かつて趙にいた母の家と仇怨のあった者をすべて生き埋めにした。秦王は太原・上郡から帰った。始皇帝の母太后が死んだ。趙の公子嘉は一族数百人を率いて代に行き自ら代王を名乗り、東の燕と兵を合わせ上谷に駐屯した。大飢饉があった。
二十年(前前227年)
- 燕の太子丹は秦兵が国に至ることを恐れ、荊軻に秦王暗殺を依頼した。秦王はこれに気づき荊軻を八つ裂きにして晒し、王翦・辛勝に燕を攻めさせた。燕・代は兵を発して秦軍を攻めたが、秦軍は易水の西で燕軍を破った。
二十一年(前前226年)
- 王賁が荊(楚)を攻めた。さらに王翦の軍に増兵し燕の太子軍を破り、燕の薊城を取って太子丹の首級を得た(燕の滅亡、燕王は東の遼東に逃れ王を称した)。王翦は病を理由に引退した。新鄭で反乱があった。昌平君は郢に移された。大雪が降り深さ二尺五寸に達した。
二十二年(前前225年)
- 王賁が魏を攻め、河溝の水を引いて大梁を水攻めにし、城壁が壊れ魏王が降伏した(魏の滅亡)。
二十三年(前前224年)
- 秦王は再び王翦を召し、強いて出陣させ荊を攻めさせた。陳から南の平輿までを取り荊王を捕らえた。秦王は郢陳まで巡行した。荊の将軍項燕は昌平君を荊王に立て、淮南で秦に反抗した。
二十四年(前前223年)
- 王翦・蒙武が荊を攻め荊軍を破り、昌平君が死に、項燕はついに自殺した(荊=楚の滅亡)。
二十五年(前前222年)
- 大規模に兵を興し王賁を将として燕の遼東を攻め燕王喜を捕らえ(燕の完全滅亡)、代を攻めて代王嘉を虜にした(代の滅亡)。王翦は荊の江南地を平定し越君を降して会稽郡を置いた。五月、天下で盛大な酒宴が行われた。
二十六年(前前221年) 天下統一と皇帝号の制定
- 斉王建とその相后勝が兵を発して西界を守り秦と国交を絶ったため、秦は将軍王賁に燕南から斉を攻めさせ斉王建を捕らえた(斉の滅亡、天下統一)。
- 秦王は丞相・御史に詔して、韓・趙・魏・荊・燕・斉の六王がそれぞれ約を破り反したため誅滅した経緯を述べ、「六王すでにその罪に伏し天下大いに定まった。今、名号を改めねば成功を称え後世に伝えることができない。帝号を議せよ」と命じた。
- 丞相隗林・御史大夫馮劫・廷尉李斯らは、五帝の地は千里に過ぎず天子は諸侯を制しえなかったが、今陛下は義兵を興し天下を平定し郡県となし法令は一統され五帝の及ばぬところであるとし、博士と議して「古に天皇・地皇・泰皇があり泰皇が最も貴い」として「秦皇」の尊号を上るよう進言した。王は「泰」を去り「皇」を用い、上古の「帝」の位号を採って「皇帝」と号することとし、命を「制」、令を「詔」、天子の自称を「朕」とした。
- 荘襄王を追尊して太上皇とした。諡法を廃止し「朕は始皇帝となり、後世は二世三世より万世に至るまで数えて伝えていく」とした。
- 始皇は五徳終始説により周は火徳、秦は周に代わり水徳とし、年始を十月朔に改め、衣服旗幟はすべて黒を尊び、数は六を紀とし、符・法冠は六寸、車幅六尺、六尺を一歩とし六頭立ての馬車を用いた。黄河を徳水と改名した。法を厳しくし赦免を減らした。
- 丞相隗林らは燕・斉・荊の地は遠いので諸子を王として立てるべきと進言したが、廷尉李斯は周が同姓を多く封じた結果かえって互いに攻撃しあい周天子は制しえなかったと述べ、郡県制の方が安寧であると論じた。始皇はこれを是とし、諸侯を立てず、天下を三十六郡に分け郡には守・尉・監を置いた。民は「黔首」と改称された。
- 天下の兵器を集めて咸陽で溶かし、鍾鐻や重さ各千石の金人十二体を鋳造した。度量衡・車軌・文字を統一した。領域は東は海と朝鮮、西は臨洮・羌中、南は北嚮戸、北は黄河に沿い陰山から遼東に至った。天下の豪富十二万戸を咸陽に移住させた。諸廟や章台・上林苑は渭水南岸に置かれ、秦は諸侯を破るたびにその宮殿を模して咸陽北阪に築き、多数の宮殿が渭水沿いに連なった。
二十七年(前前220年)
- 始皇は隴西・北地を巡行し雞頭山を経て回中を過ぎた。渭南に信宮を作り、後に信宮を極廟と改名し天の北極を象った。極廟から酈山へ道を通じ、甘泉に前殿を作った。甬道を築いて咸陽に接続させた。この年、爵一級を賜った。馳道を整備した。
二十八年(前前219年) 泰山封禅・琅邪台
- 始皇は東方の郡県を巡行し鄒嶧山に登り石を立て、魯の儒生たちと封禅を議した。泰山に登って封禅の儀を行ったが、下山の際に暴風雨に遭い、休んだ樹を五大夫に封じた。梁父山で禅の儀を行い、その辞を石に刻んだ(内容は皇帝の功徳を頌えるもの)。
- 渤海沿いに東進し黄・腄を過ぎ成山を極め之罘に登り、石を立てて秦の徳を頌えた。
- 南の琅邪に登り大いに喜び三月留まり、黔首三万戸を琅邪台下に移し十二年の税役を免除した。琅邪台を築き石刻を立てた(頌辞掲載、皇帝の功業・法度統一・書同文字などを称える)。石刻には随行した列侯・丞相・卿・五大夫らの名(武城侯王離、通武王賁、建成侯趙亥、昌武侯成、武信侯馮毋択、丞相隗林・王綰、卿李斯・王戊、五大夫趙嬰・楊樛)が刻まれた。
- 斉人徐巿らが海中に蓬萊・方丈・瀛洲の三神山があり仙人が住むと上書し、童男女を伴い仙薬を求めることを願い出て、始皇は徐巿に童男女数千人を与え海に入らせた。
- 帰路、彭城で周の鼎を泗水から引き上げようとしたが得られず、南西に淮水を渡り衡山・南郡を経て長江を下り湘山の祠に至った。大風に遭い渡れなくなり、博士に「湘君とは何の神か」と問うと堯の娘で舜の妻でここに葬られたと答えたため、始皇は怒って刑徒三千人に湘山の樹を伐らせ山を赤裸にした。南郡から武関を経て帰った。
二十九年(前前218年) 博狼沙の狙撃・之罘再訪
- 始皇は東方に巡行し陽武の博狼沙で刺客に襲われたが取り逃がし、天下に十日間の大捜索を命じた。
- 之罘に登り石刻を立てた(頌辞・東観の頌辞もあわせ掲載、皇帝の武徳・天下統一を称える内容)。琅邪に至り上党を経て帰った。
三十年(前前217年)
- 特に事なし。
三十一年(前前216年)
- 十二月、臘を「嘉平」と改称した。黔首に里ごと六石の米と羊二頭を賜った。始皇が微行で咸陽を出て武士四人と共に夜に蘭池で盗賊に襲われ危うくなったが武士が撃退し、関中で二十日間の大捜索を行った。米は一石千六百銭に高騰した。
三十二年(前前215年)
- 始皇は碣石に行き、燕人盧生に羨門・高誓(仙人)を求めさせた。碣石門に刻石を立てた(頌辞掲載)。城郭を壊し堤防を通じさせた。
- 韓終・侯公・石生に仙人不死の薬を求めさせた。始皇は北辺を巡行し上郡から入った。燕人盧生が海から帰り鬼神の事を奏上し、図書に「秦を亡ぼす者は胡なり」とあると報告した。始皇は将軍蒙恬に兵三十万を発させ北の胡(匈奴)を撃たせ、河南の地を略取させた。
三十三年(前前214年)
- かつて逃亡した者・入り婿・商人らを徴発して陸梁の地を取り、桂林・象郡・南海の三郡を置いて謫戍の民を送った。西北で匈奴を追い払い、榆中から黄河沿いに東進し陰山に至るまでを四十四県とし、黄河沿いに城塞を築いた。また蒙恬に黄河を渡らせ高闕・陶陽山・北仮中を取らせ、亭障を築いて戎人を追い払った。謫民を新県に移住させた。淫祠を禁じた。明星が西方に現れた。
三十四年(前前213年) 焚書
- 不正な獄吏を罰し、長城及び南越の地を築かせた。
- 始皇は咸陽宮で酒宴を催し、博士七十人が寿を捧げた。僕射周青臣が「陛下の威徳により郡県制のもと万世まで戦争なく続く」と頌えたところ、博士の淳于越は殷周の封建制を引き、子弟功臣を封じず郡県のみでは輔弼を欠くと反論し、周青臣を面諛の臣と非難した。
- 始皇がこの議を丞相李斯に諮ると、李斯は「時世は変わるものであり儒者は古を学び今を非難し民心を惑わす」として、秦記以外の史書、詩・書・百家語の私蔵を禁じ、三十日以内に焼却しない者は黥刑・城旦とすること、医薬・卜筮・農書のみ除外すること、法を学ぶ者は吏を師とすべきことを上奏し、始皇はこれを許可した(焚書)。
三十五年(前前212年) 阿房宮造営と方士弾圧
- 道路を整備し、九原から雲陽に至る直道を通した。始皇は咸陽の人口過多と先王の宮廷の狭さを理由に、周の文王・武王の都に倣い渭南上林苑に朝宮を造営した。前殿阿房は東西五百歩・南北五十丈、上に万人が座し下に五丈の旗を立てられる規模で、複道・閣道が南山や渭水を越えて咸陽まで連なった。隠宮・徒刑者七十余万人が阿房宮と麗山陵の造営に分けて動員された。この宮殿は後に「阿房宮」と通称された。関中の宮殿は三百、関外は四百余に及んだ。東海の朐界に石を立てて秦の東門とした。三万家を麗邑に、五万家を雲陽に移し十年間の税役を免除した。
- 方士盧生は始皇に、人主が微行して悪鬼を避ければ真人(仙人)が至るとし、居所を臣下に知られないことを求めた。始皇はこれを容れ「朕」ではなく「真人」と自称するとし、咸陽周辺二百里内の宮観二百七十を複道で連結させ、居所を漏らした者は死罪とした。丞相の車騎が多いことを咎めた際、密告した宦者を含め居合わせた者を皆殺しにし、以後行幸先を知る者はなくなった。
- 侯生・盧生は始皇の性格(剛戻自用・獄吏偏重・刑殺で威を示す・過ちを聞かず驕る)を批判し、不死の薬を求めることは不可能と判断して逃亡した。始皇は激怒し、方士らの多くが薬を得られず利益を貪っていると非難し、御史に諸生を尋問させ、禁を犯した者四百六十余人を咸陽で生き埋めにし天下に知らしめた(坑術士)。さらに謫徙の民を辺境へ送った。
- 長子扶蘇が「天下は定まったばかりで諸生は孔子の教えを奉じているのに厳法で臨めば天下が不安になる」と諫めたため、始皇は怒って扶蘇を上郡の蒙恬のもとへ監軍として送った。
三十六年(前前211年)
- 熒惑(火星)が心宿を犯した。東郡に隕石が落ち、黔首がその石に「始皇帝死而地分」(始皇帝死して地分かれん)と刻んだ。始皇は御史に調べさせたが誰も認めず、石の周辺の住民を皆殺しにし石を焼いた。
- 始皇は不快がり博士に『仙真人詩』を作らせ楽人に歌わせた。秋、関東から来た使者が華陰の平舒道を夜通ったとき、璧を持つ者が現れ「滈池君に届けよ」と言い、「今年、祖龍死す」と告げて姿を消した。使者が璧を献上すると、始皇は「山鬼は一年先までしか知らぬ」と述べ、退いて「祖龍とは人の先祖」と語った。調べるとその璧は二十八年に渡江の際に沈めた璧であった。始皇は占わせ、北河榆中への移住が吉と出て三万家を移した。爵一級を賜った。
三十七年(前前210年) 巡行と始皇の死
- 十月癸丑、始皇は出遊した。左丞相李斯が従い右丞相去疾が留守した。末子胡亥が同行を願い許された。十一月、雲夢に行き九疑山で虞舜を望祀した。長江を下り籍柯・海渚を観、丹陽を経て銭唐に至り、浙江の水波が荒く西へ百二十里迂回して渡った。会稽に登り大禹を祭り南海を望んで石を立て秦徳を頌えた(頌辞掲載、風俗の粛正・貞節の強調を含む)。
- 呉を経て江乗から渡り海沿いを北上して琅邪に至った。方士徐巿らは仙薬を得られず費用がかさんだため、「大鮫魚に阻まれる」と偽って弩弓の射手の同行を求めた。始皇は海神と戦う夢を見、博士は悪神を除くべきと占った。連弩で大魚を狙い、之罘で巨魚を射殺した。
- 平原津に至り病に倒れた。始皇は死を口にすることを嫌い群臣も言い出せなかった。病が重くなり公子扶蘇に「喪に会し咸陽で葬儀を行え」との璽書を作らせたが、封印したまま中車府令趙高の手元にとどまり使者に渡らなかった。
- 七月丙寅、始皇は沙丘の平台で崩じた。丞相李斯は外地での崩御による混乱を恐れ秘匿し喪を発さず、遺体を轀涼車に乗せ宦者を乗せて食事を運ばせ、百官の奏事も従来通り行わせた。事情を知るのは胡亥・趙高と側近の宦者五、六人のみであった。
- 趙高はかつて胡亥に文書と獄律を教え寵愛されていたことから、公子胡亥・丞相李斯と共謀し、扶蘇に宛てた本来の詔書を廃棄して丞相李斯が沙丘で遺詔を受けたと偽り胡亥を太子に立て、扶蘇・蒙恬には数々の罪を挙げて自殺を命じる偽の詔書を送った(詳細は李斯伝にあり)。一行は井陘を経て九原に至った。暑さのため轀涼車が臭ったため、一石の鮑魚を積んで臭いを誤魔化した。
二世皇帝の即位
- 直道を経て咸陽に至り喪を発した。太子胡亥が位を継ぎ二世皇帝となった。九月、始皇を酈山に葬った。始皇は即位時から酈山の造営を始めており、天下統一後は徒送の民七十余万人が動員され、地下深く三重の泉を穿ち銅で椁を固め、宮観・百官・珍器奇物を満たした。機弩矢を仕掛け近づく者を射るようにし、水銀で百川江河大海を模し機械で循環させ、天井には天文、床には地理を象った。人魚の膏を灯火とし長く消えないようにした。二世は子のない先帝の後宮の女を全て殉死させ、また工匠が機構を知ることを恐れ、埋葬完了後に中羨・外羨門を閉じて工匠を全員閉じ込め出られなくした。草木を植えて山のように見せた。
二世元年(前前209年) 陳勝・呉広の乱
- 二世は21歳で即位し、趙高を郎中令として重用した。二世は始皇廟の祭祀を厚くし、始皇を極廟として四海が貢職を献じるものとし、群臣は「始皇廟を帝者の祖廟とする」と定め、二世は自ら「朕」と称した。
- 二世は趙高と謀り、先帝が巡行して威を示したのに倣い、自らも東方の郡県を巡行し、碣石から会稽まで先帝の刻石すべてに従行した大臣の名を添え刻ませた。
- 二世は趙高を用いて法令を厳格化し、大臣・公子らを粛清すべきと趙高に唆され、これに従い大臣・諸公子を誅殺した。六人の公子が杜で戮死し、公子将閭ら兄弟三人は無実を訴えながらも自殺に追い込まれた。宗室・群臣は震え上がり、進言する者も誹謗とみなされ、群臣は保身に走った。
- 四月、二世は咸陽に戻り、先帝の未完の阿房宮を再開し、材士五万人を屯衛とし、郡県から食料・材木の供出を強要し、法をますます厳しくした。
- 七月、戍卒の陳勝らが旧楚の地で反乱を起こし「張楚」を号し、陳勝は陳の地で楚王を自称した。山東の郡県は秦吏を殺して呼応し、諸侯王を自称する者が続出した。武臣は趙王、魏咎は魏王、田儋は斉王を自称し、沛公(劉邦)が沛で挙兵、項梁が会稽郡で挙兵した。二世に反乱の報が届くと初め怒ったが、後の使者が「郡守尉が追捕中で憂うに足らず」と告げると悦んだ。
二世二年(前前208年)
- 冬、陳勝の将周章らが西進し戯に至り数十万の兵を擁したため二世は大いに驚いた。少府章邯の進言により酈山の徒を赦免し武器を与えて迎撃させ、周章軍を破り戯を退けた。二世はさらに長史司馬欣・董翳を派遣し章邯を助けさせ、陳勝を城父で、項梁を定陶で破り、魏咎を臨済で滅ぼした。章邯は北進し趙王歇らを鉅鹿で攻めた。
- 趙高は二世に「群臣と廷議すべきでない」と進言し、二世は禁中に籠り趙高と決裁するようになり、公卿は朝見の機会を失った。右丞相去疾・左丞相李斯・将軍馮劫が阿房宮工事の中止と辺境の負担軽減を進言すると、二世は堯舜・禹の質素と自己の帝王としての正当性を説いて反論し、去疾・馮劫は自殺、李斯は投獄され五刑に処された。
二世三年(前前207年) 秦の内部崩壊
- 章邯らは鉅鹿を包囲し、楚の上将軍項羽が救援に赴いた。冬、趙高が丞相となり李斯を処刑した。夏、章邯の戦況が悪化し二世が叱責すると、章邯は使者長史欣を送ったが趙高に会えず不信を深めた。項羽が秦軍を急襲して王離を捕らえ、章邯らはついに諸侯に降伏した。
- 八月己亥、趙高は乱を企て、群臣が従うか試すため鹿を献じて「馬なり」と称した(指鹿為馬)。二世が笑うと左右の者は趙高に阿って馬と答える者、鹿と正直に答える者に分かれ、趙高は鹿と答えた者を後に法で陥れた。以後群臣は皆趙高を恐れた。
- 諸侯は次々と秦吏に叛き、沛公は武関を破って西進した。趙高は責任追及を恐れ病と称して朝見を避けた。二世は不吉な夢(白虎に驂馬を噛まれる)を占わせ「涇水の祟り」とされ、望夷宮で斎戒し涇水に白馬を沈めようとしたが、その最中に趙高への譴責の使者を送った。
- 趙高は娘婿の咸陽令閻楽・弟趙成と共謀し、公子嬰を立てることを決め、閻楽に兵を率いさせ望夷宮を襲わせた。衛令を斬り宮殿に乱入、二世は左右に助けを求めたがみな逃げ散り、宦者一人のみが残った。閻楽は二世に「驕り無道の罪を天下が問うている」と迫り、二世は郡王・万戸侯・黔首としての助命を願ったがすべて拒まれ、ついに自殺した。
- 趙高は諸大臣・公子を集め、天下が縮小した今「帝」の空名は不相応として「王」に戻すべきと述べ、二世の兄の子である公子嬰を秦王に立てた。子嬰は廟見の儀の際に趙高が自分を殺そうとしていると察し、病と称して行かず、迎えに来た趙高を斎宮で刺殺し、その一族を滅ぼした。
- 子嬰が秦王となって46日、楚将沛公が秦軍を破り武関から霸上に至り降伏を求めた。子嬰は白馬素車で首に組をかけ天子の璽符を奉じて軹道のほとりで降伏した(秦の滅亡)。沛公は咸陽に入り宮室府庫を封じ霸上に軍を退いた。一月余り後に諸侯の軍が至り、項籍(項羽)が盟主となって子嬰と秦の諸公子・宗族を殺し、咸陽を屠り宮室を焼き、子女・財宝を奪って諸侯で分けた。秦滅亡後、その地は雍王・塞王・翟王の三秦に分けられ、項羽は西楚覇王として天下に王を分封した。その後五年、天下は漢に定まった。
史論
- 太史公(司馬遷)は、秦の先祖伯翳が唐虞の際に功があり土地と姓を賜り、殷夏の間は衰えたが周の衰退とともに秦は興り、繆公以来諸侯を次第に併呑してついに始皇の代に至ったと述べ、始皇は自らの功業を五帝三王に勝ると誇ったが賈誼の論評(過秦論)がその実態を正しく言い当てているとして、これを引く。
- 賈誼は、秦が山東三十余郡を併合し険阻な地形と精兵で守りを固めていたにもかかわらず、戍卒に過ぎない陳渉が数百の烏合の衆で武器も乏しいまま蜂起すると、秦の防備は機能せず山東全土が動揺して諸侯が並び立った。秦は章邯を将として東征させたが、章邯は外部と取引して秦朝廷を裏切ろうとしており、群臣の不信がここに極まった。子嬰が立っても事態を悟れなかった。もし子嬰に凡庸な程度の才があり中程度の補佐を得ていれば、山東が乱れても秦の本拠は保てたはずだと論じる。
- また賈誼は、秦の地は山河に守られた要害の国であり繆公以来二十余代にわたり諸侯の雄であったのは世々賢明だったからではなく地の利によるものだとし、かつて天下が心を一つにして秦を攻めた時も険阻に阻まれて進めず、逆に秦が百万の敵を敗走させたのも形勢の利によると分析する。秦王(始皇)が自らの才知に頼り功臣を信じず士民に親しまず、詐力を先とし仁義を後にしたことを「暴虐を天下の始めとした」と批判し、天下を取る方法と守る方法は異なるのに秦はその道を改めなかったため独りぼっちになり、滅亡は必然だったと結論づける。
- さらに賈誼は、陳渉の身分の低さ・軍の弱小さは山東六国に遠く及ばなかったにもかかわらず秦を滅ぼしえたのは、「仁義を施さず攻守の勢いが異なる」ためだと論じ、二世が即位した際にも民は疲弊し新たな主を待望していたのに、二世は先帝の非を正すどころか阿房宮を再興し刑罰を厳しくして民の窮乏を顧みなかったため、陳渉のような者でも天下が呼応したのだと述べる。安民こそが統治の要であり、危民は容易に叛くとし、「安民は共に義を行えるが危民は非を為しやすい」という言葉でこの理を結ぶ。
秦王系譜(歴代の在位年数・葬地・後継)
- 秦襄公:在位12年。初めて西畤を建てた。西垂に葬られた。文公を生んだ。
- 文公:西垂宮に居住。在位50年で死し西垂に葬られた。靜公を生んだ。
- 靜公:即位せずに死んだ。憲公を生んだ。
- 憲公:在位12年。西新邑に居住。死して衙に葬られた。武公・徳公・出子を生んだ。
- 出子:在位6年。西陵に居住。庶長弗忌・威累・参父の三人が賊を率いて出子を鄙衍で殺し、衙に葬った。武公が立った。
- 武公:在位20年。平陽封宮に居住。宣陽聚の東南に葬られた。三庶長は罪に伏した。徳公が立った。
- 徳公:在位2年。雍の大鄭宮に居住。宣公・成公・繆公を生んだ。陽に葬られた。初めて伏日の祭祀(御蠱)を行った。
- 宣公:在位12年。陽宮に居住。陽に葬られた。初めて閏月を置いた。
- 成公:在位4年。雍の宮に居住。陽に葬られた。斉が山戎・孤竹を伐った。
- 繆公:在位39年。天子より覇者の称号を授けられた。雍に葬られた。人材登用に努めた。康公を生んだ。
- 康公:在位12年。雍の高寝に居住。竘社に葬られた。共公を生んだ。
- 共公:在位5年。雍の高寝に居住。康公の南に葬られた。桓公を生んだ。
- 桓公:在位27年。雍の太寝に居住。義里丘の北に葬られた。景公を生んだ。
- 景公:在位40年。雍の高寝に居住。丘里の南に葬られた。畢公を生んだ。
- 畢公:在位36年。車里の北に葬られた。夷公を生んだ。
- 夷公:即位せずに死し、左宮に葬られた。恵公を生んだ。
- 恵公:在位10年。車里に葬られた。悼公を生んだ。
- 悼公:在位15年。僖公の西に葬られた。雍を築いた。刺龔公を生んだ。
- 刺龔公:在位34年。入里に葬られた。躁公・懐公を生んだ。その10年、彗星が現れた。
- 躁公:在位14年。受寝に居住。悼公の南に葬られた。元年に彗星が現れた。
- 懐公:晋から迎えられ即位。在位4年。櫟の圉氏に葬られた。霊公を生んだ。諸臣に囲まれ自殺した。
- 粛霊公:昭子の子。涇陽に居住。在位10年。悼公の西に葬られた。簡公を生んだ。
- 簡公:晋から迎えられ即位。在位15年。僖公の西に葬られた。恵公を生んだ。その7年、庶民が初めて帯剣した。
- 恵公:在位13年。陵圉に葬られた。出公を生んだ。
- 出公:在位2年。自殺し、雍に葬られた。
- 献公:在位23年。囂圉に葬られた。孝公を生んだ。
- 孝公:在位24年。弟圉に葬られた。恵文王を生んだ。その13年、初めて咸陽に都した。
- 恵文王:在位27年。公陵に葬られた。悼武王を生んだ。
- 悼武王:在位4年。永陵に葬られた。
- 昭襄王:在位56年。茝陽に葬られた。孝文王を生んだ。
- 孝文王:在位1年。寿陵に葬られた。荘襄王を生んだ。
- 荘襄王:在位3年。茝陽に葬られた。始皇帝を生んだ。呂不韋が相となった。元年に大赦を行い先王の功臣を修め骨肉を厚くし民に恵を施した。東周が諸侯と結んで秦を謀ったため相国不韋に討たせその国を接収したが、祭祀は絶やさず陽人の地を周君に与えた。
- 始皇(補足):献公7年に初めて市を行い、10年に戸籍を作った。孝公16年に桃李が冬に花を咲かせた。恵文王は19歳で即位し2年に貨幣を初めて発行、新生児が「秦まさに王たらん」と語る奇瑞があった。悼武王は19歳で即位、3年に渭水が三日赤くなった。昭襄王は19歳で即位、4年に初めて阡陌を開いた田制を行った。孝文王は53歳で即位した。荘襄王は32歳で即位し2年に太原の地を取った。
- 始皇帝:在位37年。酈邑に葬られた。二世皇帝を生んだ。13歳で即位した。
- 二世皇帝:在位3年。宜春に葬られた。趙高が丞相・安武侯となった。12歳で即位した。
- 秦の襄公から二世まで、合計六百十年。
後代の評(班固の賛と付記)
- 孝明皇帝十七年十月十五日乙丑の評に、周の暦運は既に移り秦が代わって位についたが呂政(始皇)は残虐であったとしつつ、諸侯を併合し三十七年にわたり制度政令を後世に伝えたのは聖人の威徳や河神の授図に類するものと評した。
- 始皇の死後、胡亥(二世)は極めて愚かで、酈山の工事も終わらぬうちに阿房宮を再開し、先君の遺策を継続した。「凡そ天下を有する貴さとは意のままに欲を極めることだ」と語り、大臣李斯・去疾を誅し趙高を用いたことは痛恨の言であったと評す。威も伐(討伐)も不足であれば虚しく滅び、残虐で命運を早めれば地の利があっても存続しえないと結論する。
- 子嬰は順当に位を継ぎ、玉冠・華紱・黄屋の車で百司・七廟に謁したが、小人が非分の地位に就けば動揺し安逸に流れるものを、独り深く考えを巡らせ父子で権を握り趙高を誅して君のために賊を討った。しかし趙高死後まもなく、婚礼の酒肴も口にせぬうちに楚兵が関中を屠り、子嬰は白馬素車で符璽を奉じて降った。河の決壊は塞ぎ直せず、魚の腐乱は元に戻せない例えのように、賈誼・司馬遷は「もし嬰に凡庸な才と中程度の補佐があれば秦の地は保てたはず」と評したが、秦の衰えはすでに土崩瓦解の域に達しており、周公旦のような才があっても施す術がなく、一日の孤立に責を負わせるのは誤りだとする。世に伝わる「秦の罪は始皇に起こり胡亥に極まる」という評は理にかなっているが、子嬰一人を責めて秦の地が保てたはずと言うのは時勢の変化を理解しない見方だとも評す。紀季が酅に降ったことを『春秋』が名を貶めずに記した例のように、子嬰が趙高を車裂きにした決断の勇と、その志を憐れむと結ぶ。