春正月 蜀主帰還と後宮の奢侈
- 正月、蜀主は長い巡幸を終えて成都へ帰った。
- 太子時代に娶った高知言の娘は寵愛を失っており、このとき実家へ返された。高知言は驚き悲しんで食を断ち、まもなく死んだ。
- 蜀主が寵愛した韋妃は、実は徐耕の孫で、母方との縁故を避けるために韋昭度の孫と偽って入宮させられた女性であった。
- 蜀主は彼女をはじめ後宮に溺れ、錦の歩障の中で毬を打ち、香を昼夜焚き、繒で山や楼閣を作っては宴飲し、禁中へ水路を通して夜舟で帰るなど、奢侈と遊楽を常とした。
正月 梁・晋の称帝問題
- 温昭図は静勝から匡国節度使へ移され、許昌を鎮した。これは趙巌との結びつきで名藩を得たものであった。
- 蜀主・呉主はしばしば晋王に書を送り、帝位に即くよう勧めた。
- 晋王はこれを臣下に示し、先王李克用がかつて「唐室再興を心とし、自ら帝を称してはならぬ」と戒めた言葉を語って、涙を流し、この議を拒んだ。
- しかし将佐や藩鎮の勧進がやまず、有司に命じて玉器・法物を整えさせた。
- そのころ魏州の僧伝真が、黄巣の乱以来寺に秘蔵されていたとされる伝国璽を献上した。晋王配下はこれを大いに賀した。
- 張承業は晋陽から魏州へ急ぎ、いま大号を建てれば、これまでの「唐のために逆賊を討つ」という大義が失われ、天下の人心が離れると強く諫めた。
- 彼は、まず朱梁を滅ぼし、唐の後裔を立て、その後に天下を一つにしてからなお譲りを受けるならば、それこそ盤石になると説いた。
- 晋王は「自分の本意ではないが、群下の願いをどうにもできない」と答えた。張承業は痛哭して晋陽へ帰り、憂いのあまり病となって起き上がれなくなった。
二月 呉改元・鎮州の変
- 呉は改元して順義とした。
- 趙王王鎔は李弘規・李藹を殺してのち、政務を子の王昭祚に委ねた。
- 王昭祚は驕慢で、李弘規に近かった者たちを皆族滅したため、親軍五百人は逃亡を相談するほど恐れた。
- 王徳明はもとより異志を抱いており、王命でお前たちを坑殺せよと命じられたが忍びない、と偽って彼らを煽った。
- その夜、親軍のうち勇敢な者が城を越えて王鎔のもとへ入り、籙を受けていた王鎔の首を斬った。府第にも火が放たれた。
- 軍校の張友順らは王徳明を留後に推し、王徳明は本姓本名の張文礼に戻って王氏一族を尽く滅ぼした。ただし王昭祚の妻である梁の普寧公主だけは残し、自らの保身に利用した。
三月 呉と呉越の捕虜交換
- 呉は呉越王銭鏐の従弟銭鎰を銭唐へ帰し、呉越も呉将李濤を広陵へ返した。これにより両国の友好はさらに固められた。
- 徐温は李濤を右雄武統軍に任じ、銭鏐は銭鎰を鎮海節度副使とした。
四月 晋の張文礼追認と梁の内乱
- 張文礼は乱の報を晋王へ告げ、勧進の牋を奉るとともに、節鉞を求めた。
- 晋王は酒宴の席でこれを聞くと杯を投げて悲泣し、討伐を望んだが、側近は梁との戦争中にさらに近くへ敵を作るべきでないと説いた。
- やむなく晋王は盧質を遣わし、成徳留後として張文礼を追認した。
- 一方、梁では陳州刺史の朱友能が反乱を起こして大梁へ向かったが、陳留で敗れて陳州に逃げ戻り、諸軍に包囲された。
五月 梁の改元と劉鄩の死
- 梁は五月朔に改元して龍徳とした。
- 劉鄩はもと朱友謙と婚姻関係があり、討伐命令を受けた際も、まず使者を送って利害を説き、すぐには進軍しなかった。
- 尹皓と段凝はこれを口実に、劉鄩は故意に逗留して援軍到着を待たせたのだと帝に讒言した。
- 梁帝はこれを信じ、劉鄩が敗れて病を理由に兵権返上を願うと、西都で療養を許すふりをして、留守の張宗奭に命じて毒殺させた。
七月 朱友能降伏と晋王の官制整備
- 七月、朱友能は降伏し、死は赦されたが房陵侯へ降封された。
- 晋王は、帝位に備えて唐の旧臣を集めようとし、朱友謙は前礼部尚書蘇循を行台へ送った。
- 蘇循は魏州の牙城に入るや殿を拝して臣下の礼を取り、翌日には勅書を書くための大筆三十枚まで献じたため、晋王は大いに喜んで河東節度副使に任じた。
- 張承業はこうした迎合を深く憎んだ。
夏秋 張文礼の不安と晋の討伐準備
- 張文礼は晋の任命を受けても内心は不安で、盧文進を通じて契丹に援軍を求め、また梁にも使いして、契丹を北から、梁を南から動かして晋を挟撃させようとした。
- 梁帝はこれに乗じて河北を回復すべきか迷ったが、敬翔は千載一遇の機だと勧めた。しかし趙巌・張漢傑らは、河上で晋軍に対するだけで精一杯なのに援軍一万を割けないとして反対し、結局見送られた。
- 晋軍は国境や河津で、張文礼の契丹・梁への密書をしばしば押収した。晋王はそれをそのまま張文礼に送り返し、張文礼を羞恥と恐怖に追い込んだ。
- 張文礼は旧趙系の将を嫌って多くを誅し、徳勝にいた符習率いる趙兵一万の帰還を求め、子を官に任じて懐柔し、金帛を贈って行営の将士にも歓心を買おうとした。
- 符習は晋王の前で泣いて帰還を拒み、旧主王鎔の仇討ちを願い出た。晋王はこれを許し、兵糧も与えた。
八月―九月 晋軍、鎮州を包囲
- 八月、晋王は符習を成徳留後とし、閻宝・史建瑭を援軍として邢洺方面から北上させた。
- ちょうど張文礼は腹の腫れ物を患っており、趙州刺史王鋋が晋に降ると、驚愕のうちに死んだ。
- 子の張処瑾は喪を秘して、韓正時らと協力して抗戦した。
- 九月、晋軍は滹沱河を渡って鎮州を包囲し、漕渠を決壊させて城を水攻めにした。深州刺史張友順も捕えられた。
- しかし史建瑭は流れ矢に当たって戦死した。
冬十月 徳勝で晋軍大勝
- 梁の北面招討使戴思遠は、晋王が鎮州攻略に気を取られていると見て、楊村の全軍で徳勝北城を急襲しようとした。
- 晋王は降兵から情報を得てこれを知り、李嗣源を戚城に伏せ、李存審を徳勝に置き、自軍の騎兵で敵を誘った。
- 梁軍が競って進むと、晋王は三千の鉄騎で猛撃し、梁軍は大敗した。戴思遠は楊村へ逃げたが、途中で晋軍の追撃と同士討ち、転落、薄氷割れなどで二万人余りを失った。
- 晋王は李嗣源を蕃漢内外馬歩副総管・同平章事に任じた。
義武で王都が父を幽閉
- 義武節度使王処直は、妖人李応之により貴相だとされた劉雲郎を養子にして王都と名づけ、節度副大使として偏愛した。
- 庶子の王郁は寵を失って晋へ逃れ、李克用の娘を娶っていた。
- 晋王が張文礼討伐を始めると、王処直は鎮定両鎮が唇歯の関係だとして赦免を求めたが、晋王は弑君は赦せぬと拒んだ。
- 王処直は鎮州が滅べば自分の定州も危ういと憂え、新州経由で契丹に王郁を通じ、国境侵犯によって鎮州包囲の圧力を減らそうとした。
- これに対して王都は、王郁に後継を奪われることを恐れ、書吏和昭訓と謀って王処直を拘束した。
- 城東での宴から帰った王処直を、新軍数百が府第で包囲し、契丹を招くなと叫んで西第に押し込めた。妻妾もともに幽閉され、中山にいた子孫や腹心将佐も皆殺しにされた。
- 王都は自ら留後となり、晋王へ報告した。晋王はそのまま王処直に代えて王都を認めた。
十月 呉の南郊
- 徐温は呉王に南郊祭祀を勧めた。礼楽も費用も未整備だと反対意見が出たが、徐温は、天を祀るのに大切なのは誠であり、唐末のような奢侈をまねる必要はないと論じた。
- 甲子、呉王は南郊を祀り、楊行密を配享した。
- 翌日大赦し、徐知誥に同平章事を加え、江州観察使とし、まもなく江州を奉化軍に改めて節度使とした。
- 徐温は寿州団練使崔太初の苛政を聞いて召還しようとした。徐知誥は、辺境の重鎮なので呼び戻せば変が起こるかもしれず、朝参の形で呼んで留めるべきだと進言したが、徐温は決断不足を怒って直ちに召還した。
十一月―十二月 鎮州攻防と契丹南侵
- 十一月、晋王は李存審・李嗣源に徳勝を守らせ、自ら鎮州を攻めた。張処瑾は弟張処琪と幕僚斉倹を送って謝罪し服従を願ったが、晋王は許さず、十日余り猛攻しても落とせなかった。
- 張処瑾は韓正時に千騎を与えて定州の王処直へ救援を求めさせたが、晋兵が行唐で追いついて斬った。
- 契丹主はもともと盧文進の求援を受けており、さらに王郁が「鎮州には美女と財宝が満ちている」と誘惑したため、全軍を挙げて南下した。舒嚕后は危険な遠征だと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 十二月、契丹軍はまず幽州を攻めたが、李紹宏が城を守った。ついで涿州を旬日で落として李嗣弼を捕え、定州へ進んだ。
- 王都は急を晋に告げ、晋王は鎮州から親軍五千を率いて救援に向かい、王思同を狼山南に置いて防がせた。
そのほかの諸国
- 高季昌は倪可福に一万人を率いさせて江陵外郭を修築した。自ら視察して進捗の遅れを杖打ちで責めたが、のちに娘を通じて銀を贈り、威を示すためだったと弁明した。
- 漢では倪曙が同平章事となった。
- 辰州・溆州の蛮が楚に侵入したが、姚彦章がこれを平定した。